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【短編】その鳥籠から擦り抜けるワルツ(前編)

閏年の閏日に生まれたから、こんなに小さな身体なのか。
幼い頃は、本気でそう疑っていた。

四年に一度しか誕生日が巡ってこない私は、表向き一年ごと歳をとりながら、その実人より成長が遅い。人並みの発育を得るには、単純計算四倍の時間を要するが故に、同年代の子と比して身長が低く、顔立ちにも幼さが残るのでは。そう推測した。同年代どころかひとつふたつ下の子たちよりも歳下に間違えられるようになってからは、その仮説がますます信憑性あるものに感じられ、しかし一方で生物学的にそのようなことはあり得ない、という分別も備えていく中、いつしか「不思議なものだな」と割り切り、究明を諦めるようになった。

いち早く諦観を覚え、外見に反し成熟しつつあった私の精神だが、そこに周囲とのギャップが生まれた。身体の小さい者は、ただでさえからかいの対象となりやすいところ、どこか生意気にも映る私の所作がそれに拍車をかけた。子どもが仕掛ける『ちょっかい』は、徐々に陰湿さを帯び、『いじめ』と評してもよいレベルにまで達していった。

ここまではよくある話。ここからが特異点。
私は混血だった。

私が生まれた家はとある一族の分家で、その一族では絶対的な価値基準があった。

純血か混血か。
すなわち、祓えるか祓えないか。

古くより『祓い』を生業とする血縁集団において、それは富をもたらすか否かの分水嶺であり、祓える純血は一族のため、祓えぬ混血は純血のため、という不文律がそこにはあった。周囲の、長い歴史を一族と共にした社会的コミュニティにおいても同様で、早い話、学校の教員にまでその価値観は伝播していた。

「ミノちゃんは血が濃くないから、いろいろと我慢しないとね」

ランドセルを水浸しにされ、脚にすり傷をいくつもこさえた私に対し、担任教諭が放った台詞がこれだ。厄介なのは「それならば仕方がない」と飲み込んでしまうほど、私自身にもその認識が刷り込まれつつあったこと。ともすればそのまま不条理を受け入れてしまうところ、斯様に自分以外の誰もが異教徒の世界で、幼少より正気を保ってこられたのは、奇跡という他なかった。

贅沢ながら本心を言えば。
そんな奇跡など、起こらぬ方がマシだった。

不条理に気づかず、常識として飲み込み。
痛みを伴う日々を、日常として受け入れ。
置かれた環境を是とし、過ごしていく方が、余計な苦しみを味わわずに済んだことだろう。

だが、知ってしまったものは仕方がない。謂れのない差別や迫害を、謂れのないものと自覚しながら、甘んじて受け入れる。そのストレスに晒されながら生きていくほか、私に道は残されていない。

六つの点を宙に打てて、ようやく一端の人間扱い。彼ら彼女ら純血の手により、絶え間なくその六拍子が続く世界で、混血の者が刻めるのは、せいぜい半人前の三拍子。

それでも、生きていくしかない。
不恰好に、無様に。

これから披露するのは、そんな出来損ないのワルツの一小節。
十五歳になりたての三月。私にさらなる不条理が降りかかったところから、楽譜は始まる。

ぎこちないステップと笑っていただいて構わない。

青臭い春の足取りなんて、どなたも似たようなものだろうから。

「あれ、ミノ姉。どこ行くの?」

深夜、人目を忍んでの外出だと言うのに、声をかけられたときは驚いた。それが他の誰でもなく、私のことを『ミノ姉』と呼び慕うあの子であったことが、動揺に拍車をかけた。

「ウツシちゃん」

分家の家々が集う集落、各家屋から漏れる明かりが照らす夜闇の中、見慣れた立ち姿が浮かぶ。美しき純血の子。四つも歳下、まだ小学生であるというのに、すでに背丈は私に近く、顔つきには精悍さが宿る。

