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デートでジェノベーゼを食べてはいけないと知った男
以前私は「しろ」というアカウントでnoteを書いていた。ただそのアカウントをちょっとした勢いで消してしまい、今は「くろ」というアカウントで文章を書いている。「しろ」の頃から読んでくれている方、「くろ」になってから知って下さった方がいて、そんな出会いがとても嬉しく、皆さんに励まされながらnoteを楽しんでいる。
ただ「くろ」というアカウントになってからは心身の調子が本格的に悪くなり、特に最近は救いのないような内容を書いてきた。名は体を表すというが、私の心の白い部分の比率が少なくなり、黒い部分が多くなってきてしまっているようだ。
黒い文章を書くこと、それはそれで自分の気持ちを素直に表現し、つらい現状をなんとか乗り越えようとする一つの有効な手段、救いだと今は思っている。
だからこれからも黒い文章を書き続けるだろう。
ただ、最近は黒い部分に心が振れ過ぎていたのでここらへんで、明るい文章を書いていきたい。何事もバランスが大事であるし、やっぱりハッピーが一番である。今日くらい白くいたい。
ということで、前置きが少し長くなったが、私は大学時代に童貞が多く集う、民族音楽サークルに入っていた。「しろ」の時代から、このサークルでのエピソードはいくつか書いてきたのだが、今日は温めておいたものを思い切って出したい。
私は童貞を卒業することのみを夢見て、東京の大学に入学し、三重の片田舎から上京してきた。
童貞卒業一点のみを目指した、意識高い系童貞である。ただ、意識はかなり高いものの、童貞卒業のための手段がよく分からなかった。
今でいえば、いかがわしいネットワークビジネスに騙されるような、意識だけ高いヒヨコのようような童貞であった。
そんなヒヨコ童貞である私は、大学入学を機に出会いがありそうな、イベントサークルやテニスサークルのようなところに入ろうとしていたのだが、騙されるような形で民族音楽サークルという怪しさ以外の何も持ち合わせないようなところに入ってしまった。ネットワークビジネスもびっくりするくらいの怪しさである。
そこには、ハゲタカやカラスのような熟練の童貞がいて、怪しくはありつつも、悪い人はいなくてそれなりに楽しくやっていたのだが、童貞卒業という大きな目標からは遠ざかっていた。
しかし、そんな私にも東京マジックが訪れたのである。東京とは本当に怖いところだ。東京という夢に魅せられて、その夢が破れようとしても、まだなお東京に縋り付く人がたくさんいるというのがよく分かる。
東京には童貞をも勇者に変える、そんな魔力をもっているのだ。
何が言いたいかというと、童貞である私にもデートをする機会が訪れたのである。
大学のある授業でたまたま隣に座り、そこから仲良くなり、毎回その授業は一緒に出るようになっていた女子とデートをする約束をこぎつけたのである。
仲良くなるきっかけは今でもよく覚えているが、その女子が「(黒板のあの文字って)何て書いてあるか分かります?」と聞いてきたのだ。
私は童貞らしくそのころは視力が2.0あったので、すぐに答えることができた。この時の後にも先にも、尾崎豊のマネをして窓の向こうの空をいつまでも眺めていたことを感謝したことはない。尾崎豊のアドバイスにしたがって、高校時代は遠い空ばかり見ていて良かった。
とにかくここから少しずつ、その女子(ユキちゃん)と話すようになり、どちらともなく毎回隣の席に座り、そしてさらには待ち合わせて授業に出るようになった。
これには童貞有頂天である。有頂天とは、授業でユキちゃんと仲良くなる状況を端的に表現する言葉なのではないかと真剣に考えていたくらい有頂天だった。
そして、私は人生で最大の勇気を振り絞って、ユキちゃんに休みの日にどこかに遊びに行かないかと誘ってみた。この日は、アンパンマンか私かというくらい勇気があった。
そしてユキちゃんが「いいよー」と言ってくれた瞬間、この世は祝福に包まれた。こんな時に人は神様の存在を実感するのだろう。怪しい壺の1ダースくらい買ってもいい気分である。
だが、私は冷静さをあまりに失っていたので、大きなミスを犯してしまう。GG佐藤の気持ちが分かるほどのミスだ。人は、なかなかない状況に遭遇すると選択を誤る。これは尾崎豊も教えてくれていなかったので、童貞である私には分からなかったのだ。
それは民族音楽サークルの先輩童貞たちに、今度デートすることをふと漏らしてしまったのだ。デートできる喜びがもたらした大きなミスだ。良い時には悪いこともつきものだと、こういうところで人は学ぶのだろう。
先輩童貞たちはさっそく私にデートの心得を施そうとするのだ。今思えば、なぜ童貞にデートの心得を教えられなければいけないのか。
それは高尾山にさえ登ったことのない人に、エベレストへの登頂の仕方を聞くようなものである。高尾山の中腹のビアガーデンで生ビールの一杯も飲んだことがないのに、エベレストで荷物を運んでくれるシェルパの手配の仕方など分かろうはずもないのに。
ただその頃の私は素直を絵に描いたような、ピュア童貞だったので、先輩童貞たちのアドバイスと真剣に向き合ってしまった。真剣さの方向性を完全に間違えるという童貞ならではの行動が出てしまったのだ。
