【短編】ロイヤルストレートフラッシュ・シンドローム
白いテーブルクロスに、白磁に金の縁取りのティーカップ。ゆらゆら浮かんでいるダージリンの水面に、朝の陽光がくっきりと写る。取っ手に人差し指をかけ、カップを口元へ。一口、舌先を湿らすように含むと、膨らんだ香りがふんわりと鼻を抜けていった。
「つぼみ、お弁当ができたわよ」
カウンターキッチンの向こうで、ママの声。差し出されたパステルカラーのランチボックスは、流行りの薄く細長いタイプのものだ。「なんだそれは。テレビのリモコンみたいに小さいじゃないか」とパパは顔をしかめたけれど、これぐらいが私にはちょうどいい。パパが持って行くような二段組のゴツゴツしたタイプなど、恥ずかしくて広げられたものじゃない。
「お腹が空いたら、パンを買って食べなさいね」
そう言って、ママは定期的にお小遣いをくれる。購買やコンビニの袋詰めされたものでも、町のパン屋さんでトングを使って選ぶものでもない。ママが言うのは、テラス席が設けられたお洒落なカフェで、季節限定のラテと共に楽しむようなパンだ。
「ありがとう。ママ」
カバンを肩にかけ、玄関へ。全身が映る姿見の前で、最終チェック。
膝下までの紺のハイソックス。他の子より数センチ長めに調節したスカートの丈。白のブラウスに皺、染みはなく、臙脂色の細いリボンはシンメトリー。栗色の髪のつや、巻き具合。前髪の分け目。
お気に入りの垂れ目をさらにとろかすように微笑む。口角は上げすぎないように。首をわずかに傾げて。
よし、今日も大丈夫。
「行ってきます」
私、御園つぼみは、今日も無事に私をスタートさせる。
<1>
「高梨君、ってかっこいいよね」
昼休み。いつものメンバーで机をくっつけ、お弁当を食べ終えた頃、寺田さんが言った。教室の窓際に陣取った私たちの位置から、目線は廊下の方に向いている。こちらまで聞こえて来るほどの嬌声を上げ、ふざけ合っている男子の一群があった。
「高梨君って、サッカー部の?」
彩乃ちゃんが訊ねる。頷いた寺田さんは、値踏みするような目を男子達に向けたまま、口元ににんまりとした笑みを浮かべた。
「なんか、可愛くない?弟キャラっぽくて」
「えぇ、そうかなぁ」
「瑞季の言うこと、わかるかも」坂上さんが応じた。「なんか母性本能に刺さるっていうか」
「それだ!母性本能。声とか仕草が可愛いの」
「そうかなぁ」
「瑞季だったら、いけるんじゃない?」
「いける、って、彼氏にするってこと?」
「そう」
「うーん。でも付き合うのはちょっと違うかも」
「何それ、難しい」
「あくまで弟って感じ?」
「そうそう。そばに置いて愛でてたい感じ」寺田さんのにやにやは止まらない。「付き合うなら、やっぱ小海君とかかなぁ。サッカー上手いし」
「小海君はダメだよー。彩乃が怒っちゃうもん」
「え、そんな」
びく、と肩を震わす彩乃ちゃん。対して寺田さんは、不機嫌そうに口を尖らせる。
「別に彩乃のものじゃないでしょ。小学校の頃からのファンってだけで」
「まぁ、ファンっていうか……その……」
彩乃ちゃんはそこで顔を赤くして、もじもじとし始めた。坂上さんはそれを一瞥して、苦笑する。真剣に照れちゃってまぁ、といった感じだ。
「いいじゃん瑞季。弟系彼氏ってことで。高梨君にしちゃいなよ」
「弟系かぁ、ありかなー」
「ありでしょ」
「歳の差カップル的な?」
「いや、同い年だし」
「気持ち的な意味でよ」
「つぼみちゃんは、どう思う?」
坂上さんが、こちらを見る。一拍間を空け、ぼんやり顔で私は答えた。
「ごめんなさい、高梨君って、どの人だっけ」
きょとん、としたみんなの顔が、やがて三者三様に変貌する。彩乃ちゃんは満足げに笑い、坂上さんは苦笑を浮かべ、寺田さんは驚きに目を丸くする。
「えぇー、知らないの。ほら、あっちにいるじゃん」
「いっぱいいてわからないよ」
「あの子!ほら、今笑ってる」
「みんな笑ってるから」
「声出して笑ってるでしょ。瀬野君わかる?瀬野君の隣」
「ごめん、瀬野君もわからない」
これは駄目だ、と額に手をやる寺田さん。坂上さんが、心得顔でその肩を叩く。
「つぼみちゃんは、お嬢さまだから。あんたみたいに、男の子チェックに余念がない人種とは違うの」
「確かにそうかもだけれど。でも、お嬢さまでも、かっこいい人は好きでしょう。つぼみちゃんだって、いいなって思う男子の一人や二人いるに違いない」
「いや、特に……」
「ガッデム!」
「ガッデム、って何よ」
「つぼみちゃん、私たち中二だよ。彼氏とか、欲しいと思わない?」
「それも特には……」
「だから、あんたとは違うんだって。ねぇ、つぼみちゃん」
坂上さんに言われ、私は困ったように笑ってみせる。寺田さんは呆れた様子で、ため息をついた。
「彩乃、つぼみちゃんって、小学校の頃からこうなの?」
「うん。つぼみちゃんは、昔からこうだよ」
嬉しそうに微笑む彩乃ちゃん。ね、と同意を求めるようにこちらを見るので、私も微笑み返す。「ほんわかしてるわー」と坂上さんが、笑う。
小学校からの知り合いで、よく一緒にいる斉藤彩乃ちゃん。中学に入ってからは、そこに、他の小学校出身の寺田瑞季さん、坂上千歳さんが加わって、このグループが出来上がった。一年生の時は四人一緒のクラスだったが、二年になってからは彩乃ちゃんだけ別のクラスだ。それでも、こうして昼休みの時間になると私たちの教室にやって来て、四人で机を囲んでいる。
決められた班ごとに机を寄せ合っていた小学生の頃と違い、自分たちで自由に集まって昼食をとるこの時間は、校内の人間模様が浮き彫りになる。教室、廊下、中庭と思い思いの場所に、大小様々なコミュニティが夜空の星のように散らばっていて、それらが放つ光の強さもまた様々だ。さっきのサッカー部の男子たちや、教室の真ん中に陣取った化粧っ気のある女子の面々は、こうして離れていても目を引くほどに眩い。一方で、ノートを挟み絵を描きあっている女子二人組や、ひとり読書中の男子の明かりはどうにも薄暗い。中には複数のグループを行き来する彗星みたいな子もいて、なんとも多様性に富んだ光景である。
その中で、私たち四人組はと言えば、主流に属するマジョリティでも、肩身の狭いマイノリティでもない、独立国家のような平穏を手にしている。いわゆるスクールカーストや勢力図に敏感な女子社会において、その平穏は特異なものだ。そしてそれはほかでもない、私、御園つぼみの存在によるところが大きい、と思っている。
お嬢さま。
周囲が私を評する上で最も多く使われる単語が、これだ。小学生の頃から変わらない。
おそらく、一番大きいのは見た目だろう。生まれつきの白い肌や垂れ目でおっとりした顔立ち、細く茶色い髪質、華奢な体型、それら各々が与える印象が、世に言うお嬢さま像に合致するのだ。加えて、小さい頃からピアノを習っているというプロフィールもそれを補強している。「御園」と言う姓も明らかにそれらしい。家も、庭付きの豪邸というわけではないが、治安のいい住宅街に建つ一軒家で、表札の表記はローマ字、門から玄関までのスロープには、ママの趣味で植えられた四季折々の花が並んでいる。
「つぼみちゃんって、完璧なんだよなぁ」
初めて会った頃から、彩乃ちゃんはよくそう言う。仕草や、持ち物、言葉のチョイス、そうした私のディテールひとつひとつを捕まえては、「つぼみちゃんっぽい」と頷く。そしてお決まりのように「つぼみちゃんみたいになれたらなぁ」と羨んでみせるのだ。私が私の個性に自覚的になったのも、彩乃ちゃんの影響が強い。
そう、完璧なのだ。不遜でも自惚れでもなく、これは物心ついた頃から私が私を見つめ続けてきた末の結論である。
それらしい容姿、それらしい行動、それらしい環境。
生まれた頃から、私の手元に配られたカードは、役を完成させていた。そして、頭の良い人がテストでいい点がとれるように、可愛い子が男の子からモテるように、私は私の手札による恩恵を享受してきた。
それは決して大仰なものではない。重い荷物を誰かに代わってもらえたり、難しい問題に当たったらヒントをもらえたり、集合写真でいい位置を譲ってもらえたり。そういう日常の細々したシーンで受ける、ささやかな優遇だ。しかし、このささやかさも、積もり積もれば馬鹿にならない。時や場所を問わず与えられるこれらの優遇は、着実に私を取り巻く環境を快適なものにしてくれている。
中でも一番ありがたいのが、先に述べた通り、女子同士の勢力争いに巻き込まれることがない、ということだ。クラスで幅を利かせている子達から、変な妬みや嫉みを抱かれることもない。誰々ちゃん派と誰々ちゃん派のどちらに与するか、選択を迫られることもない。そうした喧騒は、まるで隣町の花火大会のように、私から遠いところにある。
側から見ていて、あれほど疲弊するものはない。その被害を被ることなく、一定のポジションをキープできている現状は、幸運だと言えよう。
「ねぇ、つぼみちゃん。聞いてる?」
寺田さんの声に、我に返る。
「ごめん、なんだっけ」
「もう。だから、あれが高梨君で、あれが瀬野君。覚えていて」
「あ、うん」
まだ続いていたのか、その話。私は促された方向を見る。廊下でふざけ合っている男子たちの群れ。何が楽しいのか、取っ組み合いをしながらも、おかしそうにお腹を抱えて笑っている。
えーっと、あの小柄な子が高梨君で、逆に背が高いのが瀬野君、か。
高梨君はともかく、確かに瀬野君は鼻筋の通った、整った顔をしている。何組の男子か気になったけれど、聞くとまた面倒な会話になりそうなので、私は黙っておいた。
<2>
家庭教師をつける、と聞かされたのは、一学期の期末テストを前にしたある日の食卓だった。