いつもならば、視界の隅に捉えるだけでも心安らぎ、かつ同時に胸騒ぐ存在でもあるところ、しかし今夜だけは会いたくなかった。月明かりを弾く艶、夜風が運ぶ香りから、洗いたての髪を悟られないか、と一抹の不安が過ぎる。

ウツシちゃんは私の様子を訝しげに眺める。

「制服」
「え?」
「その格好、春からミノ姉が行く高校の制服よね。この間見せてもらった」
「あ、うん……」言い淀み、「ウツシちゃんこそ、どうしたの? こんな夜中に」たまらず話題を逸らす。
「私? 私は、鍛錬」

鍛錬。確かに、彼女が歩いてきたのは、稽古場がある方角だ。しかし、だからと言って、こんな夜分まで励んでいるとは。やや湿り気を帯びた前髪は、汗によるものだろう。今の今まで打ち込んでいたことが伺えた。

「なかなか掌サイズより大きなものが描けなくて。あと一年ちょっとで私も現場入りするから、それまでにもう少しまともなものを描けるようになっておかなくちゃ」
「……そう」

開いた右手を見つめるウツシちゃん。眼差しの中に焦りが見える。私からすれば六角形を描ける時点で神技だが、それで身を立てるには、さらに求められる水準がある。純血には純血なりの悩みがあり、ウツシちゃんは今その真っ只中にいる。

「大丈夫。きっと今より大きなものが描けるようになるわ」

私の言葉に、なるかなぁ、と苦い顔。いつも大人びて見えるところ、こういうときのこの子は、どこかあどけなく年相応だ。

「じゃあ、ウツシちゃんが独り立ちするときは、私が付き人になってあげる」
「えぇ〜、ミノ姉がぁ?」
「そうよ。ばっちりサポートするから任せておいて」
「何。私、ミノ姉に『ウツシ様』とか呼ばれるの?」
「呼ぶ呼ぶ。ウツシちゃんも『ミノ姉』なんて言っちゃダメだよ。偉そうに『ミノ』って呼ばなきゃ」
「なにそれぇ」

可笑しそうにけらけら笑う様が可愛らしい。「じゃあ、がんばろうかな」と口を結び、私に向け、頷いてみせる。その力強さと優しさに、胸がじんわりと温まる。

あぁ、やっぱりこの子がいてくれて良かった、と思う。こんな憂鬱な夜に会いたくないと思っていたが、結果的に元気をもらってしまった。付き人になる、というアイデアも、ずっとこの子の側にいられるというのなら、あながち悪くはないかもしれない。

「じゃあ、気をつけて帰ってね」
私が言うと、
「え。ミノ姉、これからどっか行くの?」
すかさず疑問符が返ってくる。
誤魔化せるかと思ったが、やはりそうはいかない。

「うん、ちょっとね。本家に呼ばれているんだ」
「本家に?」

驚きの声。それはそうだろう。どうしてこんな夜更けに、と、どうして混血の私が、のダブルコンボだ。

「え、何。何があったの?」
「うーん」

反射的に、この子は今いくつだったか、と思い返す。私の四つ下。理解できない年齢ではないが、やはり子どもにする話でもないだろう。
そういう意味では、私もまたまごうことなき未成年であるのだが、それはさておき。

「ごめんなさい。内緒にするよう言われているの。いつか言える日が来たら話すわね」
「……そう。わかった」

じゃあね、と今度こそウツシちゃんに別れを告げ、私は夜道を歩き出す。集落を抜け、畦道を進み、バス停のある通りまで出ると、夜の闇に溶け込みそうな黒い色をした車が一台止まっていた。助手席の方から中を覗くと、運転席にいた男性がひとつ頷き、後部座席のロックを外す。ドアを開け中に乗り込むと、運転手は無言のままに車を走らせ始めた。

本家の屋敷までは、およそ四十五分ほど。その間、街灯もまばらな田舎道を、ぼんやりと眺める。闇は濃く、ほとんどが窓ガラスに映る自分の顔を見つめる羽目になり、憂鬱さが増した。運転手に気取られぬよう、小さくため息をつく。

