10ダルクと子守唄 1/9
スパイファミリー。ロイヨル。テーマは家族愛。スパイ小説風です。
バーリント、郊外
その男は、組織が用意した木造のコテージにいた。荷物はごくわずかで、黒のダッフルバッグに、読み古した何冊もの本、短波ラジオ、これまた組織に用意させたスクーターと盗聴器、9mm拳銃、弾倉だけだった。夜遅く、男が床のたわんだベランダに座って、ランタンの光で読書を始める。それと同時に、森の木々がざわめくなかに音楽を流す。クラシック音楽だ。1時間おきに本を置いて、スピルオーバーしている西国のニュースと国営ニュースに耳を傾ける。ニュースが終わると、再びクラシック音楽に聴き入るのだった。
男が何のためにここにきたのかは、誰にも分からない。金には困っていないようで、朝はスクーターで都心にあるカフェに向かい、パンとコーヒーを頼む。そして、ウェイトレスにチップをはずむのが日課だった。午後になると、ある通りのタバコ屋で密輸されたイギリスとアメリカの新聞、タバコを買い、森の中でハードなエクササイズをこなす。それから、バケットハットを目深にかぶって、分厚い文芸書や歴史書を読みふけるのだった。スカイブルーの瞳を隠しながら。
パスポートに記載された年齢は54。職業はビジネスマン。どんな意味にでも解釈できる。本ばかり読んでいたため、カフェのウェイトレスたちは、この男のことを小説の題材を模索中の作家だと思い込んでいるようだった。
男は、西国から米国へ亡命するために顔を変えた。そして、ある組織から、新たな名前と国籍と仕事が与えられたのだった。もちろん携帯しているパスポートは、年齢以外偽造されたものだが。
この地へ来て3週間が経過した。
男は、皮膚の硬い手でタバコに火をつけると、ベランダの手すりに肘を置き、肺に循環した煙をゆっくりと吐き出した。それを4回ほど繰り返したところで、コテージにある電話が鳴り響いた。もちろん、安全な回線を経由して掛かってきたものだ。
「やつが動き出したようです」
「了解。明日作戦を決行しよう」
それだけ言い残して電話を切ると、次は本部に掛けた。
「長官。私だ」
「おお、連絡を待っていたぞ。進捗はどうだ?」
「順調さ。なんたって、数年間イーデン校に潜入してきたからな」
「ミリアムが動き出したのか?」
ミリアムとは、男と同じ組織に所属しているスパイであるが、ある出来事を機にKGBに寝返った女だった。組織が彼女の動きを追っていたところ、とある実験施設と繋がりがあることが判明した。追っていた、というより、泳がせていたと言った方が適切かもしれない。偶然が重なったのだ。
「ああ」
「そうか。恋しいよ、あんたの作るマカロンが」
「ひと月前にプレゼントしたばかりじゃないか」
「そうだったか?」
「そうさ。イーデン校の生徒たちにも人気なんだ」
男はしゃがれた声で笑うと、準備は整った。明日作戦を遂行すると言い、電話を切った。
東国旧政権下。軍事目的でIQの恐ろしく高い動物を生み出そうとしていた研究があった。
その名は〈プロジェクトアップル〉
容赦ない実験を繰り返し、その結果、研究半ばで政権が崩壊し、計画が頓挫したと信じられている。しかし、新政権に移行すると同時に、秘密裏にKGBの手に渡り、今でも研究が続けられていたのだ。東国からKGBへ仲介した人物は、判明していない。男に与えられた任務は、その施設で被験体として拘束されている子どもたちを解放し、ミリアムと施設長官を拉致、情報収集することだった。ターゲットの動向を探るため、施設の重要な場所に盗聴器を仕掛けており、常時音声を意識している。しかし、それとは別に、もう一つ小型の盗聴器を仕掛けてあった。数日前に仕掛けたもので、組織には報告しないでいるものだ。
「ヨルさん、今夜バーにでも行きませんか?」
ロイドの声が聞こえ、男は耳を澄ます。
「……そうですね。では、サンドラー広場で、19時に落ち合いましょう」
男の口角が上がった。
グッドタイミングだ。
ロイド・フォージャー、精神科医でスパイ。
ヨル・フォージャー、市役所勤務の殺し屋。
アーニャ・フォージャー、イーデン校に通う超能力者。
男は、3人の顔写真が載った詳細な報告書に、2度目を通すとその場で燃やしたのだった。