「つぼみも来年から受験でしょう。ピアノもひと段落するし、二学期から少しずつ準備を進めておいた方がいいと思うの」
まだ二学期になっていないだの、自学自習で十分だの、ピアノを止めるのは受験とは関係ないだの。ささやかな抵抗を試みた私だったが、「パパと話し合って決めたことよ」とにべもない口調で言われてしまい、従うほかなかった。自分の成績がそれほど振るわないことは認識していたし、夜中までかかる塾通いをよしとする親でないことも承知している。
すでに先生の候補も決まっているらしく、まずは今度の期末テストまでの約二週間、試験的に雇ってみて様子を見るそうだ。ここで言う「様子を見る」とはすなわち私のテストの点数で判断が下ることに他ならず、なんだか謂れのないプレッシャーを感じてしまう。
そもそも勉強が好きではない上に、面識のない人に自宅に招いてまでそれを強いられるとは。突如用意されたそのイベントは、苦手なもの同士を掛け合わせた強敵との戦いで、考えるだけで気が滅入ってしまう。
『かっこいい人だといいね!』
五行足らずを費やして綴った私の葛藤に対し、彩乃ちゃんは能天気にそう返してきた。スマートフォン上、いつもの四人組で作ったグループ用のトークルームだ。
『男の人なの!?』
寺田さんのアイコンから吹き出しが出る。
私は両手の親指を使い、ぽとぽとと文字を入力する。
『女の人だよー。N大の文学部の人』
『きた、エリート』間髪入れずに坂上さん。いつもながら打つのが速い。『しかし何故彩乃氏は男性だと思ったのか』
『恥ずかしい……』赤面のスタンプ付き。
『彩乃、意外とムッツリやねえ』
『誤解だよう!』
『そりゃま、かっこいい男がいいわな。ぐへへ』
『瑞季オヤジくさい』
プロテニスプレーヤーのラリーのように続く応酬に、なかなか入り込めない。が、そろそろ私のターンか、という頃合いで皆手を止めてくれる。そこを見計らい、また両親指でぽとぽと。
『女の人の方が緊張しなくていいかも。それでも、憂鬱だよー』
『いつから来るの?』
『私は男がいい』
『瑞季は黙りなさい』
『ぐへへ』
『笑』
ぽとぽと。
『明日』
『早!しかも土曜日』
『やさしい人だといいね』
『かっこいい人だといいね!by彩乃』
『みずきちゃん!><』
『最初は緊張するね。ではお風呂に入ります。また明日報告してくれ』
『ぐへへ』
『瑞季、私のお風呂に発情してるみたいになってる』
『by彩乃』
『私もお風呂に入るね。つぼみちゃん、ファイトー!』絵文字。
『あれ、スルー?』
文字面だけでも姦しいやりとりが終わり、私はスマートフォンを机に置く。そのまま床を蹴って、キャスター付きの椅子ごと元の位置から遠ざかった。
話を聞いてもらえるのは嬉しいのだが、どうにもあの三人のテンポは疲れてしまう。彩乃ちゃんと二人の時はそうでもなかったが、寺田さんと坂上さんが加わってからは、今のように私一人が会話に置いて行かれることが少なくない。
それでも、私が俗に言う「切られる」ことがないのは、彩乃ちゃんが私を慕ってくれていることが大きいのだろう。それはそのまま、彩乃ちゃんが「完璧」と称える私の個性のおかげとも言い換えることができる。寺田・坂上コンビにとっても、面倒ごとをブロックできる「お嬢さま」がいることは、何かと利便がいいに違いない。
「ふぅーーーっ」
得も言えないもやもやした思いがこみ上げ、息を吐き出す。同時に座ったまま、手足を伸ばしてストレッチをした。
何はともあれ、まずは家庭教師だ。おそらく、この自室で授業が行われるのだろう。だとしたら、色々と考えなくてはならない。
部屋をぐるりと見渡す。木製の学習机。その上のライトスタンド、ペン立て、ミニチュアのマスコット。教科書や学校の用具を納めた二段のカラーボックス。ハンガーにかけた制服。ベッド、白い布団、ぬいぐるみ。お気に入りの写真を留めたコルクボード。洋服ダンスに小物入れ。照明。エアコン。薄いベージュのカーテン。マーブル模様のカーペット。白い木枠の姿見。文庫本やマンガ、図鑑を納めた本棚。クローゼットの引き戸。
私は立ち上がり、本棚に近付く。その中から、ギャグテイストの強い少年漫画と、表紙は普通だが実はエッチなシーンが結構多い、高年齢向けの少女漫画を抜き出した。手にした二十冊ほどを、クローゼットの中にある箱に入れる。ママであればわからないであろうが、年齢の近い女子大生なら、背表紙のタイトルを見ただけで、それと気づかれる恐れがある。
その後もマスコットの種類を減らしたり、制服をクローゼットに戻したり、カーペットの髪の毛をとったり。気になったところを微調整していると、いつの間にか深い時間になっていた。既にお風呂に入ったところだが、軽くシャワーを浴びてから寝ることにしよう。
スマートフォンを取り、何も着信がないことを確認して、私は部屋を出た。
家庭教師の宮原さんが来たのは、約束の午後一時半ちょうどだった。
「宮原詩音です。よろしくお願いします」
玄関からそう声がして、リビングで待っていた私は居住まいを正す。「どうぞ上がってください」、「ありがとうございます」みたいなやりとりが壁越しに聞こえ始め、程なくして、ママに連れられた宮原さんが部屋に入ってきた。
「つぼみです」ママが私を指して言うと、宮原さんはこちらを見る。
「宮原です。よろしくお願いします」
細身で長身、それが際立つ黒系のシャツにタイトなパンツ姿。肩までありそうな黒髪はピッしりと後ろで縛りつけられ、右サイドだけ垂らしてある。耳に小ぶりのピアス。鼻筋が通っていて、目は切れ長。化粧はそれほど濃くないので、元々の顔立ちだろう、こざっぱりとしながら端麗な印象を受ける。手に持った白く大きなトートバックの野暮ったさが、アンバランスに映った。
宮原さんはきりり、と締まった表情のまま、じっと私を見ていた。
「つぼみ、ご挨拶なさい」
はっとして私は立ち上がり、「御園つぼみです。よろしくお願いします」とお辞儀をする。軽く頭を下げてそれに応えてくれた宮原さんは、「可愛らしいですね」と私になのか、独り言かわからない口調で呟いた。おべっかではなく素直な感想として溢れたものに感じられ、なんだか気恥ずかしくなる。
しばらくはリビングで三人、ママの入れたお茶とマドレーヌを食べながら、世間話をした。と言っても、大半はママから宮原さんへの質問コーナーだ。宮原さんは前情報の通り、N大文学部の二回生で、国文学の専攻を希望しているらしい。中学、高校とブラスバンド部に所属していて、担当はトランペット、特に中学の時は地方大会でいいところまで行ったらしい。
愛想よくにこにこと、というわけではないが、歯切れのいい受け答えと丁寧な言葉遣いが好印象だったのだろう。また、出されたお茶のカップの銘柄や、お菓子のお店を言い当てられたのもポイントが高かったに違いない。ママの表情がじわじわと安堵のそれに変わっていくのが見てとれた。雑談が終わり、私たちを部屋へ送り出す時も、「スタイルがよくて、素敵ねぇ。宝塚みたい」と上機嫌だった。
二階に上り、私の部屋に入る。立ったままでいるので椅子を勧めると、「失礼します」と宮原さんはそこに座った。いつもは空き部屋に置いている、お客さんが来た時用の椅子だ。
宮原さんは、部屋をさっと見回し、ふとベッドの上に目を留めた。
「ぬいぐるみがお好きなんですか」
「え?……あ、いえ、特には……」
確かにいくつか飾ってあるが、昔からあそこが定位置なだけで、特に思い入れはない。
「そうですか」
宮原さんは頷いて、私に向き直る。
「可愛い部屋ですね。きれいにしている」
優しい言葉の反面、表情に笑顔はない。さっきからずっとそんな感じで、雪玉が飛んできたように見えるけど当たったらマシュマロだった、みたいな不思議な感覚になる。
宮原さんはトートバックを持ち上げ、口を開いた。
「早速始めましょうか」
言われて、私も慌てて席につく。テキストも何も渡されていないので、とりあえずノートと筆記用具だけ机の上に出している状態だった。宮原さんはバインダーと三色ボールペンを取り出して、
「まずは、一学期の中間テストの問題と回答用紙を見せてもらっていいですか」
と言った。
「え」
「つぼみさんの大体の学力と、得意なところ、苦手なところを把握したいので。お願いします」
いきなりのオーダーに面食らいながらも、私はカラーボックスから、背に「二年・一学期」とラベリングされたファイルを取り出す。二年生になってからの試験問題は、そこにファイリングしていた。
ファイルの表紙を開いて差し出すと、宮原さんはじっとそれを見つめて動かなくなった。
「あの……」
「すごいですね」
「はい?」
「何人か家庭教師を担当しましたが、突然このお願いをされて、すんなりものが出てきたのは初めてです」
心底感心したトーンとは反対に、私は「はぁ」と気の抜けた返事をしてしまう。
聞けば、宮原さんはどの生徒に対しても、初日に同じオーダーを出してきたらしい。そこでどれくらい時間や手間がかかるかで、その子の学習習慣や勉強に対する姿勢がわかる、と。ここで難儀するような子に対しては、授業が進んでからも同じように、「今日学校で習ったことは」と訊ねたり、「前にこの問題を解いた時のノートを見せて」と注文を出すそうだ。それを繰り返すといつからか、生徒の方からあらかじめそうした依頼に応えられるよう、準備をしておくようになる。学校のロッカーに置きっぱなしだった教科書類が持ち帰られるようになり、歴代のノートにナンバーが振られるようになり。そうした心がけがそのままその子と勉強との距離を縮め、また学ぶことへの意識向上に繋がる、という。