『夜伽』。

本家に住む一定の位以上の純血には、希望に応じ、その存在が当てがわれる。対象となるのは混血の女性で、その名の通り夜の世話が課せられる。暗黙知として成人女性が選ばれるのが常であるところ、こうして私のような未成年に声がかかる例もそれなりにあると聞く。

時代錯誤も甚だしい、一般社会に持ち込めば大いに非難を浴びるであろう風習だが、この一族では今もこれが罷り通っている。曰く、祓い師の数を制御するのが、その狙いだとか。血気盛んな年代にある純血の男性が、不用意に同じ純血と交わり子をなすことがないように、との思惑らしい。

そのようなものがあるとは知っていたものの、まさか自分が指名されることがあるとは想像だにしなかった。顔立ちも体型も、およそ年相応とは言えぬほど幼く貧相な私だ。よほどの物好きがいない限り、お鉢が回ってくることはないだろう、と安心していた。

それが、来た。母を通じて知らされたその事実に、困惑と恐怖がない混ぜとなり、涙が出た。もちろん経験などない。こんな形で自分の貞操を失うとは思いもよらず、その不条理に愕然とした。

しかし、

「お相手となるのは、若様だそうよ」

母の言葉に、思考が停止した。

若様。
一族当主の血筋にあり、十代の若さにして歴代最強の呼び声が高い、エリート中のエリート。
そんなビックネームが、名もなき私を指名してきた。

「あなた、知らぬ間に見初められていたのね」

娘が身を差し出すというのに、どこか鼻高々、といった様子の母。だが、腹立たしいことに私自身もまた、母の言葉に鼓動を速くした。次期当主より指名された、ということよりも、若様その人の姿形、かつて交わした言葉の数々を思い浮かべてのことだった。

若様とは、面識があった。

本来であれば、私のような身分の者が接触する機会などないはずのところ、そのようなイレギュラーが起こったのは、これも悪しき風習に由来する。今でこそ信じられない話だが、若様は当主の血筋にありながら、幼い時分は六角形を宙に描くことが叶わなかった。不義理の子では、との嫌疑をかけられた結果、本家にいられなくなり、六歳までの時を私たちと同じ分家の集落で過ごした。

若様は二つ歳上だ。まだ物心つく前の私に、当時の記憶は無い。しかし、若様は本家に戻って以降も、折を見ては分家に顔を出しに来ていた。一緒にかくれんぼをして遊んだり、他愛もない話をしたり。今となっては恐れ多くて冷や汗をかくような触れ合いを重ねていた時期がある。

見初められていたのね。
母の言葉を思い出す。
そうなのだろうか。特に情を動かすような、色濃い想い出は無かったはずだ。

唯一あったとすれば、それは……

「着きました」

ぶっきらぼうな声で、我に返る。気がつくと車は止まり、窓の外に薄闇に浮かぶ白い塀と木製の扉が見えた。もちろん正門ではない。屋敷裏手にある勝手口といったところだろう。

礼を言って、車を降りる。何も言われていないが、ここから入れ、ということだろう。扉を軽く押すと、案の定鍵はかかっておらず、私は身を隠すようにして屋敷の敷地内に入った。

扉の前、数メートル先に人がいた。黒いスーツを着た男性だ。まだ若い。背が高く、細い目と無造作に乱された髪が、どこかバンドマンのような印象を与える。

この男が案内人か。

「ミノです」

名を名乗り、頭を下げる。男は上から下まで、ざっと私を舐めるように観察し、口を開いた。

「身は清めてきたか」
「はい」
「ついて来い」

身を翻し、進み出す男に、私も続く。足元は砂利で、二人分の足音が闇夜に響いた。

屋敷に上がり、板張りの廊下を進む。いくつかの角を曲がる中、

「いくつだ」

不意に男に声をかけられた。

「十五です」

答えると、男は一瞬絶句し、「あいつに幼女趣味があったとはな」と嘲笑うようにこぼした。特に反発心は湧かない。こうした扱いを受けることには慣れている。だが、若様を指して『あいつ』と呼称する物言いが引っかかった。単なる小間使いの一人かとも思ったが、存外、若様と近しい距離にいるのだろうか。

