【短編】SHINONOME〈5.5〉⑤
端的に言えば、妹を救ってもらった。
俺と東雲の間柄を決定付ける、ターニングポイントめいたものがあるとしたら、この出来事を置いて他にない。
詳細は語らない。ここで語るべきことがあるとしたら、以下三点。当時、同じ大学の先輩でありながら、その実、高校時代の同級生であった東雲を俺は頼った。およそ人知の及ぶ範囲では救いようがない事態にいた妹を、およそ人知の及ばぬ異能の力で救ってもらった。命に代えても守るべき、最愛の肉親。そいつをこともあろうか他力本願で保護してもらった俺に対し、東雲が求めた対価はしかし命ではなく、「一生僕に対しては後輩として接しろ」という、半ば冗談にも聞こえるようなアドバンテージだけだった。
それだけで済まされた。
事が起こってから今日に至るまで、およそ五年を超える歳月を経てもなお。その事実が、その軽さが、いまだにこの俺を縛りつけている。
命を差し出せと言われた方が、大金をせびられた方が、どんなに気が楽だったことだろう。釣り合わぬ天秤を水平に戻そうと、必死で俺は錘になるものを探す。探し続ける。埋めきれはしない負い目を感じたまま、それでもどうにか埋めようと、忠義を尽くし、忠誠を誓い。結果『後輩』などとは生ぬるい、『下僕』とも称すべきほどに、俺は東雲に、東雲への恩義に、隷属している。
我儘な態度に胸中で悪態をつきながらも、軽薄な装いに苛立ちを覚えつつも、俺が東雲に従順たる理由は、このひとつ。恩義と罪悪感にほんの少しの自棄っぱちを加えた感情の塊が、俺を動かす原動力。
なのに。
そうであるはずなのに。
「『知らない天井だ』」
目を覚ました俺の状況を俺が把握するよりも早く、東雲の声が飛び込んでくる。同時にその姿が、奴の言う『知らない天井』を見上げる俺の視界にも。逆光を帯びながら俺を見下ろす黒い瞳は、いつにも増してブラックホームじみており、得体の知れない深みがそこにはある。
「やっほー。起きた? ハチ」
「……何なんすか」
東雲が視界からずれて、天井の照明がダイレクトに網膜を刺激する。たまらず目を瞑り、刺激に耐えた。「ここは病院だよ」「ベッドの上」「どこまで覚えてる?」「路地裏でのたれ死んでたところ、救急車で運ばれたらしいよ」。散弾銃のように浴びせられる情報。五月蝿い。こんな状況、一度や二度じゃないんだ。何があったかぐらい、容易く想像がつく。
そう、一度や二度じゃない。
だから、わかる。
身体を固定するギブスの数、それらにより狭められた可動域の幅、その幅の中で動かす手足に走る痛みから、今回の怪我が一日二日で治る類のものでないことくらいは、寝ながらにして理解できる。
「全治三か月だって」
東雲が言う。
「思ったより短い、っスね」素直な感想を返す。首は動かせない。目線だけを東雲に向け、「すみませんでした」謝罪する。
「何が?」
「負けました」
「お前が負けるのなら、相手はプロだ。早蕨が雇ったんだろうね」
「ヒトカゲに暴挙を許したことと言い、ボディーガード失格です」
「ボディーガードぉ?」
めずらしくも眉を顰め、東雲は笑う。
「なんだ、お前。僕のボディーガードのつもりでいたのかよ」
「つもりでいましたよ。喧嘩しか取り柄がない自分が、あなたとペアを組まされるなら、それしかない」
「あのなぁ……」
マスク越し、太めのため息を吐いて、東雲は言う。
「ヒトカゲが来たときも言っただろう。お前は別に用心棒じゃない」
「じゃあ何ですか」
「それも言った。元同級生の、現後輩」
「単にそれだけスか」
「っスよー」
だから。東雲は丸い目をさらに見開き、言葉を続ける。「後輩を潰されて、先輩が黙っているわけにはいかない」
反射的に、身体に力が入る。直後に激痛。のたうち回りたくのを懸命に堪え、俺は涙目で東雲を見る。
「一人で行く気っスか」
「滝沢さんから指定された期限は一週間だ。んで、お前は全治三ヶ月」
「向こうにはヒトカゲがいるんですよ」
「イロリもね」
「単騎で乗り込むなんて無茶です」
「お前さ、何か勘違いしていないか」
「は?」
東雲の縮尺が小さくなる。寝そべったままの俺からは見えないが、ベッド脇に椅子を寄せ座っていたらしい。そこから立ち上がったのだろう。さらに高い位置に移動したブラックホールのような瞳が、こちらを捉える。
「滝沢さんが何故、僕を単独行動させず、りーちゃんやお前を側に付けようとするか、わかるか」
「物理的攻撃を排除するためでしょう」
「ブッブー」
戯けた受け答えをしながらも、ブラックホールの放つ威圧感は弱まらない。
「近しい人間が側にいた方が、僕が無茶を、否、無茶苦茶を控えると踏んでいるからだ」
言葉に詰まる。
近しい人間。
後輩。
元、同級生。
「わかったら寝ていろ。ちゃちゃっと終わらせてくるから」
「……無茶苦茶するんスか」
「やっちゃうかもねー」
手をひらひらさせて、東雲はベッドから離れていく。天井を見つめながら、足音だけでそれを確認。その足音が、ぴたりと止まる。
「この後、お前の愛すべき妹ちゃんがここに来る。早いとこその泣きっ面をなんとかしておけ」
「いや、泣いてねーし」
「お。反抗的」
「後輩もたまには反抗します」
くは、とレアなことに噴き出すような笑いを漏らし、「じゃあな。後輩」東雲は病室から去っていく。ドアの開閉する音の後、病室内には静寂と俺が取り残される。
すん、とひとつ鼻を啜る。
あの菱形のボスの言ったとおり。
どうやら"俺の"面倒ごとは、本当にここで打ち切りらしい。
この先、東雲紫陽と瀧本さらさに纏わるいざこざに、俺が登場することはないだろう。本筋に噛むことはなく、サイドストーリーで登場し、サイドストーリー内で退場となった雑魚キャラ、蜂ヶ峰友我の語りはここで終わる。
だが、決定的だ。
この先の展開がどうなるのか知らないが、結末だけは予想ができる。東雲があのようになった以上、あのように言った以上、今ある秩序の末路は滅茶苦茶。壊滅し、崩壊し、四散し、塵と化す。そこだけは、疑いようがない。
その破壊を決定付けたのが、このサイドストーリーであり、このサイドストーリーの語り部たる、俺だ。
異能でもない、異常でもない。そんな俺だが、そういう意味では、一連の流れの中、登場人物表に名を記されるぐらいには値する役割を果たしたのかもしれない。
「くくっ」
考えていると、自然と笑いが込み上げ、口から漏れた。
「……だっせぇ」
病室の外、近づいてくる足音が聞こえる。おそらく妹のものだ、と直感でわかる。こうして大怪我の後、見舞われるシチュエーションも一度や二度ではない。「今度はどうしたの?」と心配気ながら、呆れた口調で訊ねられるのだろう。
いつもなら寝たふりでやり過ごす。しかし、今日はどうにもそういう気になれない。
『先輩』の喧嘩に巻き込まれたんだよ。
頭の中で浮かんだ、答。不思議とそれを口にしてみたくて、もう一度鼻を啜り、俺はノックの音を待った。