「でも、つぼみさんは、試験問題をこんなにきれいにまとめて保管しています。教える側からしても、これはありがたいことです」
後は勉強を教えればいいだけですから、と言って、宮原さんはファイルを受け取り、綴じてある問題用紙をめくり出す。
胸の中に、ぽうっと、シャボン玉ができて、それが喉元に浮かんでくるような感覚を覚える。私は思わずシャツの胸元をキュッと摘んだ。
自分の席につき、左隣の宮原さんを見る。ちょうど右側の髪に隠れて、表情は見えない。高い鼻がチラチラとその頭を覗かせる程度だ。落ち着かない気持ちでそれを眺める。
宮原さんはペラペラと紙をめくり、問題と回答用紙を対照しながら、時にバインダーに挟んだルーズリーフに何かを書き込んでいく。私の視線に気づいたのか、「自由にしていていいですよ」と手を動かしながら告げてきた。
私はカラーボックスから歴史の教科書を抜き取って、無作為に開いたページを読み始めた。まだ全然習っていないところで、当然のことながら内容はよくわからない。それでも、太字になった単語を見つけては、意味もわかぬままノートに書き写していった。
「別に、スマホとかでもいいのに」
くす、と笑みを含んだようなその呟きに、思わずまた宮原さんを見る。しかし、変わらず顔は見えない。ファイルに作業を続けている。
くそう、今の顔、ちゃんと見ておけばよかった。後悔に駆られながら、私はまだ知らない歴史が記されたページに向き直った。
<3>
彩乃ちゃんに彼氏ができた、と聞いたのは、期末試験が終わって数日が経った日の放課後だった。
「報告があります」と教室の隅に集められた私と寺田さん、坂上さんに、彩乃ちゃんははにかみながらそれを告げた。
「えぇ〜!!」
「うそ、いつの間に」
寺田さんと坂上さんが色めきだつ。彩乃ちゃんは「声大きいよぉ」と窘めつつも、照れ笑いを浮かべる。
「誰、誰」
興奮気味に詰められ、「今いるかなぁ」と彩乃ちゃんは教室の窓を開けた。そちらは運動場に面しており、外のむわりとした熱気と共に、部活動の掛け声やボールの音などがノーガードで飛び込んで来る。
彩乃ちゃんは鉄製の手すりから前身を乗り出すようにした。寺田・坂上コンビもそれに覆いかぶさるように続く。私は一歩後ろから、並んだ背中の隙間を窺うようにしてみたが、何も見えない。
「うそ。運動部?彩乃が?」
「彩乃、ちょっとまさかあんた」
「うふふふふー。あ、出てきた」
「え、どれ」
「あぁ、私わかっちゃった」
「マジで?誰?千歳」
「まさかだわぁ」
「え、なんなの?まさか、って?」
「うふふふふ」
各々が首を伸ばし、二等辺三角形を作るようになっている寺田さん、坂上さんの間、彩乃ちゃんがこちらを振り向く。そして笑顔のまま、私を見て言った。
「コウミ君です」
瞬間、寺田さんの嬌声と坂上さんの拍手が弾け、その間で彩乃ちゃんがもみくちゃにされる。
コウミ君……って、あの小海君か。
……ほんとうに?
小海君は、小学校の頃から彩乃ちゃんが意中の人としていた男の子だ。私も同じクラスになったことがある。サッカーが得意で、確か当時、プロチームの育成選手かなにかだったはず。スポーツマン特有のこざっぱりしたかっこよさがあり、当時から女の子の人気も高かった。
正直、それほど目立つタイプではない彩乃ちゃんからしたら、高嶺の花だ、と思っていた。実際、小海君と彩乃ちゃんが話しているところなど、片手で数えるぐらいしか見たことがない。それが交際に至るとは、にわかには信じがたいことだった。
そもそも、彩乃ちゃんに恋人ができる、という話自体が、しっくりと来ない。我々の間で「欲しいなぁ」「できたらなぁ」と話題にのぼるその存在は、架空の世界に棲む登場人物のようなもので、こうして現実世界に輪郭を持って降り立つものだとは思いもしていなかった。
「つぼみちゃん、黙っていてごめんね」
彩乃ちゃんがこちらに近付き、私の両手を掴んでくる。
なんだろう。何を言えばいいのか。
「ううん。おめでとう。彩乃ちゃん、ずっと好きだったもんね」
思いつくままにそう返すと、彩乃ちゃんの目に薄ら涙が浮かび始めた。
「ありがとう。つぼみちゃん。私、やったよ」
ぐすん、ぐすん、と本格的にむせび始める彩乃ちゃんが、得体の知れない存在に感じられる。失礼な話だが、私はあらためて彩乃ちゃんのの目鼻立ちや体つきをまじまじと見つめ、再確認していた。しかし、どうにも突出した輝きは感じない。一体この子の何に魅力を感じて、小海君は付き合うことを決めたのだろう。
「いやぁ、もう私今日は部活休むわ」
帰宅部揃いの私達の中で一人、放送部に入っている寺田さんが言う。
「そだね。マックでも行くか」坂上さんも同意する。「今日はお祝いだね」
「お祝いという名の裁判じゃ。抜け駆けの罪で起訴するよ、私は」
「確かに。つぼみちゃんにも黙っているなんて」
坂上さんの言葉に、彩乃ちゃんの顔が曇った。
「だって、つぼみちゃん、テスト前に家庭教師がついたりでちょっと大変そうだったし……」
「ええい、言い訳は聞きたくない!ねぇ、つぼみちゃん」
不意に寺田さんに同意を求められ、私は「あ……うん」と返答に微妙な間を空けてしまう。
「ほらぁ、ショック受けてるよ。つぼみちゃん」
「え、うそ。ごめんね、つぼみちゃん」
本気で眉を潜める彩乃ちゃんに、「大丈夫だよ」と私は笑みを返す。
「行こう、お祝い」
不思議なことにまったく乗り気でないにも関わらず、それが役目であるかのように私は言い出していた。
「今日はちょっと疲れていますか」
宮原さんの声に、我に戻る。いつもの切れ長の目がこちらを見ていた。
「いえ、すみません」
「テストが終わって、一息つきたいところですもんね。でも、復習は大事です。勉強したことが、試験期間の緊張と一緒に抜け出ていかないよう、しっかり定着させましょう」
「はい」
初日から期末テストまでの二週間、ほぼ毎日宮原さんは家庭教師に来てくれた。そういう契約だったのだから当然と言えば当然なのだが、私にとってはとてもありがたいことだった。
宮原さんの教え方は的確で、今まで自分がどこがわかっていなかったのか、どういう考え方をすればわかるようになるのかを明確に示してくれた。特に苦手だった理数系においてこれが顕著で、この短期間で私はとても学力が上がったように思う。正直なところ、試験の結果にも多少の自信があるところだ。
その試験が終わってからも宮原さんはこうして「復習」のために来てくれている。これは当初の予定になかったものだ。まだ採点結果が返ってきていないので、これから先に宮原さんに教えてもらえると決まったわけではないのだが、ママもこの人を気に入っているし、何より私の意欲が上がっていると評価してくれている。そういう状況下で宮原さんから「よかったらテストの見直しもさせてください」という申し出があったものだから、二つ返事で許可が出たのだった。
宮原さんは相変わらず、きりっとした表情を崩さない。しかし、出てくる言葉は柔らかで、その対比が不思議と安心感を抱かせる。宮原さんの口にする感想や評価は、この人の冷静な判断に基づいたものだ。それが、その場しのぎの気休めとは違い、簡単には崩れない確からしさを感じさせてくれる。
家庭教師が来ると聞いて、彩乃ちゃんたちに愚痴を言っていたことが、嘘みたいだ。
そう言えば、あの時確か、彩乃ちゃんは男の人が来ると思い込んでいたんだっけ。今思えば、さもありなん、という気がしてくる。自分が渦中にいたからこそ、色恋沙汰にアンテナが向いていたというわけだ。
「駄目ですね」
「え」
「休憩をしましょう。あ、もしかしてお腹が空いていますか」
どうやら、またぼうっとしてしまっていたらしい。慌てて謝り、教材に向き直る。
「いいんですよ。集中できない時は、いっそ休んでしまった方が効率的です。少し休んで、簡単に今日やったところをおさらいして、それで本日はお終いにしましょう」宮原さんは立ち上がり、「お母様に頼んで、つぼみさんにお茶を淹れていただくようにします」と部屋から出ていった。
どうやら、授業にならないほど気もそぞろになってしまっていたらしい。確かに、今日は彩乃ちゃんの報告を聞いてから、ずっとぼんやりしてしまっている。
一体、何が私をこんなに動揺させているのだろうか。彩乃ちゃんに彼氏ができたことが、そんなに意外だったか。
どうにも自分の感情が読み取れず、悶々としてしまう。
ドアがノックされ、私は立ち上がり、それを開ける。案の定、二つのカップと、クッキーが一つずつ載ったトレイを宮原さんは持っていた。晩ご飯前だから、おやつは少量だ。
「私の分までいただいてしまいました」
そんなの、当たり前じゃないか。しかし、無表情ながら恐縮する宮原さんは、なんだか可愛らしく思えてくる。
「宮原さん、母はともかく、私にまでそんなにかしこまらなくて大丈夫ですよ」トレイを受け取り、机の上に置きながら、私は言う。「私の方が年下なんですから、敬語も使わなくて結構です」その方が嬉しいです、と続けようとして、少し躊躇った結果、「その方が、私も接しやすくて助かります」と付け加えた。
しかし、
「いえ、それはできません」
ぴしゃりと返される。
「どうしてですか」
「お金をもらってやっていることですから」
お客だから、ということだろうか。じゃあお客の言うことが聞けないのか、なんて横暴な理屈を思いつきはしたが、宮原さんのその物言いには何かしら信念めいたものが感じられ、私は「そうですか」と頷くに留めた。
「つぼみさんは、頭がいい人ですね」
「……はい?」
頭がいい?私が?
