【雑談】上手いと思われてはいけない
noteで作品を公開していると、ありがたいことにコメント欄等で、次のようなお声をいただくことがございます。
『●●●●の部分が上手いと思いました』。
それが意図したものであるにせよ、そうでないにせよ、小躍りしたくなるほど嬉しい言葉。
そう感じていただけただけでなく、わざわざその思いを届けてくださったことへの歓喜も合わさり、お声の主に深い感謝の念を覚えます。
そのようなコメントをくださる皆様、本当にありがとうございます。
故に以降の内容は、決して「そんなお声は欲しくない、やめてくれ」との趣旨ではございません。
これからもいただけるとありがたいですし、こちらも差し上げることがあろうかと思います。
その前提の上で、以下続きを。
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「上手い」と感じるタイミングが作品を読了し終えた後であればよいのですが、それが読書中である場合は、作品にとってマイナスです。
「上手い」の主語は「作者」であり、読書中に「上手い」と思わせることは、すなわち読書中に「作者」の影をちらつかせることに他なりません。
例えば自分はピカソの絵画を鑑賞する際、「ピカソは絵がうまいな」と思うことはなく、ただただ作品の世界に取り込まれ、浸り、そこに漂う空気を吸って吐くだけの存在となります。
そして、ふと何かの拍子に現実に戻り、そこで初めてそれを描いた『ピカソ』という存在を意識します。
ピカソを引き合いに出すのは極端ですが、作品をお届けする以上、上記の鑑賞体験のように、一切のノイズなく作中の世界を味わっていただきたい。
人間の思考というものは全方位へ向け野放図であり、完全にジャックすることは困難ですが、蝶のように飛び回る皆様の意識、その羽根を少しでもピン留めできないものか、いつも躍起になっています。
読書中に「上手い」と感じることは、そのピンが抜け、作中世界から現実世界に皆様が舞い戻ってしまう契機となる。
よって最近は、いいと思った比喩や言い回し、文章表現についても、作品全体から見てギラついて映るときには、泣く泣くカットして平易な文章に留めることもございます。
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真に研ぎ澄まされた刃で肌を切られると、切れ味の鋭さ故、人は傷を負ったことに気がつかないそうです。
読み進める上で、引っかかりを覚えるような「上手さ」でなく、気づかれもしないような「上手さ」を手に入れられたら。
今より少し、小説を書くことが上手くなったと思えるのかもしれません。
そんな「上手さ」に少しでも近づけることを願って。
白鉛筆でした。