吉澤、異常なし
おれは女の指の周りでブンブンと音を立てて回っていた。女は空腹を感じながらおれを回して、同じ工場のラインで働く男の後ろを通った。女の空腹感は、もとから空腹だった男に上乗せされた。男はコーラのボトルと中身をチェックしている目線を自分の腹に落とし、突然の飢餓感を不思議に思った。女は工場の喫煙室に入り、回り続けるおれをテーブルに置いた。女はメビウスの5ミリパープルに火をつけると、コーラの品質管理をしていた男が入ってきた。男がテーブルの上のおれに近づくと、男の飢餓感が女に上乗せされ、男の新鮮な性欲が女に感染した。
女はメビウスの煙を男に吹き付けて、つきあわないか。と男を睨んで言った。男はテーブルの上のおれを丁寧に持ち上げ、回り続けるおれを指で挟んだ。おれはブンブン回った。男はおれを女へ返した。
女と男は工場を出ると、飢えを満たそうと大盛り焼きそばを食い、おやきをいくら口に入れても飢えが満たないことを察した。二人は回るおれを見ながら、性欲を満たそうとラブホテルに入った。部屋に入ると、女は回るおれをガラスのテーブルの上に置いた。お互いが相手の体に触れる前に、自分の服を急いで脱ぎ始めた。男と女は互いの裸を眺めて、さらに性欲が増していった。突然下から突き上げるような揺れが起きた。二人はよろめき、テーブルの上のおれも灰皿やリモコンと一緒に浮き上がった。テレビは大きく揺れ、戸棚と冷蔵庫も音を出して揺れた。男と女はぶつかり合うように体を重ねてベッドの上で抱き合った。
さらに大きな揺れが起きて男と女はベッドから浮き上がった。テレビは壁から落ち、戸棚と冷蔵庫の扉は開き中の物が飛び出した。男と女の体はすぐベッドに落ちたが、テレビも床には落ちなかった。戸棚に入っていたカップや皿も、冷蔵庫に入っていた缶やボトルも飛び出たまま床には落ちなかった。おれだけはテーブルの上から高く浮き上がってブンブン回っていた。男と女も体を動かすことは出来た。しかし次第に男と女は体を動かすことよりじっと抱き合うようになった。きつく抱き合ったまま止まった。二人は互いの体がくっつけばいいと強く願っていた。ゆっくりと男の手足は女の体に入っていった。女は体が大きくなっていった。ベッドボードを壊し、壁に頭と両足が着くと暫く体を屈めた。男の体は大きくならずに巨大化する女の体に完全に埋もれた。
女は床に手を着き、体を持ち上げると屋根が割れた。上階の設備品や動きの止まった裸の人間がパラパラと落ちてきた。女は5階建てのホテルを壊しても、まだ体は巨大化していった。国道沿いのこの周りに大きな建物は全く無い。女はホテルの倍ほどの大きさになってようやく巨大化が止まった。男は巨大化した女の目を使って外を見ることが出来た。女は裸のまま巨大化していた。男が左手を上に上げると女の左手も持ち上がった。右の指を動かせば女の指も動いた。女の体のどこかに入って巨大化した女を操縦できるようになっていた。すると女はどこへ行ったのか。男は女の名前も知らなかった。「おんな、どこへ行った。大丈夫か」と女の口から出た男の言葉。女の耳から聞くそれは男には日本語のどんな言葉にも、人間が話すような言語のようには全く聞こえなかった。ただその音は円盤が回るようなブンブンと唸る機械音が響いた。おれは、巨大化した女の横で周り続けていた。ブンブン。
足下の国道で停まったままだった車たちが急速に動き出し、近くにいる小さな人たちが車のような速さで動き出した。男には遠く四方を囲んでいる山の森の上空を止まっていた鳥たちが激しく動き出したのが見えた。男には絶えず高い音が聞こえるようになった。おれはブンブンと回転しながら女の顔の前に回り、後ろを振り向くように指示をした。巨大化した女が振り向くと、国道の先に女と同じ程度の大きさの緑色の塊がゆっくり動いていた。男には、この巨大化した女を操作して、この宇宙からやってきた怪獣と闘うことがわかった。男は女を勢いよく走らると、飛び上がって緑色の怪獣に蹴りを入れた。緑色の体は柔らかく男の足を跳ね返すだけだった。男がいくら殴っても蹴っても緑色の体には効き目がなかった。怪獣の体は粘り気があり、緑色と思っていた表面の色も変化し始め、海のような青くもなり太陽のような赤くもなった。おれは巨大化した裸の女と怪獣の上をブンブンと回っていた。
男は怪獣の体を掴もうとしたが、逆に怪獣の体に両手を吸い込まれていった。上空には自衛隊のF-35A機が隊列を組んで飛んでいた。地上では自走榴弾砲車が揃っていた。男は自衛隊の攻撃など効くはずがないと考えているうちに、巨大化した女の体は完全に怪獣の体に吸い込まれていった。完全に女の体が見えなくなった瞬間に、空と地上から自衛隊の攻撃が始まった。生き物に榴弾砲が命中していくと、生き物の体から青い血が流れだし、動きが止まった。その動かなくなった生き物の中から、巨大な女が生き物を食べているのが見えた。女は生き物の体をむしり取っては、その体のあらゆる箇所を口の中へ入れ続けていた。男はゆっくりと飢えがこれでようやく充たされていくのを感じられた。
「女、大丈夫か」と男は女に聞いた。「吉澤、異常なし」と女は自分の名前を言った。おれはゆっくり回転を止めた。