「いえ、でもそんなに成績はよくないです」
「勉強ができるというわけではありません。物わかりがいいと言うか、思慮深いと言うか。そう言う頭の良さです」言って、宮原さんは「あぁ、勉強ができない、と言っているわけではありませんよ。誤解のないように」と続けた。
「ごめんなさい。よくわかりません」
「よく考えて、行動している、ということです。大人っぽい、ということかも知れませんね」
大人っぽい。私がか。まったくもって実感はない。何が大人なのか今ひとつわからないし、それがいいことなのかも不明だ。だが、宮原さんはきっといい意味でそう言ってくれているに違いないし、宮原さんに褒めてもらえることは光栄である。
宮原さんは、カップに口をつける。今日も私の角度からは、髪に隠れて顔は見えにくい。それが一層ミステリアスな雰囲気を助長していて、思わず目を奪われてしまう。大学生なので当たり前だが、大人っぽいと言うなら宮原さんがまさにそれだ。普段接している彩乃ちゃん達と比べると、余計にそれを強く感じる。
「宮原さんは、彼氏とかいるんですか」
彩乃ちゃん達と並べて連想してしまっていたからか、思わず、そう訊ねてしまっていた。
あ、と後悔が襲ってきたが、もう遅い。宮原さんはこちらを向き、切れ長の目をぱちくりとさせる。
そして持っていたカップをトレイに戻し、ふ、と息を吐いた。
「あぁ、そういうことですか」
「……はい?」
「好きな人ができましたか?」
「へ?いや、そういうわけでは……」
「多感な時期なんですから、おかしいことではありません」
「待ってください。違います」
何故かしらすごく不名誉なことに感じて、声が大きくなる。違う。私は彩乃ちゃんや寺田さん達とは違う。そういうんじゃない。
「彼氏ができたのは、彩乃ちゃ……私の友達です。その、今日突然それがわかって、なんだか、その……」
なんだか、なんだ?言葉にできない。それがわからず、こうして思い悩んでいるのだ。
宮原さんはそんな私を見て、ひとつ頷いて見せた。
「わかりました。すみません」そして「どうぞ、お茶を飲んでください」と目線を私のカップに向ける。私がそれに口を付けるまでしっかり待って、宮原さんは続けた。
「仲のいい友達なのですか」
「……はい」
「その子に彼氏ができたのは、初めて?」
「そうです」
ここで宮原さんは一呼吸おいて、「いくつか当てずっぽうで話すので、違うなら違うと言ってください」と断りを入れた。当てずっぽう、どういうことだ。
「その友達の彼氏のことが、つぼみさんも気になっていた?」
私が、小海君を?
「いえ、それは全く。知っている子ではありましたけれど」
「でも、友達の幸せを素直に喜べないでいる」
「……元々、私が喜ぶことでもない気がします。彩乃ちゃんが幸せになったとしても、それは彩乃ちゃんの幸せなわけで……」
「あぁ、なるほど。つぼみさんはそういう考え方をする人なのですね」
「薄情でしょうか」
「薄情です。でも悪いことではありません」
含蓄のある言葉にも聞こえたが、考える間も与えずに、宮原さんは続ける。
「聞き方を変えましょう。その友達に彼氏ができて、嫌な気持ちになりましたか」
「いえ、嫌な気持ちにはなっていません。驚いたというか、そういう感じで」
「じゃあ、気持ちが落ち着けば、大丈夫そうですか」
「大丈夫、っていうのは……えっと、元通りになる、ということですか」
「いえ、元通りにはなりません。状況が変わったのだから。友達に彼氏ができたという新しい状況で、新たな日常を過ごしていくのです。それができそうですか」
新たな日常。何だそれは。
「わかりません」
「では、仮にできないとして、一番の問題は何でしょう。そのお友達との時間が減ってしまうことですか、お友達との話題に彼氏の話が出てきてしまうことですか。また、つぼみさんに彼氏ができたとしたら、それは解消されますか、それとも何も変わりませんか」
「あの、すみません。お話がよくわからなくなってきました。さっきから、これは何ですか」
突然始まった詰問の嵐に、幾分、苛立った口調になってしまう。
宮原さんは、しかし、悪びれた様子もなく「すみません」と頭を下げた。
「私には、つぼみさんが自分の抱えている感情の正体が掴めずに、苦しんでいるように見えました」
そう言って、続ける。
「ですから、少しでもつぼみさんの心情を紐解いて、それに近い言葉を言い当てられれば、気が楽になるのではないか、と思ったのです」
「近い言葉を言うだけで、気が楽になるとは思えません」
「私は、なると思っています」宮原さんは譲らなかった。「ですが、すみません。つい気が走ってしまい、不躾なことを言ってしまいました。許してください」
椅子から立ち上がり、頭を下げる。後ろで縛った黒髪が重力に負け、ぱさりと首筋に雪崩た。
「いえ、すみません。私も少し、混乱してしまって」
頭を上げ、宮原さんは私を見た。
「私はお力になれませんでしたが、是非、ご自分でも試してみてください。言葉というのは、曖昧模糊とした概念や感情に、輪郭を与えてくれるものです。輪郭が見えれば、それが何かわからずに怯えていた気持ちが、少しは和らぐと思うのです」
自分の感情に目を向け、言葉にしてみてください。噛んで含めるようにそう言って、やはり今日はもう終わりにしましょう、と宮原さんはまた頭を下げた。
<4>
久しぶりに間近で見る小海君は、記憶していた姿とは随分様変わりしていた。端的に言うと、背が伸びて体つきもよくなっていた。小学生の頃は、同年代の私が見ても感じるあどけなさがあったが、表情が引き締まり、大人っぽい顔つきに変わっていた。
「お疲れさま、小海君」
彩乃ちゃんが立ち上がり、駆け寄る。
放課後、ファーストフード店で私たち四人がテーブルを囲んでいるところに、小海君が合流する、という形だった。いつもは暗くなるまで練習しているサッカー部が、グラウンド整備のため早めに終わるということで、それならば一緒に待っていよう、との流れだ。
小海君は彩乃ちゃんと軽く言葉を交わした後、「どうも」と私たちに頭を下げた。肩にかけたスポーツバッグを床に下ろし、彩乃ちゃんの隣に座る。そこは今まで私がいたスペースで、椅子は厚かましくも隣の席から勝手に拝借したものである。狭いテーブルを挟んで、奥から彩乃ちゃん・小海君、反対側にやや弧を描くようにして、同じく奥から坂上さん、寺田さん、私という配置になった。
彩乃ちゃんが、私たちの紹介を始める。
「坂上千歳ちゃんに、寺田瑞季ちゃん。つぼみちゃんは、知ってるよね」
「うん」小海君は頷いて、「どうも」と、他二人に対するのと変わらぬ距離感で、他人行儀に頭を下げてくる。
「小海君、お腹空いてない」彩乃ちゃんが訊ねる。
「うん。腹減った」
「私、何か買ってくるよ。何がいい」
「え、いいの?」
「いいよ、それぐらい」
「じゃあ、照り焼きバーガーとコーラ」
オッケーと立ち上がりかける彩乃ちゃんを、坂上さんが制する。
「彩乃、私たちが行ってくるよ」
「え、でも……」
「ちょうどシェイク、なくなってきたところだし。瑞季もそうじゃない?」
「うん。そうだね。行こっか」
二人が椅子を引いて立ち上がる。「ごめんね」、「いいのいいの」、「金、後でいい?」、「大丈夫」。そんなやりとりに続いて、坂上さんがこちらを見る。
「つぼみちゃんも、行こう」
「え?あ、私は大丈夫。まだコーヒーあるし」
何故だろうか。坂上さんは固まったような表情になった。
「あぁっと、そうじゃなくて、ほら。さっきからポテトしか食べてないじゃん。追加で何か欲しくない?」
「いや、大丈夫だけど」
「……あ、そう。じゃあ行こう、瑞季」
「うん」
二人がカウンターの方へ向かっていく。
本当は、それこそハンバーガーを丸々一個食べられるほどお腹が空いてはいたが、ああいうのにかぶりついている姿を人に見せるのは憚られる。こういう店に来ると、私は決まってポテトやナゲットなどのサイドメニューから一品と、ホットコーヒーを頼むようにしていた。晩ご飯前にお腹がいっぱいになったり、髪や服にああいうジャンクフード特有の匂いがついたりすると、この手の店を嫌うママは不機嫌になる。最悪、いつものお小遣いが打ち止めとなる事態にもなりかねない。その対策でもあった。
「御園、久しぶり」
小海君の声に、彼を見る。「小学校以来か」と、さっきより幾分柔らかな表情になっていた。
「うん、久しぶり」
私は返す。背が高くなったね、とか、そういう言葉を続けるべきか。はて何を話そうと考えたところで、はっとする。
