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10ダルクと子守唄 8/9

スパイファミリーの小説です。テーマは家族愛。

50m前方、人の気配。

ロイドは立ち上がった。
精悍な体つきの男が壁に沿って、こちらに向かってきている。真っ暗な空間に、街頭の小さな光しかないため、顔ははっきり分からないが、その腕の中にはアーニャがいるようだった。ピンク色の頭が分かりやすい。ロイドは、やがて近づいてきたその人物を見て、目を見張った。
昨日の夜、バーで隣に座った男だった。

男は、濁ったスカイブルーの瞳と傷だらけの両手を見るやいなや、平手打ちをした。
パンッと乾いた音がこだまする。
ロイドは、突然の出来事に呆気に取られた。

「右頬もぶってやりたいところだが、この子がぐっすり眠っているからなあ」

唇を噛み締めて、男と対峙する。睨みつける。男の余裕をこいた表情が、導火線の燃焼速度を加速させる。男は、ロイドよりも身長が低いはずなのに、なぜか見下ろされているような感じがした。

「この子はな。まだ実験の途中なんだ。さきほど敵の襲撃があって、命からがら逃げてきた。俺たちは、世界平和のためにプロジェクトを進めてきたんだ。今更白紙にするわけにはいかない、だろ?」

男の挑発的な目に、汚い笑い方に、ロイドは我慢できなくなった。男に殴りかかる。男が倒れる隙に、アーニャをその手から奪えばいい。その他にも、26通りは思いついた。アーニャをこの場で救い出す方法を。
しかし、男のガードは固かった。ならば蹴りを、と思うが動きを読まれていたようで、あっさりと脇腹に突きをくらう。急所に入った。一瞬息が詰まる。
ロイドが怯んだ瞬間、男は走り出した。アーニャを抱えたまま、「段差」を使って器用に屋上まで登り、校舎から校舎へと飛び移る。こなれた動きだった。ロイドも男の後に着いていく。脇腹の痛みに顔を歪めながら、それでも足を止めることはなかった。
絶対にアーニャを救い出してみせる。そう強く決意していた。

アーニャを実験台にすることが許せなかった。
アーニャの自由を奪うことが許せなかった。
世界平和?ある権力者の私利私欲を満たすことが?
馬鹿馬鹿しい。
アーニャは、軍事や任務のための道具じゃない。
ただ1人の、生きる権利をもった人間だ。

それから、アーニャは
アーニャは……かけがえのないオレの娘だ。

ロイドは必死だった。脇腹が痛い。ぶたれた頬も、拳も痛かった。それでも男を追いかけ続けた。いつの間にかイーデン校を抜け、近くの公園まで来て、やっと男は立ち止まった。

「アーニャを、返して、くれ」

ロイドの声が掠れていた。男は静かに振り返る。

「もう、分かってる、だろう?」

乱れた呼吸を整えながら、続ける。

「その子は、昨日オレが話した子だ。大切な娘なんだ。金なら、いくらでも渡す。なんなら、オレを実験台にすればいい。頼む。アーニャを、返してくれ」

ロイドの真剣な眼差しが、同じスカイブルーの瞳に映った。
その瞬間、男の目が変わった。
温かい目。
まるで我が子に向けるような目をしていた。

「いいだろう」

男は、アーニャをロイドの腕に手渡しながら、盗聴器の存在を気にするかのように、耳元で言った。

「この件は俺が片付けておく。俺らの仕事だ。だから、これ以上邪魔するな。」

絶対に関わらせないという威圧的な雰囲気に、ロイドは一瞬たじろいだ。男はロイドから距離を取ると、穏やかな表情を見せた。

この件とは、プロジェクトアップルのことか?なぜ、これほどすんなりアーニャを返してくれるんだ?金はいくら用意すればいい?それとも、オレを拘束したいのか?
ロイドは、呆然としていた。しかし、浮かんだ疑問はすぐに払拭されることとなる。

「お前も、親になったんだな」

男の感慨深い声で、我に返る。

「10ダルクを、無駄遣いされなくてよかったよ」

男は、悪戯な笑みを浮かべた。

――10ダルク

ロイドは、息を呑んだ。一瞬思考が止まり、幼い頃の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
父に参考書が欲しいと言って、手に入れた10ダルク。
東国軍が西国へ侵攻して来たあの日、友だちがみんな持っている兵隊セットの欲しさに、父に嘘をついて、ねだったお小遣いだった。父は、自分たちの遊びを心底嫌っていた。

瞼の裏が熱くなる。

「え……と……父さん……?」

男は答える代わりに、柔らかく微笑んだ。スカイブルーが潤む。整形した顔に父の面影は全くなかった。けれども、あの頃の厳しくも頼もしい雰囲気は隠し切れていなかった。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
唇が震える。足がすくむ。