「初デートは映画がいい。ただ、恋愛映画は俳優がかっこよすぎて、その俳優と比べられ、お前のダサさにがっかりされるからやめておけ」とか「デートといえばパスタだ。でもトマトソースは跳ねて服を汚してみっともないのでやめた方がいい」とか「ヘアワックスをつけない者にデートに行く資格はない」とか「話題に困ったら相手の出身地を聞き、そこから話を膨らませるのがよい」とか「鼻毛は一本もないくらい抜いていった方がいい」とかそれぞれの先輩童貞が、それぞれの勝手な価値観でデートについて語るのだ。
私はそれを真に受けて、当日デートに臨んだのである。
まず先輩童貞のアドバイスを受け、映画を観に行くことにしたのだが、私が選んだのは「プライベートライアン」である。恋愛映画は避けた。ただ「プライベートライアン」は重厚な戦争映画だ。素晴らしい映画には間違いない。ただ初デートには重すぎるのである。しかも上映時間は3時間近くあった。これから仲を深めようとする男女には、そぐわない映画を選択してしまったと言わざるを得ないだろう。
しかも私はその上映時間の長さゆえに途中で眠ってしまった。デート前日まで、先輩童貞たちのデートに関する助言を、遅い時間まで聞いていたのが敗因である。先輩童貞は後輩童貞のデートという、大舞台に舞い上がり、話が止まらなくなってしまって夜更けまで、私にアドバイスをする会は続いた。
しかしそんな先輩童貞たちの必死のアドバイスが私にもたらしたものは眠気だった。もちろん映画自体は興味深いものだったに違いはないのだが、この日の私には薄暗い空間は厳し過ぎた。
プライベートライアン、眠っていたので今でも私にとってそのストーリーは謎のままだ。私の中ではライアンといえばドラクエⅣの第一章の主人公のままである。プライベートライアンにはホイミンは出てこないことくらいしか私には分からない。
映画が終わり、とにかく食事をしようということになったのだが、私は先輩童貞のアドバイスに従いパスタ屋に入った。そして私は頭の中で呪文のように「トマトソースはだめ、トマトソースはだめ、トマトソース、カッコ悪い」と前園真聖のように唱えていた。
ただ、童貞にはパスタメニューを選ぶのは難しい。ペペロンチーノ、ジェノベーゼ、ペスカトーレなど、童貞の敵性語でもあるカタカナ語が並び緊張感はマックスである。先輩童貞も「トマトソースはだめ」と教えてくれたものの、どのパスタを選べばいいかまでは伝えてくれなかった。本当に童貞は役立たずだと自分のことを棚に上げて思った。
私はとりあえず何かを選ばなければいけない、優柔不断は嫌われるだろうと、ジェノベーゼを選択した。優柔不断はモテないくらいは童貞でも知っていた。
ただ、出てきたパスタを見た私が驚愕したのも無理はないだろう。当時、三重では緑色のパスタなんてなかった。緑は野菜である。三重ではスパゲッティといえば、ミートソースとナポリタンしかなかった。三重ではスパゲッティをパスタと呼ぶことすら掟に反することで、ボンゴレビアンコなどをこっそり食べていようものなら、向こう三代までは村八分にあうという時代だった。
だから、私はこれまでのスパゲッティライフにおいて、ミートソースかナポリタンかという2択をすれば良いという安易な生活を送っていた。
しかし、スパゲッティ、東京ではパスタと呼称されるものは2択ではない。それも緑色のものまである。さすが東京である。とんでもない魔境に私は来てしまったようだ。
そして味もよく分からないまま食べ終えると、みっともなく歯と唇を緑色にさせた童貞が完成した。これなら服がちょっとトマトソースで汚れていた方がまだマシであったかもしれない。
食事中の会話もなかなかうまく進まず、童貞っぷりを遺憾無く発揮していたのだが、ここで私は童貞先輩の「会話に困ったら出身地の話」という助言を思い出した。
ユキちゃんに尋ねると長野県だそうだ。ここで私の山スイッチが入ってしまった。「長野といえばやっぱり槍ヶ岳と穂高だよね。特に奥穂高のあの景色は好きだなぁ。涸沢も無骨でいいよね。やっぱりけっこう登ったりしたの?」と長野県民は山好きという前提で、一人語りをしてしまった。
当然ユキちゃんは引いている。長野県民だからといって、登山に詳しい訳ではない。
三重県民だって伊勢神宮に参りまくっているわけもなく、伊勢海老を踊り食いまくっていない。ただ私は、デートが盛り下がっていく気配をひしひしと感じて焦ってしまい、ありったけの長野の知識(山中心)をひけらかしてしまった。
ユキちゃんからすれば災難だったと思う。きっとこの日のデートは人生の中でないものになっているだろう。
夕食後、どこに誘っていいか分からない上に、帰りたそうにしているユキちゃんの気配を敏感に察した童貞(私)は、そろそろ帰ろうと切り出した。ユキちゃんはその提案にすぐにのり、その日一番の笑顔を見せて、早々と改札の中に入っていった。
そして、新宿に取り残されたのは、ヘアワックスのつけ方が下手で寝癖のような髪型をして、鼻毛だけは異常に少ない童貞(私)だった。
もちろんユキちゃんとの二度目のデートはなかった。
こうして、大きなチャンスを逃して私はさらに童貞を拗らせて成長し、後輩がデートに行くと聞けば「尾崎豊を聞け。山の話だけはするな」とアドバイスを送る、迷惑な童貞先輩にレベルアップしたのだった。
おしまい