彩乃ちゃんを見る。案の定、恨めしそうな顔で、こちらを見つめていた。
そうか。この子らを二人きりにさせるために、坂上さん達は席を立ったのか。当然私もそれに続くものと声をかけたのだろうけれど、その意図に気がつかなかった。
今からでも、トイレに行くとでも言って、この場を離れるべきか。このタイミングでそれはあからさますぎる気もする。いや、もはやあからさまであってもよいのか。
「私も……」口を開きかけたところで、ふつ、と思いが湧き起こる。
どうして私が、そこまで気を遣わなくてはいけないのか。ここは公共の場であって、この人達のプライベートな空間ではない。この二人が一緒に注文に行けばいいのではないか。
大体、元々はこの二人の待ち合わせに私たちが付き合っていたのだ。待ち合わせが終わったのなら、二人して下校すればいいだろう。何をここに居座り始めているのだ。
彩乃ちゃんを見る。もう私を睨むことはせず、小海君との談笑に興じている。頬を上気させ、だらしない笑みを浮かべて、みっともない。
わざわざこの姿を見せびらかすためだけにここに呼ばれたのか、と思うと無性に腹立たしくなった。
私はコーヒーに口をつけ、ポテトに向き合う。すでにしなびて冷たくなっており、食べる気がしないが、無理やり口に放り込んで咀嚼を始めた。
程なくして、トレイを持った坂上さんと寺田さんが戻り、歓談が始まった。
「ていうか、ぶっちゃけ彩乃と小海君が付き合うとか、めちゃくちゃ意外なんですけれど」
「そうそう。その辺、小海君的にはどうなんですか」
「もう、やめてよ、千歳ちゃん、瑞季ちゃん」
「別に、俺としては意外でも何でもないけど」
「きゃーっ!」
「瑞季、声大きい。いや、でもこれは、きゃー!、だわ」
「ほら見て、小海君。彩乃、めっちゃ照れてる」
「照れてないよぉ」
「かんわいー」
「もう。ごめんね、小海君」
「別に」
「かっこいいなぁ。彩乃、あんたは幸せ者よ」
「ええ男やで、小海君は」
「めちゃくちゃ照り焼きバーガー食べてるけれど」
「食べっぷりも、男前やで」
「ほら、もっと召し上がれ」
「親戚のおばちゃんやで」
笑い声が弾ける。何がそんなに楽しいのか。それに、坂上さんも寺田さんも、いつもより声音が高い。かっこいい男子を前にしたなら、無条件にこうなるのだろう。友達の彼氏だとか、そんなのはお構いなしだ。もちろん、当の彩乃ちゃんだってそうである。いつも見せない、かわいこぶった仕草が目立つ。
どうしてこの人たちは、色恋の香りがすると、途端に浮き足立つのだろう。誰がかっこいいだの、誰それと誰それがくっついたのだの、そんな話題がメイントピックスを占拠していて、それをエンターテイメントのように消化している。
もはや「習性」とでも呼ぶべき彼女らのそれは、とても軽薄で、もっと言うなら下品なものに感じられた。それが今、彩乃ちゃんと小海君という身近な存在を標的とすることで、一層の生々しさを伴い、私の日常に介入している。
完璧なんだよなぁ、つぼみちゃんは。
一体、どの口が言うのか。
あなたのせいで、今、私の世界は汚されている。
「つぼみちゃん。いいよね?」
寺田さんの声に、「何?」と私は反応する。
「ええー、聞いてなかったの?」
「つぼみちゃん、ポテトに夢中すぎる件」
「あはは」
「夏祭り、みんなで一緒に行こうって話。小海君がサッカー部の男子、何人か声かけてくれるんだって」
「今のところ、瀬野君は即レスで確実に来るって。あと、多分高梨君も」
「大所帯になるよね。昨年は四人だったのに」
「あ、私浴衣買わなきゃ」
「私も今年は浴衣にしようかな。つぼみちゃんは、毎年着てるよね」
「行かない」
「え?」
ポテトはまだ残っていたが、私は手を止めて紙ナプキンで指を拭いた。
「ごめんね。夏休みは、本格的に今の家庭教師の人がついてくれると思うから、多分忙しいと思うんだ。みんなで楽しんできて」
「家庭教師、って……」
「つぼみちゃん、それマジで言ってんの?」
「うん」
何故だか涙が出そうになるのを懸命に堪えて、私は立ち上がり、カバンを肩にかけた。みんなが唖然としているそのうちに、自分の分のトレイを持って、言う。
「ごめん。今日も先生が来るから、先に帰るね」
「ちょ、つぼみちゃん」
立ち上がる彩乃ちゃんを無視して、小海君を見る。
「小海君、バイバイ。彩乃ちゃんに優しくしてあげて」
すぐに目線を切って、その場を立ち去る。言ってやった、という爽快感と、やってしまった、という後悔が、胃の中で渦巻き始める。
店内に立ち込めるジャンクフードの匂いが、いつも以上に不浄なものに思えてくる。それを振り切るように、そそくさと私は店を出た。「ありがとうございました」と追いかけてくる店員の声すら、耳に入れたくなかった。
<5>
『こんばんは。千歳です。つぼみちゃん、元気かな。突然個別に連絡してごめんね』
『この間のこと、つぼみちゃんは何を思ってあんな態度をとったのかなぁ、と気になって、お話ししたくなりました』
『私の口から言うのも変だけれど、彩乃はあの後泣いていました。自分が何か悪いことをしたのだろうけれど、それがなんなのかわからない、と言っていました』
『私も同じ気持ちです。つぼみちゃんが何が気に食わなくて、ああなっちゃったのかわかりません。でもきっと、つぼみちゃんにはつぼみちゃんの理由があるのだと思います』
『よかったら、聞かせてもらえませんか。返事はいつでも、話したくなった時で大丈夫です。きっとつぼみちゃんも彩乃にあんな態度をとって、傷ついていると思うから』
『あ、お昼も無理に外で食べなくていいからね。私と瑞季が彩乃の教室に行くようにするから。つぼみちゃんの気が向いたら来てくれる感じで大丈夫』
『ではでは』
『つぼみちゃん。こんばんは。既読スルーきついっす。苦笑』
『でもスルーされても言いたいことがあって、今日は連絡しました。ちょっと独りよがりな内容になるけれど、ごめんね』
『つぼみちゃん、今日彩乃が話しかけたけれど、あからさまに避けたよね。なんでああいう態度をとるんですか』
『彩乃はとても悩んでいて、それでも勇気を出して話しかけました。夏休みで会えなくなる前に、ちゃんと話して、つぼみちゃんの思っていることを聞いてみようとしていました。それなのに、ほとんど無視するような感じであしらって、どういうつもりなのかな』
『何か怒らせたりしたのなら、ちゃんと言ってください。このままじゃ彩乃がかわいそうです。私達も、いきなり理由も分からず距離をとられて納得できません』
『彩乃が何か悪いことをしたんですか。知らぬ間に小海君と付き合ってたことが、そんなに気に入らない?』
『違うなら違うと言って欲しいです』
『返事待ってます。私に言うのが無理なら、せめて彩乃には話して』
『こんばんは。千歳です』
『明日から夏休みだね。ちゃんと話し合えないまま、学校が終わっちゃったこと、とても悲しい』
『どうしてずっと黙ったままなんですか。正直、卑怯だと思う。一方的にこちらばかり嫌な思いをして、傷ついて。何様だ、っていう感じがします』
『私達は、この気持ちを引きずったまま夏休みを過ごすんだよ』
『こちらも一方的に言わせてもらうけれど、つぼみちゃんのそういう、自分だけは特別みたいに思っていて、周りに合わせようとしないところ、どうかと思う』
『もしかしたらおっとりしたお嬢さまキャラの特権みたいに思っているのかもしれないけれど、別にみんなつぼみちゃんを本気でお姫様みたいに特別視しているわけじゃないからね。少なくとも私達は、一人の人間として接しているつもり。だからこそ、こんだけ仲良くやってこれたんだと思う。他の人はぶっちゃけ、お高く止まっている感じがしてつぼみちゃんに絡みにくそうにしているし、実際つぼみちゃんにはその向きがあると思う』
『だから、つぼみちゃんも一人の人間として私達に接して欲しい。嫌なことがあるなら嫌だと言って。態度から察して欲しい、っていうのは、ただの甘えだよ』
『つぼみちゃんとは、対等な友達でいたいです。だから私も思ったことを書きました。言い過ぎだったらごめんなさい。でも本心です』
『返事、待ってます。来ないならもう諦める』
吹き出しの中に並んだ文面が、涙でゆらゆらと滲んだ。ベッドの上、枕を抱きしめながら、ティッシュを目に当てる。次第に、側に置いたスマートフォンが、まるで血糊が着いたナイフのように禍々しいものに思えてきて、視界に入らぬよう、畳んだ上布団の下に押し込んだ。