「父さんっ!!」

「そんなでかい声出したら、アーニャちゃんが起きちまうだろうが。ヨルさんもアーニャちゃんも心から愛してやれよ、――」

唇の動きだけでロイドの本名を言い、肩にぽんと手をのせた。

「じゃあな」

男は片手を振りながら、足早に遠ざかっていく。目に溜めきれなくなった涙が頬を伝った。
ああ、間違いない。本当に自分の父親だ。亡くなったと思っていた。もう会えないかと思っていた。それに、父に嘘をついたことをずっと後悔していたのだ。唇を噛み締める。嗚咽する声を抑える。
スパイである黄昏ですら気づかずにいたが、男もスパイだった。
スパイ同士の接触は避けるべきだ。
頭ではそれをよく理解しているため、父の背を追いかけたくなるのを理性で必死にくい止める。
誰かにマークされていたら、芋づる式に仲間が割れてしまう。予想だにしないところから、情報が漏れてしまう。
ほんのささいなことでも、命取りになる。
そんな脆い世界に、自分たちは生きているのだ。

父の背中がどんどん小さくなり、やがて完全に姿が見えなくなってしまっても、ロイドの溢れる涙は止まらなかった。
腕の中でよだれを垂らしながら眠っていたアーニャが、いつの間にか目を覚ましていた。小さくて温かい手がロイドの頬にふれる。

「ちち、かなしそうで、うれしそう?」

「アーニャ……」

「ちち、ぼろぼろ。ほっぺがまっか」

アーニャは、黙ってロイドの頬をよしよしとなでた。ロイドはアーニャを抱える腕に力を込める。胸の内に、温かい感情が一気に込み上げてきて、柔らかい笑みが溢れた。

父は知っていたのだろう。
自分が嘘をついていたことを。
息子がこそこそ陰でやっていたことは全部筒抜けだったのだ。だけど、父はそんな自分であってもずっと信じてくれていた。
人と向き合うことの大切さを。
人を憎むということの愚かさを。
本当に憎むべきものは、『戦争』であるということを。
この子なら、きっとよく理解してくれると、そう信じていたのだ。

「アーニャ、よだれがすごいぞ」

ロイドはズボンの後ろポケットからハンカチを取り出すとアーニャの口元を拭ってやった。

「ちちも、なみだとはなみずがすごい」

アーニャに、よだれがついたハンカチを奪われ、自分の涙と鼻水が拭われる。同じハンカチを使われることに少し抵抗があったが、拒まなかった。

「お家に帰ろう。ヨルさんも心配してる」

ロイドは、1年生の頃より少し大きくなったアーニャを胸の前に抱いたまま、家の方向に向かって歩き出した。

車で10分、徒歩で1時間半掛かる道のりであるが、アーニャを抱いて、ゆっくり歩いて帰るのも悪くないと思った。歩き疲れたら、タクシーに乗れば良い。それまでは、親子2人の時間を大切にしながら、のんびり帰ろう。

しかし、アーニャの表情は一向に晴れなかった。

「アーニャ、どうした?」

ロイドに揺られながら、アーニャがぽつりと呟く。

「アーニャ、こわかった」

「すまない。オレの落ち度で怖い思いをさせてしまった」

ううん、というようにアーニャは首を横に振る。

「……アーニャ、――じんだから、じっけんだいになれっていわれた」

ロイドは息が詰まった。
――人。第二次世界大戦にて、迫害を受けた民族。そういえばアーニャは、古語が得意だった。古語を母語とする国でも、当時の教皇は民族の迫害に目を瞑っていたというが……。

「ちち。アーニャ、ほんとうは、いらないそんざい?」

ロイドの体が怒りに震え、胸に苦いものが込み上げてくる。やがて、その怒りが殺意に変わった。

「そんなことはない!断じてない」

強い口調で答える。
ロイドは殺意を吐き出すかのように、深く息をついた。

「アーニャ、よく聞いてほしい。
――人だからダメなんてことは、絶対にないんだ。それに、アメリカ人とか、――人とか、ソビエト人とか、そういったようなものがあると信じてはいけない」

ロイドは、諭すような口調でアーニャに語りかける。

「ただ一人一人の人間がいる。それだけなんだ」

アーニャは、ロイドの言葉を理解するのが難しいらしく、頭にはてなを浮かべているようだった。抽象的なことを言われてもまだ分からないか、とロイドは言葉を選び直す。

「つまり、その……アーニャが何者であるか、とか関係なくて……ただ、愛してるってこと、だよ」

後半はぼそぼそと口ごもるように言った。背中がむず痒くなり、そっぽを向く。アーニャは、横を向いたロイドの顔をじっと見つめた後、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「アーニャも、ちちのことあいしてる!」

