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【ノスタルジックワードローブ②】思い出の黒カーディガン

断捨離という言葉をとにかく耳にする。
あちこちで、目にする。
断捨離とは、
不必要な持ち物を見極めて捨てること、なのだろう
くらいは思ってはいたけれど。


ミニマリズム思考が社会現象になり、
ミニマリストと呼ばれる人々が現れ、
世間では
断捨離が大きなブームに。


ミニマリストの方の思考は、
尊敬でしかない。
ミニマリズムの本質を私はよく知らないけれど、
お掃除動画やら、
少ない持ち物にこだわるまでの過程の話は大好きで、
実際すっきりしたお部屋の中に必要なものだけを持つライフスタイルは、
憧れてやまない。


やりすぎミニマリストの存在も確かにある。
丁寧に暮らすとか、
不必要に無駄なものをもたないとか、
整理整頓された空間で余白を楽しむとか、
心のゆとりと整った生活であるはずなのに……

捨て活と題し、
持ち物を何個以下にするまで捨て続けるというもの。
必要かどうかの観点はひどく薄まってしまい、
とにかく毎日何か捨てる、と
明日は何を捨てようか、と。
捨てる自分になる!という勢いで。
洋服の数を減らすために捨てすぎて、
家族の服を借りて着ている、など
「必要」を捨ててしまう方もいる。


もちろん、
そういう経験を踏まえて
物事を整理整頓できる感覚が身に付いたり、
これまでの自分の直したい部分と向き合えるメリットはあるだろう。
失敗をするのも良し。
完璧を求めないのも、また良し。


断捨離しすぎてしまう方がいる一方、
断捨離することができない私のような人間もいる。


ということで、
持ち物の多い私は、
ミニマリズムをまっすぐに進むミニマリストの思考を非常に崇拝しつつ、憧れつつも
自分自身に落とし込むことは不可能だと自覚している。




このあいだ、
衣替えをしていて思うことがあった。
ミニマリストの方々のサスティナビリティな考え方の中に、
とても気に入った良い物をながく大切に使い続ける、というものがあって。
そこだけは、
私のようなマキシマリストにも少しは共通の感覚があるかも、と。

持ち物が多い人種は、
衣替えが大掛かりなイベントとなる。
1日では困難で、
数日間を要することも。
私もそのひとりで、
毎年、年間に何度か自分の洋服を見直す機会を持つ。
そして、
まったく袖を通すことなく数年所持しているお気に入りの洋服を、またクローゼットの奥に戻すこともある。
これが、すべての悪い気をとどめて良き流れを起こさない諸悪の根源だとは、思っている。

自覚はあるのよ。


しかし、
いつか着るかも、と
これすごく好きだった、と
今でもこんなにキレイな状態、が
束になって詰め寄ってくる。

うんうん、そうだよね。
あっさりほだされる激弱の意志。
それでも、
その洋服にしみ込んでいる思い出と、
ながく気に入っている洋服を大切に扱ってきた自負と、
謎の、見えない充足感を胸に抱いて
それらはまたクローゼットの闇へと葬り去られるのだ。

あの闇は、
記憶という名の楽園のような
無駄品の吹きだまりとなった地獄のような
おそろしい存在だ。
(ここまで言ってるのに、なくならない)


先日の衣替えで、
1枚のカーディガンを手に取った。
それは、黒いカーディガンで、丈はヒップにかかる程度のミドル丈。
やわらかなリブの長袖ニットカーディガンなのだが、袖口に向かってフレアになっていて、リブの太さがランダムなデザインになっている。
ボタンのないショールカラーに似た変形の襟。
裾は、アシンメトリーで前後左右に規則のない形。
裾の不揃いなラインが、着て動いた時にデザイン映えして、シンプルなコーデが特別に見えた。
アクリルと綿が80%20%の素材。
毛玉はない。
チクチクもしなければ、ガサガサもしない。
今の洋服だと、アクリルがこんなに配合されてると必ず毛玉できるのに。
あんなヘビロテしてもしなやかなままで。
今見ても、
機能性は優秀で高品質、
しかもとってもかわいいカーディガンだ。


このカーディガンは、
毎年目にして、広げてはたたんでいる。
そして、楽園と信じてやまない闇に。

ああ、今年も……


そう思ったのだけど、
今年はなんと処分することに成功した。
なんでかな、
なんだか、感動です。
自分自身に笑。
捨てることができた自分に。


このカーディガンは、
私が大学生の頃に購入したもの。
当時大好きだった洋服屋さんに何度も通って決めた、お気に入りのカーディガン。

高かったんです、
その時の大学生の私には。
とても高くて、買うかどうか迷う金額
でも、
デザインが好きすぎて思いきって買ったもの。
大切に着続けて、
それは大切にお洗濯をして、
デニムにもワンピースにもスカートにも合う大好きなカーディガンで、
よく着ていた記憶が今でも残っている。

ここ15年は着ていないよ。
これが現実。

捨てられないのは、
洋服じゃなくて思い出なんです。
思い入れなんです。

愛着、なのかね。

執拗なほどの愛です。


ここまで書くと、まるでストーカーです。笑


たくさん新しい洋服を持っている今。
カーディガンもたくさんあって、
これまでもいろんなカーディガンを着てきて、
それでもこのカーディガンだけは手放すことなく持ち続けている。

このカーディガンを何度も何度も着ていた大学生の頃の自分、
オシャレが楽しくて仕方なかった。
周りの友だちとのファッションの会話も、
そこにまつわる友だちの恋愛話とか、
通った洋服屋さんの建物の形状やディスプレイまで、
大学の近くにあったうどん屋やコンビニの名物店長の声まで、
全部、
簡単に思い出すことができる。

そんな魔法のようなカーディガン。


今の自分に似合う新しいカーディガンがいくつかあって、
これはもう着ることのないカーディガン。
思い出って、
生地にも縫い目にもくたびれたタグにだって
しつこくしみ込んでるんだから。

なめてた、ヴィンテージ。

古着に関心はないタイプの私。
何人もの歴史が、とか
時代の流れを見てきた、とか
全然わからないんだけれど、
自分史を何年分か見てきただけの1枚のカーディガンが、
なかなか捨てられない。

こんな、ちっぽけな事実です。
そして、巨大な記憶の力です。


でもね、
捨てることができた。

あのカーディガンを超える名品に出逢いたい、そんなことを思いながら、
私はついに長年のストーカーをやめた。


手放したカーディガンのことを
文字でしっかり綴ったらスッパリ思い入れを断ち切れる、と思ってここに書くことに。

これは、
私のお別れの儀式。
これからたくさんの不要な洋服を処分する時がくる。
それは、
今日の自分の気持ちの継続でもある。


ノスタルジックワードローブは、
記憶の中に確かにあるんだと
まだまだストーカー気質な自分にあきれる衣替えとなった。



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