ふと興味が湧き、水を向けてみることにする。

「若様とは幼き頃、分家の集落にて交流させていただきました」
「聞いている」端的な返答。そして問い。「近しかったのか」
「いいえ、特には。お忙しくなり、集落へお越しになる頻度が減ってからは、年に一度程度のその機会に、一言二言、ご挨拶をさせていただくぐらいです」
「一言二言、ねぇ」
「今回のことも、青天の霹靂でございました。私などを覚えてくださっていたとは」
「こちらも同様だ。あいつが女を呼ぶなど、初めてのことだからな」

どくん、と心臓が跳ねた。
初めて。私が。

こちらの動揺を察知したのか、男が振り返り、私を見る。慌てて居住まいを正すと、男は細い目をさらに細め、

「罪な野郎だな」

呟き、また先へ進む。追いかけると、淡く雲海が描かれた襖に行き当たった。男がその手前で止まる。

「この奥、襖をさらに一枚隔てた先があいつの部屋だ」

朝になったら迎えに来る。そう言い残し、男は去った。取り残された私は、橙の照明に照らされた襖を前に、一人立ち尽くす。逃げ出したくなる衝動を堪え、ひとつ息を吸って、襖を開けた。

畳の間に上がる。ここの照明もまた、橙。廊下より少し暗い。その先、さらに濃さを増した雲海が出迎える。襖の微かな隙間から、白い光が差している。

畳の上に膝をついた。「ミノです。参りました」と告げ、頭を下げる。少しばかり声が震えたことが悔しくて、奥歯を噛む。

「あぁ、はいはい」

声がして、すぐさま襖が開く音。部屋の中から白色灯の眩さが降ってくるのを、そしてそれを人型に遮る影を、頭を下げたまま感じる。

顔を上げる。

最後に会ったのはいつだったか。
忘れてしまったが、忘れようのないその顔立ちが、私を迎える。

「やぁ、ミノ。変わらないね」

逆光を受け、私を見下ろす若様から、記憶に違わぬ笑みが降ってくる。


美醜を判ずる基準は人それぞれあれど、「誰から見ても美しい」というものは、確かにこの世に存在する。『汚れがなく、均整が取れているもの』。好む好まざるに関わらず、その定義に合致すると万人が認めざるを得ない、そんな存在。

若様がそれだ。

艶やかで、少し色素の薄い髪。
宝石でも埋め込んだかのような瞳。
白い肌。細い首筋。長い指。

そして、声。

「おいで。中に入りな」

おいで、の一言に心臓が跳ねた。およそ年頃の娘なら、否、年齢問わず年頃の娘を内に飼う女性なら、胸騒ぎを禁じ得ないであろう状況。緊張と困惑が、得体の知れぬ甘いものに上書きされ、堪らず顔が熱くなる。

語り口が乱れることをご容赦いただきたい。

ビジュ良すぎんだろ、この男。

同じく美の化身たるウツシちゃんで目が慣れているとは言え、やはり異性となると話が違う。単なる目の保養に留まらず、そこからただよう優性遺伝子の香りに、生物として反応してしまう。

どうか私の心境をご理解いただきたい。

性愛どころか、ろくに恋すら知らぬまま、それらに淡い期待を寄せる時分。そんなところに、突然『夜伽』の任を課せられた。にべもなく純潔を奪われることに、絶望と恐れ、怒りを覚えた。
だが一方で、その『夜伽』に指名してきた男は、その時分にいる乙女なら、誰もが仮想の相手として思い描くような美男子であった。

絶望の中の期待。
怒りの中の喜び。

尊厳を奪わんとする『夜伽』という風習。それに対する嫌悪を根っこに抱えながらも、微かに「あの男なら構わないのでは」という浮ついた思いを抱いてしまう。被害者でありながら、どこかで共犯関係を欲している。そんな自分を腹立たしく感じながら、今、この場に臨んでいる。