アーニャの無邪気な笑顔が、温かい声が、偽りのない純粋な言葉が、ロイドの胸を満たしていく。ロイドは、わずかに顔を歪めた。

親とは、割に合わないものだと思う。
「男の子を、殴った……?しかもデズモンドの息子を……!?入学初日に失点1……おまけに息子との仲も最悪に……」

親とは、愚かなものだと思う。
「どうしたホラ、なぜ解けないんだ??」
「べんきょーやぁ〜〜〜!」
「オイ!!待てコラ!!」

親とは、一生懸命なものだと思う。
「謝れアーニャ!仲直りするんだ……!」
「なんかすごいぷれっしゃーかんじる……!」

親とは、不器用なものだと思う。
「ちち、ぜんぜんわくわくしていない。ちちがそんなだとアーニャもなえる。もっとアーニャをたのしませるために、ぜんしんでわくわくをひょうげんすべきだとおもう!」
「この店にある衣料品すべて試着させていただきたい」
数分後。
「くそださい。なえる」
「……(放心)」

親とは――。
親とは――。
親とは――。

「100てんまんてんです。ちちもははもおもしろくてだいすきです。ずっといっしょがいいです」

アーニャに出会えて、よかった。
アーニャが生きていてくれて、よかった。

――アーニャの親になれて、よかった。

今なら分かる。

「ただ元気に生きていてくれれば、それでいいのに」ぽつりと呟いた父の言葉が。

その通りだよ、父さん。

父は間違いなく自分たちを愛していた。
そして、今もなお愛しているのだ。
ロイドは、また目頭が熱くなった。

「ちち?」

アーニャが上目遣いで見上げてくる。

「なんだ?」

「これからもずっといっしょ?」

ロイドは、涙目になりながらふっと笑った。

「当たり前だろう。家族なんだから」

アーニャはその言葉に目を大きく見開き、「かぞく……」と呟くと、はらはら涙を流した。そして、その涙をロイドの胸に押し付ける。ぐりぐりと。少しだけ痛みを感じたが、その痛みすら、愛おしかった。

しばらくすると、すやすやと小さな寝息が聞こえた。ロイドは、タクシーを拾うことにした。

「ヨルさん、フランキー、ただいま」

「おかえりなさい。アーニャさん……見つかったんですね」

ヨルは、へにゃへにゃと床に座り込む。緊張の糸が切れて、どっと疲れが出たようだ。フランキーは「見つかって本当に良かった」と神妙な顔つきで言った。

「じゃあ、俺はこれで失礼するわ」

「ああ。ありがとな、フランキー」

「フランキーさん、ありがとうございました」

腰が抜けたままのヨルが、頭を下げてお礼を言う。フランキーは、どういたしまして、と柔らかい声で返すと、静かに立ち去った。
ロイドは、アーニャを夫婦の部屋のベッドに寝かせたあと、ヨルを横抱きして、同じ部屋に連れて行く。ヨルは声にならない声をあげていたが、殴ってくることはなく、そのままアーニャの左側に下ろしてやった。

「え、あ、ロイドさん?」

「今日は3人で寝ましょう」

「は、はい……でも、ロイドさん怪我していますよね?手当てしないと」

ヨルが起きあがろうとするのを、ロイドは手で制する。

「大丈夫です。ありがとう、ヨルさん」

ロイドは、自室で簡単に手当てを済ませ、寝巻きに着替えると、アーニャの右側にごろんと寝転んだ。

長い1日だった。いろいろあり過ぎた1日だった。

全て夢だったかも知れない。実は父とも会っていなかったのかも知れない。

「ロイドさん、ありがとうございます」

ヨルの控えめな声が聞こえる。

「こちらこそ、ありがとうございます。ヨルさんは居てくれるだけで、心強いです」

「そんな、私はなにも……。だけど、アーニャさんが帰ってきて、ほっとしました」

「ええ、ボクも。そうだ、ヨルさん」

「なんでしょう」

「子守唄、歌ってもらってもいいですか」

ヨルは、いいですよと、穏やかな口調で返した。

銀色の明かりの下
お眠りなさい 
私のかわいい王子さま
お眠りなさい

ヨルの歌声は安心感をもたらし、全身の力が抜けていくようだった。心なしか、ヨルの声と母の声が重なった気がした。懐かしい。鼻の奥がツーンと痛んだ。

隣には、愛おしい娘と妻がいる。3人、同じベッドで寝る。ただそれだけのことなのに、幸福感が胸を締め付ける。

ロイドは、ひりひりする左頬を抑えながら、暗くて遠い心地よいところに引き込まれていった。

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