涙が出るのは、シンプルに坂上さんの綴った言葉の刺が痛いからだ。私は昔から、こういう剥き出しの感情表現に対して、すこぶる打たれ弱い。単純に慣れていないのだろう。「お嬢さま」の私に向けられる言葉達は、オブラードに包まれた、配慮ある言い回しであることが多い。ストレートにぶつかってこられると、慣れない生臭さにお腹を下してしまうように、感情の秩序が乱れてしまう。
しかし、それはただの条件反射のようなもので、その実、坂上さんの言っている内容自体には冷めた思いを抱いていた。
要は、急に態度が変わって意味がわからないから気持ち悪い、説明しろ、ということなのだろうが、そんなものこちらの知ったことではない。一方的だと非難されたところで、それが何だというのか。もともとこちらには、理解を得ようという心はないし、それを強制してくる姿勢こそ、一方的で傲慢なものに感じる。
彼女達と離れることで、私に生じる不利益がそれほど見当たらない。学校内のコミュニティー、その所属先がなくなりフリーになったところで、私は私だ。多少寂しい思いや不便を感じる場面はあろうけど、どちらかと言えば気楽になったように感じられる。
そう。あの子たちがいなくたって、何も問題はない。
強いて言うならば、夏祭りか。
私の住んでいる区域では、八月にお祭りが催される。神社の境内に夜店が並び、川辺では小規模ながら花火も打ち上がる。
小学校の頃は彩乃ちゃんと、中学に入ってからは四人でそれに出かけることが定番となっており、毎年ママはそのために浴衣を用意してくれている。そのママを前に、今年は夏祭りに行かなくなった、と告げるのは気が引けた。同時にまた、面倒でもある。どうしたの、と詮索されることは確実だし、正直に打ち明けるのは抵抗がある。「みんな都合が合わなくなって」と誤魔化すことも可能だが、その場合、「それならママと行きましょう」なんて展開になりかねない。とにかくママとしては、私に可愛い浴衣を着せて外に出させるのが目的なのだ。
どうせ行くなら、宮原さんとがいいな。
ふと、浴衣を着た私と、いつものパンツルックですらりとした宮原さんの並びを想像して、心が踊った。
うん。悪くない。
一度試しに、誘ってみてもいいかもしれない。
ここ一週間ほど、宮原さんは家に来ていない。通っているN大が試験期間に突入し、私への家庭教師はその間、休止になっている。
なんとかして連絡がとれないものか。ママに聞けば、携帯の番号がわかるはずだ。理由は何でもいい。勉強でわからないところがあって、とか、部屋に忘れものがあった、とか。今日もらった通知表の結果がよかったので、その報告を、でもいいかもしれない。
宮原さんと夏祭りに行く。何となしに浮かんできたそのアイデアは、思い付いてみればこの上なく魅力的なものに感じられた。人混みの中を二人で歩いて、屋台を回る。買ったものを分け合いながら、世間話をする。彩乃ちゃん達とばったり出くわしても、何も気まずいことはない。子供染みたはしゃぎ方をしている彼女たちに、宮原さんを紹介しよう。宮原さんはきっとにこりともしない。あの子たちは、どんな顔をして宮原さんを見るだろう。宮原さんと同行している私を見て、どう思うだろう。
妄想は膨らみ、さっきまでの憂鬱が嘘のように消し飛んでいく。
しかし、
「つぼみ、家庭教師はもう少し先でもいいんじゃないかしら」
ママの言葉に、一転、頭の中がブラックアウトした。
意気揚々とリビングに入ったところ、ママはそこにはおらず、キッチンで食器を拭いているところだった。手を動かしながら、私の方を見向きもしない。私が話を切り出し、宮原さんの名前を出したところで、それを遮るようにして話し始めた。
「今回、とっても成績がよかったでしょう。先生の下で少し勉強しただけで、こんなに伸びるなんて。ママ、見直しちゃった」
「先生も、コツさえ掴めばつぼみさんは大丈夫です、っておっしゃっていたし。中学に入ってから少し勉強で苦労しているように見えたけど、必要なのはきっかけだったのよ」
「だから勉強はもう少し後から頑張り始めれば、十分じゃないかしら。今はお友達と遊んだり、そういう時間を大切にしてちょうだい。三年生になれば、それも難しくなるんだから」
「ごめんね、つぼみ。ママ、変に焦っちゃったみたい。もう少し、つぼみを信じてあげなきゃだめね」
スコールのごとく襲いかかってくるママの口上が、私の体温を奪っていく。そんなことはない、先生がいないと無理だ、そんな趣旨の抗弁を試みるが、やはり梨の礫だ。終いには、どこで聞いていたのか、パパも会話に入ってきて、「どうしてそうこだわるんだ」と不機嫌そうな顔を見せてくる。こうなっては、この人達はてこでも動かない。
「お友達と遊ぶ時間を優先していいのよ。何がそんなに気に食わないの」
あなたのためを思って言っているの。幼少の頃から、事あるごとに言われてきた台詞に、私は敗北を受け入れた。
宮原さんに、もう会えない。もちろん夏祭りにも一緒に行けない。
覚束ない足取りで、私は自室に戻り、ベッドに突っ伏した。衝撃で、端に飾ってあったぬいぐるみが隊列を崩すが、直す余裕はない。
ひんやりとした塊が、胴の中、行き場を探して彷徨っているような感覚がした。一体、何にここまで気落ちしているのか。混乱のあまり、心境の整理がつかない。
感情を言葉に。宮原さんの教えが、気泡のように意識に浮かぶ。まさか、彼女を想ってのことで、それを実践する心持ちになるとは思わなかった。
宮原さん。
「……寂しい」
口にした途端、さっきまでのうっすら眼を潤すものとは違う、大粒の涙が溢れてきた。嘘つけ、少しも楽にならないじゃないか。心の中で罵倒しながら、抑えきれない滴でただただ頬を濡らした。
<6>
N大学は全国的にも有名な国立大学で、私の家からは電車を二回乗り継ぎ、降りた駅からさらに十分程度歩いた先にあった。
と、思われる、と付け加えたくなるのが現在の心境で、たどり着いたこの敷地が本当にN大学のものなのかどうか、自信がない。スマートフォンの地図アプリ上、N大学は大きな正方形に近い領域で示されており、しかもそれが二本の通りを挟んで三区画にも跨っている。位置情報が正解に反映されているのなら、今私が立っているのは北部キャンパスとやらの隅っこだ。
駅からのルートを辿り、一番近い門を選んだ結果、ここに入り込んでしまった。目の前には、木々が日陰を落とす小道がカーブして伸びており、駐輪スペースに繋がっている。その先に校舎だろうか、打ちっぱなしの建物が見えた。大学名が書かれた看板など探してみたが、見当たらない。人の気配もなく、図らずも不法侵入してきたようで、決まりが悪い。
まぁ、もともとアポイントもとっていないので、不法侵入に近いのだけれど。
じっとしていても始まらないので、とにかく歩みを進めていく。駐輪スペースを抜け、校舎までたどり着くと、『工学部3号棟』と書かれたパネルがあった。入り口らしきところから、おそるおそる中を覗くと、薄暗い廊下が左右に伸びており、正面に階段があった。
意を決して足を踏み入れる。換気扇の回る低い駆動音。屋内のひんやりした空気に混じり、どことなく薬品っぽい匂いがする。
「どうかしました?」
いきなり声をかけられ、身体がびくん、と強張った。さっきは誰もいなかった筈の右側、数メートル先にダンボールを抱えた男性が立っていた。
「あ、すいません」
「うちの学生……じゃないよね。誰か先生の娘さんかな」
男性はダンボールを抱えたまま、前屈みになり私を見る。ここの学生だろうか。細く垂れ下がった目にメガネがかかり、あまり整っていない顎鬚を生やしている。
「あの、姉がここの学生で、忘れ物を届けにきました」
こういう時のためにと、あらかじめ用意していた説明をする。しかし、男性は「ふうん」と生返事をするだけで、興味が無さそうだった。
「中学生?」
「あ、はい」
男性の視線が僅かに下がる。何となく、胸の辺りを見られている気がして、反射的に身体を捻った。
「あの、文学部はどちらですか」
「え、文学部? 中央キャンパスじゃん、それ」
中央。ここは北部だから、ブロックが違うのか。
「案内しようか」
「え? あ、いえ。結構です」
「でも、遠いよ」
「大丈夫です。ありがとうございます」
踵を返し、駆け足で、逃げるように私は来た道を戻った。