「どうした、ミノ」

呼びかけられ、はっとする。「すみません」。心境がどうであれ、ここまで来たら引き返せない。立ち上がり、足を無理矢理前に出して、部屋の中へ。

思いのほか中は狭く、八畳ほどの広さの中に、学習机とローテーブル、本棚に一人がけのソファが詰め込まれていた。ベッドも無ければ布団を敷くスペースも無い。左手にさらに襖がある。恐らくその奥が寝間だろう。

心臓が早鐘を打ち始める。

急に身体の匂いが気になってきた。家でお風呂に入ってから一時間以上経つ。汗をかいてはいないだろうか。
服は。白いブラウスに臙脂色のスカート。出がけ、ウツシちゃんに言い当てられた通り、春から通う高校の制服だ。混血には正装など無い。制服が無難だが、かと言って着古したものは憚られ、母とも相談し、おろし立てのそれを着用してきた。ジャケットも羽織ろうとしたが、成長を見越して大きいサイズを買ったため、不恰好に映るからとやめた。しかし、それがかえってそれがバランスを崩してはいないか。

髪型は。リボンは。リップは。

「緊張しているかい」
「はい」

掠れた声。もはや動揺を隠す余裕はない。強張る身体を動かし、若様に向け頭を下げた。

「若様」

覚悟を決めろ。

「ご覧になっての通り、容姿幼く、年相応には及ばぬ未熟者にございます。恥ずかしながら経験もございません。果たして御心を満たせるかわかりませんが、目一杯つとめます故、何卒ご容赦を」

よろしくお願いします。

渇いた喉から搾り出すように言って、さらに深く頭を下げ。震える唇を口の中、前歯で噛んで押さえつつ、顔を上げた。

若様はそれまでの柔らかな笑みを消し、眉根を寄せた苦渋の顔つきで、私を見ていた。

「すまない。どうやら思い悩ませてしまったようだ」
「若様が謝ることではございません」
「いいや」

若様が近づいてくる。反射的に身体が強張るが、逃げずに応じる。顎を上に。見上げた先にある形の整った唇と私のそれが、面と面で向き合う角度へと。

「ミノ」
「はい」
「お前を『夜伽』に指名したのは、一夜の世話をさせるためじゃない」
「……はい?」

唇も、肌も、もちろん心も。
今夜、お前からどれひとつとして奪うつもりはないよ。

思考が止まり、真っ白になった頭の中に、若様の言葉が並んでいく。意味はわかるが理解が及ばず、天に問うように私は訊ねる。

「……では、一体。一体私は何を差し出せばよいのでしょう」

蜘蛛の糸に縋るように、答えを求め。苦い顔で笑った若様の、その口から溢れる答を待つ。

「知恵と時間」

若様は言う。そして両腕を軽く広げ、軽い調子でこう続けた。

「ミノ。僕をここから出すのを手伝ってくれ」


高校を受験し、いずれは大学に進学したい。
それが若様の望みだった。

「…………受験?」
「うん」

聞けば、志望する大学の附属高校があり、そこに入学しさえすれば、所謂エスカレート方式で進学も叶うのだと言う。

若様は現在、その年代にありながらも、高校には通っていない。祓いの世界に学歴など必要ないのだから、当然だ。

「今から高校に通う、とおっしゃるのですか」
「そう。そのためにはまず、入試に合格する必要がある」困った様子で、頭を掻く若様。「ところがこれが難関でさ。そもそも僕は高校どころか、義務教育たる中学もまともに通えていない。何せ、十の頃から祓いの仕事に出ていたからね。しかも志望校はそれなりの名門だ。独学でいけるかとも思ったが、限界を感じ始めている」

ミノ。お前はこの春、高校に進学するんだろう。

「僕にとっては、渡りに船だ。これから毎週、お前を『夜伽』としてここに呼ぶ。身を捧げる必要はない。代わりに受験勉強で培った学力で、僕の家庭教師を担ってくれ」

お願いします。

頭を下げる若様に、呆然となる。
あまりの突飛さに、頭がついていかない。

高校受験? どういうことだ。純血の、それも最強と呼ばれる祓い師がそんなことをする必要がどこにある。しかも、ここから出してくれ、と来た。まるで籠に囚われた鳥のような言い草ではないか。

本当に受験のためだけに、私を呼んだのだろうか。

わからない。おそらくここで考えても無駄だ。現時点でわかるのは、若様が『夜伽』として私を求めたのではない、ということ。

身を捧げる必要はない。

…………ない、のか。

胸の内、微かに落胆が生まれる。落胆した、という事実に、猛烈に腹が立ってくる。羞恥とない混ぜとなった激情が、胸の底から湧き上がる。

これは。
これはさすがにあんまりだ。

母から通知を受けてから、同じく母に「行ってらっしゃい」と送り出された今日の夜まで、さらに言えば唇を捧げんと顎を持ち上げた今の今までの葛藤が、まったくの一人相撲と成り果てた。

再び語り口が乱れることをご容赦いただきたい。
いや、むしろご賛同いただきたい。

「……ふざけんな」
「え?」
「ふざけんなよ、この人でなし!!」
「わぁ」

感情に任せて、腕を振るったところを、華麗に躱される。「避けてんじゃねぇ!」叫び、矢鱈目鱈と両腕を回して、相手に向け突進する。

「馬鹿、阿保、鬼畜、外道、ゴミ屑ッ!」

相手の胸めがけ、メッタ刺しの要領で拳をぶつけていく私。痛い、待って、と顔を顰められようが、攻撃を緩めることはない。
混血も身分も関係あるか。この後追放されても構うものか。私は私の矜持のため、この安本丹に鉄槌を下す。

マジでふざけんな。

「私が、お母さんが、一体どんな気持ちでいたかわかる!? こちとら今日付で処女失う覚悟で来てんだ。人生かけてきてんだよ。それを高卒受験? 大学進学? 英数国理社で頭使う以前に、まずは人の心を学びやがれ!! 」

悔しさのあまり溢れる涙と、柄にもなく張り上げた声、おまけに慣れない殴打の連続に、すぐさま私の息は切れる。苦しさに動きは止まり、ぜえぜえ喘ぎながら、それでも涙目で相手を睨みつけることはやめない。

きょとんとした顔でこちらを見つめる若様が、なおも美しい目鼻立ちでいるものだから、一層のこと怒りは消えない。この顔に迫られ求められる様を、一瞬でも夢想した自分を呪いたくなる。

わかっている。今抱いている憤りは、半分以上自分に対して向けられたものだ。『夜伽』の不条理に打ちひしがれながらも、どこかで期待をしていた浅はかな自分。自覚してはいたものの、それが浮き彫りになった決まりの悪さに耐え切れず、盛大な八つ当たりをしているに過ぎない。

しかし、そうでもしないとやっていられない。

さっき唇を預けようとしてたとき、どんな顔をしていたんだろう、私。
頬染め目を細め口を結んで。それをこの男に見られたのだ。
想像するだけで、死にたくなる。

「人の心、か」

呟き、若様はしばし物思いに耽けるように黙り込む。それから「うん」とひとり納得した様子で頷いて、私に向け頭を下げた。

「ごめんなさい」

素直と言う他ない飾り気ゼロの謝罪。その常温に釣られるように、自ずとこちらの熱も引いていく。荒れていた呼吸もおさまり、次第に頭がクリアになる。

あぁ、やってしまった。

「こちらこそ、失礼しました」乱れた髪を手で撫でつけ、姿勢を正す。「一族当主の血筋の御方に、大変なご無礼を。如何様な処罰も、甘んじて受け入れます」
「いや、そういうのはやめてくれ。処罰などないし、以降もさっきみたいな乱雑な言葉遣いで構わない」
「……はい?」
「日頃、若様だの兄様だの呼ばれて気が滅入っているんだ。分家のみんなで遊んでいた、あの小さい頃と同じように接してくれて構わないよ」