入ってきた門を出て、塀を伝って進み、一度通りを横断する。すると、ホームページのトップにあるような、いわゆる大学らしい光景がそこにあった。大きく開いた門の向こう、正面に時計台、手前には芝生の広場が広がり、石碑にN大学の名が刻まれている。まばらだが、電話をしながら歩いたり、ベンチに座って本を読んだりしている人影もちらほらと見えた。
しかし、それでも人が少ない。試験期間中というのはこういうものなのか、拍子抜けするほど閑散としている。通り過ぎる人達から宮原さんらしい姿を探してみるものの、まるでそれらしい人は現れない。
地図アプリを見る。中央キャンパス、と当たりはついたものの、やはり敷地は広大だ。この中から特定の個人を見つけ出すのは、至難の技に思えた。
宮原さんに会いに行こう、と思い立ったのは、何をどうしようという、確たるビジョンがあったからではなかった。もはや、夏祭りにお誘いする気概もない。ただ、このまま顔も合わせぬまま彼女と離れてしまうのは堪え難かった。
会いたい。会って、何かを話したい。そうすれば、この閉塞的な現状を打破できるのでは、と、根拠のない期待を込めての行動だ。
しかし、これは厳しい。
大学まで行けば会えるだろう。いざとなれば、門で待ち伏せすればいい。そんな短絡的な考えでここまで来てしまったが、どうやら甘かったようだ。そもそも、今日この時間に、彼女がここにいる確証すらないのだ。そんなことにすら思い至らなかった、自分の馬鹿さ加減に恥ずかしくなる。
それでももしかしたら、という望みを抱えながら、当て所なく構内をうろつく。蝉時雨が降る中、できるだけ日陰を選んでいるものの、まとわりつく熱気に汗が止まらなかった。
建ち並ぶ校舎の間をS字に抜ける。さらに歩みを進めると、不意にひんやりとした空気が二の腕に当たった。見たところ食堂だろう、庇の下、設けられたテラス席の奥にガラス張りの建物があり、そこから冷房の風が漏れ出ている。吸い寄せられるようにそこに足が向き、テラス席の一つに腰掛けた。テラスに人はいないが、ガラス戸の向こうにはお盆を持った学生がちらほら見える。隅にある、できるだけ彼ら彼女らの死角になるような席を選んだ。
足の裏から、じんじんと痛みが伝わってくる。それまで肌の上に留まっていた汗が、筋になって頭から垂れてきた。
さすがに潮時かもしれない。
どこかで飲み物を買って、水分補給をしたらもう帰ってしまおう。そう思い立った時だった。
食堂の入り口から、数人のグループが出てきた。なんとなく派手で不良染みた雰囲気のある一団だった。男女が入り混じり、ごつごつした、楽器ケースらしきものを背負っている人もいる。
その中の一人、長身で、襟足に薄い金のハイライトが入ったメンバーに目が留まった。
細い首にはチョーカー。襟首の開いた、ワンピースに近いサイズの白いTシャツ。そこから伸びる、やや暴力的なほどにダメージ加工された黒タイツ。足元は、この猛暑の中、黒いブーツを履いていた。
「うそ」
思わず立ち上がった私に、その一団も反応する。私が見つめていた、その長身の女性もまたこちらを向き、そして切れ長の目を大きく見開いた。
「え、なんでいんの?」
嘘ではなかった。私の探し人である宮原さんが、私が知る彼女とはまるで違う出で立ちでそこに立っていた。
「ん」
差し出されたのは、自販機で売っているミネラルウォーターだった。ペットボトルの表面に、水滴が浮かんでいる。礼を言って受け取り、口を開いて喉に流し込むと、潤いと清涼感で幾分か心が落ち着いていく。
わけがなかった。
目前の宮原さんを見る。いわゆるバンギャと言うのだろうか。そういう系統の服を扱う店でしか手に入らないような、独特な装いに身を包んでいる。化粧も濃く、いつものこざっぱりした印象とは程遠い。すでに雇用関係にないからだろうか、口調も、これまでの丁寧さは皆無と言ってよかった。
広い構内で奇跡的に宮原さんに会えたことと、その宮原さんが見知った姿と乖離していたことのダブルパンチで、動揺がおさまらない。
「しかし、よく来たね。遠かったでしょ」
宮原さんもまた、清涼飲料水の蓋を開け、口に含んだ。
テラス席の中でも、食堂の風がよく当たる涼しい場所に移動し、私たちは向かい合っている。他のメンバーを先にやり、宮原さんだけ残ってくれた格好だ。
「すみません、突然」
「うん。突然は困る」
きっぱりと言われ、ぐうの音も出ない。それはそうだ。いきなり訪ねてくるなど、非常識以外の何物でもない。
「どうしたの。何かあった?」
「あ、いえ、その……」考える。当然来る質問だろうに、確たる答えを用意せぬまま来てしまった。「辞めてしまわれると聞いて。きちんとご挨拶できないままでしたので」
「あぁ、そうだ。君のところはクビになっちゃったんだ」
「あ、すみません」
「君が謝ることじゃないけど。正直、残念だな」
「え?」残念、という言葉にどきりとする。
「いや、もうクビになったから言うけれど、君の家、綺麗だったしさ。お菓子も出してくれるし。そうじゃない家もあるんだよ。同じ給料でも、派遣先によって当たり外れがあるわけ」
随分とあけすけな物言いに面食らってしまう。本当にあの宮原さんだろうか、と疑わしくなるほどだ。
だが、
「君も覚えの早い生徒だったから、教える側としても楽だった」
そう言われると、自ずと顔が綻んでしまう。
しかし暑いな、とペットボトルに口をつける宮原さん。カップでお茶を飲む姿とは違い、ワイルドな魅力がある。同時に、そうした仕草の中にもどこか繊細さが感じられ、そのギャップが言いようもなくセクシーだ。蓋を閉める指にさえ色気のようなものを感じ、同性ながらどぎまぎする。
「あの、驚きました。最初お見かけしたとき、全然雰囲気が違っていらして」
「あぁ、これね」宮原さんは自分の胸元辺りを覗くようにする。「バンドをやっててさ。今日は試験最終日だったから、これから練習。久々で気合入れてるだけで、普段はもうちょいラフかな」
「バンド……」
確かにその単語は、今の彼女のファッションと親和性が高い。
昔、吹奏楽をやっていた話は聞いたが、その延長だろうか。そこまで音楽好きな気配も、家庭教師をしている中では微塵も感じられなかった。
どんどんと新たな一面が露わになり、頭の処理が追いつかない、古い「宮原さん像」の解体作業と、新しい「宮原さん像」の建設を並行してやっている気分だ。
「私、知りませんでした。宮原さんがこういう方だった、って」
「こういう方?」
「髪の毛にハイライトを入れたり、バンドをしたり」私は答える。「黒髪をぴっちりまとめて丁寧に喋るお姿しか存じ上げませんでしたけれど、こっちが本当の宮原さんなんですね」
てっきり、頷きが返ってくるかと思ったが、しかし、宮原さんは目をぱちくりとさせ、腑に落ちない、と言った風に口を曲げた。そして、「あぁ、なるほどね」と、ため息を吐く。どことなく不服そうな物言いだった。
「君さ」
言って、宮原さんは前髪を掻き上げる。腕越しに覗く目線が、鋭利に私を刺す。
「君、自分というものを画一的に捉えすぎなんじゃないのかな」
「……画一的?」
うん、とそこで間を空けて、宮原さんは一度飲み物に口をつける。どういう風に話そうか、と思案しているようにも見えた。
「今君の目の前にいる私と、家庭教師をしていた私、どちらが本物でどちらが偽物だという話はないよ。ただTPOに合わせて、服や態度を変えているだけだ」
「TP……なんですか?」
「あぁ、ごめん。わからないか。時と場合に合わせて、という意味」
投げやりにも聞こえる、大雑把な説明。噛んで含めるようだった家庭教師の時とは、正反対だ。
「確かに私はそうしたオンオフが激しいタイプではあるけれど、何かを偽ったり、装ったりしているつもりはない。オンオフというより、チャンネルの切り替えと言った方が近いかもしれない」
伝わる?と聞かれて、私は頷く。感覚的にだが、言わんとしていることはわかった。
「それで、君の話だけれども。どうにも君は自分のチャンネルをひとつだと思い込んでいる節がないかな」
そうなのだろうか。そもそも、そういう風に考えたことがないので、よくわからない。
「短い付き合いだったけれど、可愛くてお淑やか、みたいなイメージを半ば無意識に守ろうとしているように、私には見えたよ。もちろんそれは君の本質ではあろうけれど、人の振れ幅はもっと大きい。そうじゃない君もたくさんいるはずだ。そして君が思う以上に、周りの人もそれに気付いているんじゃないかな。一番気付いていないのは……」
宮原さんは、目だけをちらりと私に向けて、言った。
「もしかしたら、ご両親かもしれない」
中学生の家庭教師をしているとね。宮原さんは続ける。
「生徒の部屋に入ると、自分の意思で買ったものと、親から一方的に買い与えられたものが、混在していることが多い。そこからなんとなく、その子と両親の関係性なんかも読み取れたりする。君の部屋もそうだったよ。例えばベッドに置いていたぬいぐるみなんかも、君の趣味じゃないだろう。だけど君は大事に、いや違うな、ちゃんと部屋に入った誰かしらに見えるように、あれらを飾っていた」
ぬいぐるみがお好きなんですか。
初めて私の部屋に入ったとき、たしか宮原さんはそう訊ねてきた。
今思うと、あれはそんな思索を経ての問いかけだったのかもしれない。
別に非難しているわけではないよ。宮原さんは言う。
「誰だって、自分を庇護する存在に対しては、気に入られようと意識をするさ。でもね、誰かが求める君の形に、無理に当てはまろうとすることはない。特に君の場合は、天然ではまっちゃってる部分が多分にありそうだから、余計にその傾向が強いのだろうけれど」
天然で。
「私、お嬢さまとよく言われます」
反射的にそう口にしていた。
宮原さんは虚を突かれたような顔をして、しばし固まる。やがて力が抜けたように。ふ、と目を細めた。
「なるほど。確かにそう見えなくもない」何が可笑しいのか、そこでくすりと微笑む。「でもね、お嬢さまは、そんな感じにはならないよ」
そんな感じ。
それが何を指すのか、明確な説明はない。それでも何か重大な欠陥を言い当てられたようで、羞恥に似た感情が、背骨を駆け上がってくるのを感じた。
きっとそれは、汗だくになるまで歩き回ることだったり、思いつくままに人を訪ねることだったり、気分に任せ友人の幸せに水を差すことだったり。今の私にこびりついている、様々を指すのだろう。
お嬢さまは、「そんな感じ」にならない。
私みたいには、ならない。
「確たる人物像なんて、追い求めるもんじゃない。思い描くのはいいけれど、下書き程度にしておきな。遊びを残しておかないと、君が君ではいられなくなる」
あるべき形にあろうとする余り。
自分らしくあろうとする余り。
逆説的に、それらが叶わなくなってしまうことがある。
宮原さんの言葉には、その実、すぐには理解できない内容も多かったが、しかしこれを私は一言一句忘れることはないだろう、という予感があった。
「私は」
口を開く。
「私は、どうしたらいいでしょうか」
宮原さんは私を見て、続いて天を仰ぐように上半身を反らせる。そのまま目を閉じ、しばらく動かない。鳴り止むことのない蝉時雨を、シャワーのように浴びているようにも見えた。
「好きにしたらいい。自分らしいことも、自分らしくないことも、好きに」
そうすれば、そんな思いつめた顔で私を訪ねてくることもなくなるさ。そう言って、宮原さんは軽く笑った。
<7>
「そう言えば、つぼみ、瀬野君のこと振ったって本当?」
放課後、いつものファーストフード店。シェイクのストローを口の端に差しながら、坂上さんが聞いてくる。私は頷き、期間限定のなんとかバーガーを頬張った。
「えぇ、どうしてよ。もったいない!」
寺田さんがしかめ面をする。
「らってぇ」咀嚼を続けながらなので、濁音をうまく発音できない。飲み込み、続ける。「一回映画行ったとき、あの人、上映中に手握ろうとしてくるんだもん」
「めちゃくちゃいいじゃん」
「でも、すごくいいシーンで手を伸ばしてくんの。いや、観ろよ映画、って思っちゃう」
「あー、確かに。エンタメに不誠実な男は駄目だわ」
坂上さんが同調するが、寺田さんは不服そうだ。
「でも瀬野君だよ。映画はDVDになるけど、瀬野君はならないんだよ」
「いや、そういう話をしてるんじゃないの」
「そういう話だよ。映画より男の子でしょうが」
「瑞季はそうでしょうね」私はわざとらしく、優雅に微笑む。「でもほら、私お嬢さまだから」
「出たよ。つぼみの自分で言っちゃうやつ」
「あはは」
ていうか瀬野君のDVDって何。わかんない。あったらちょっと欲しいんですけど。会話を横に、バーガーの残りを平らげ、コーラを吸い込み、紙ナプキンで手を拭く。立ち上がり、ブレザーの袖に腕を通した。
「ごめん。もう時間だわ」
「あ、今日からだっけ。例のやつ」
「うん。彩乃が来たら謝っといて」
言うと、寺田さんが苦い顔で、手をひらひらさせる。
「謝んなくていいよー。だってあの子が勝手にグラウンドで彼氏待ってるとか言い出したんだもん」
坂上さんもそれに合わせて、困った表情を浮かべた。
「最近、あの子のノロケに付き合うのも、ちょっとしんどくなってきたよねー。初期につぼみが苛立ってたのが、今になってわかるわ」
別に私が不機嫌になったのは、そういう理由じゃないのだけれど。しかし、わざわざ訂正するほどのことでもない。この彩乃ちゃん批判だって、明日まで続いているかどうか。他に心動かすセンセーショナルな話題があれば、たやすく忘れ去られる類のものだ。
自ら身を投じてみて、わかる。私が嫌厭していた世界は、なるほど疲れるものではあるが、慣れてしまえばなんてことはない。求められるのは、その時々の喜怒哀楽を共有するだけの、インスタントなコミュニケーションだ。整合性など必要ない。サーファーのように、その日その日の波を読み、うまく乗りこなせればそれでいい。そこから何が生まれるわけではないけれど、波に乗っている最中には束の間の高揚があり、その高揚を共有することで、今過ごしている時間が決して無益なものでないことを確かめ合えるのだろう。
高尚でも高潔とも言い難い、ファーストフードのようなチープさ。それでも舌とお腹は満たせるのだから、上々だ。
二人に別れを告げ、店を出ると、すでに日は陰り、肌寒い空気が足元まで降りてきていた。もう来週から十一月だ。髪を切ったばかりなので、五分も経たないうちに首元が冷えてくる。そろそろマフラーを常備しておいた方がいいかもしれない。
街中から住宅街に入り、家の前へ。植え替えの時期なのか、最近は花壇の花もまばらだ。「ただいま」とドアを開けると、ママがどたどたと駆け寄って来た。
「つぼみ、何をしていたの。もうすぐ来られるのよ」
「ごめん。友達と寄り道してた」
「またハンバーガーか何か?やめなさいよ、みっともない」
「別にみっともなくないよ。手洗ってくる」
「あなたの分のケーキは出しませんからね。お部屋で待ってなさい」
手を洗い、自室に戻って私服に着替える。まだ新しい髪型に似合う服が少ないので、一番シンプルなデザインのワンピースをチョイス。リップを塗り直している最中に、家の門扉が開く音がした。続いてドアが開き、ママが出迎える声がする。
ついに来た。むずむずと胸がざわつき、口元がにやけてくる。
話し声は一旦収まり、リビングへ繋がるドアが閉められる音。きっと今頃、お茶を飲みながら、ママがあれこれと愚痴を言っているに違いない。
おかげさまで、一度はちゃんと勉強に向き合うようになったんですけれど。
夏休み辺りから、急に遊び出すようになって。
どうにも浮ついていて、この間の試験結果もさんざん。
これは手遅れになる前に、とまたご連絡させていただいたんです。
「うふふ」
手に取るように思い浮かぶ光景に、思わず声を出して笑ってしまった。いけないいけない。少し冷静になって、余裕ある態度であの人を迎えなければ。
もう一度、姿見に向き合う。
白無地の、袖にややボリュームのあるワンピースに、チャコールのストッキング。肩から3センチほどの高さで切り揃えた髪は内巻きで、ヘアオイルで薄く光っている。口元は抑えめのカラーリップ。眉のやや上で真っ直ぐに揃えた前髪。
お気に入りの垂れ目をさらにとろかすように微笑む。口角は上げすぎないように。
「うふ」
駄目だ。笑ってしまう。
様変わりした私を見て、あの人はどんな顔をするだろう。
目を丸くするだろうか。見透かしたように笑うだろうか。
どう転んだところで、面白くて仕方がない。
今この瞬間、私は、私が私であることを、この上なく楽しんでいる気がする。
これまでの手札を切って、捨てて。
新しいカードで勝負に挑む。
世界が私を脅かす限り、このゲームは、きっと死ぬまで終わらない。
階段を登る足音に続いて、ノックが三回、ドアが開く。見覚えのある、パンツルックで、黒髪を後ろで縛った家庭教師が現れる。
「お久しぶりです。今日からまたお世話になる、宮原です」
折り目正しく下げた頭を上げた宮原さんに、私は優雅な微笑みを返した。
私、御園つぼみは、今日も無事に私を運営している。