何を言っているんだ、この男は。
先ほどとは別種の怒りが湧き起こり、私は首を振る。

「いえ、そうは参りません。そして、『以降』もございません」私は言う。「これだけの無礼を働いたのです。これ以上、若様のお近くに身を置くわけにもいきません」
「それは困る」
「どうしてです。家庭教師なら、他に適任がいくらもいるはず」
「いいや。お前じゃないと駄目だ」
「理由がわかりません」
「単純だよ。僕が信頼できる面子の中で、お前が一番頭がいい」

恥じらいもせず、若様。
言葉の意味を咀嚼するうち、むず痒くなり、たまらず目を逸らす。

「いずれにせよ、どのような形であれ、これ以上若様にお引き立ていただくことは許されません。そこまでのことを私はいたしました」
「僕が『赦す』と言っていてもかい?」

はい。頷き、私は目線を戻して、その顔を睨んだ。

「僭越ながら若様、どうかお立場を弁え、秩序を崩されませぬよう。混血は純血に逆らえず、分家は本家に付き従う。是非はともあれ、そのような秩序の上に、我ら一族は成り立っております」頭の中、今夜私を送り出してくれた母親の姿が浮かぶ。「そこで不条理を浴びている者は、何も私だけではない。今ここで私をお赦しになることは、同じ不遇の中にいる者たちに示しがつきません」

優しさ甘さを見せたいのなら、普く全てに全うしろ。

言外にそう滲ませ、口を結ぶ私を前に、若様はしばらく真顔で黙り、やがて呆れたようにため息をついた。

「強情だなぁ」
「理を解いたまでです」
「なるほどね」一歩私に近づいて、「じゃあ、こうしよう」若様は続けた。

理に背き、この先も僕の下に通い続けること。
それがお前に課す『処罰』だ。

「…………な…………」
「ついでに『若様』呼びも敬語も禁止。いいね」
「なりません!」
「禁止」人差し指を口に当て、その先を私へ向ける。「お前の言い分に乗っかったまでだよ。悔しかったら、そっちも理屈で返してみるんだね」

反論を試みる。しかし、上手いものが見当たらない。理に背くことで理を貫く。そんな離れ技を持ち出されたのなら、もうお手上げだ。
何より、この男にはそれをやってのけるだけの権力がある。一度筋道を立てられてしまえば、もはやそれが正道。太刀打ちできるわけがない。

だが、何故だ。

悔しさよりも疑念が先に立つ。
何故ここまでして、私を迎え入れたがる。

家庭教師が欲しいなら、プロフェッショナルに頼めばいい。素人で歳下の私を選ぶなど、明らかなキャスティングミスだ。
信頼できる者を選んだ、と言っていた。私がそれに値する、とした理由も疑問だが、仮にそうであるとして、そこまで相手を選ぶ事情は何だ。
わざわざ『夜伽』の振りを装わせ、ここに通わせるという回りくどさも気にかかる。周囲に悟られず、秘密裏に事を進めたいということか。

いや、待て。冷静に考えろ。

高校受験は手段であって、目的ではない。よしんば試験に合格できたとして、その後はどうする。どの学校を志望しているかは知らないが、こんな人里離れた屋敷から通学できるところはそうそうなく、祓いの仕事との両立も難しい。

まさか。

「若様、もしかして一族を離れるおつもりですか」

声が震える。唯一であるはずの神を前に、異教の言葉を口にするような罪悪感。言った側から撤回し、謝罪の意を示したくなる。
しかし、そんな私の逡巡を前に、一族当主の血筋、最強の祓い師は、少し意地悪げな笑みを浮かべ、言った。

「敬語は禁止。何度も言わせるな」

三月。まだ肌寒い夜、背筋も凍るような密約を交わして。

人知れぬまま、青い春が始まる。


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この作品は、こちらの企画に自主的に参加したものです。


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