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辰 国立劇場 初春歌舞伎 1

『石切梶原』 <白梅の芝居見物記>

 三宅坂の劇場が休場する中、本年は初台の新国立劇場中劇場で、国立劇場の初春芝居が行われました。
 音響は悪くはないのですが、歌舞伎芝居に向いているかと言えば、とてもそうとは言い難い劇場です。花道も申し訳程度に付いているに過ぎません。巡業などで地方のホールにおいて上演される芝居に近いと言えるように思います。

 ただ、幕が開いてしまえば、やはり歌舞伎役者あっての芝居。劇場云々より、そこでどんな芝居が上演されるのかが重要であることを実感します。
 ないものねだりをするより、今後、どんな志をもって、どんな芝居を上演していくのか。
 国立劇場に携わる方々の、古典芸能継承への情熱と責任感あるご活躍を見守っていきたいと思います。

 梶原平三誉石切

 初春にふさわしい狂言と言えますが、それは役者の大きさや華やかさ、芝居のうまさがあってこその芝居であるからとも言えます。
 そうした視点から見れば、正直なところ、まだ物足りなさが残る尾上菊之助丈の梶原平三であると言わざるをえません。
 中村吉右衛門丈の芝居を受け継ごうと、真摯に取り組んでいることは伝わります。ただ、いまだ先人の舞台が記憶に強く残っている観客からすれば、足りない部分に目が向いてしまうのは、致し方ないようにも思われます。

 こうした感想を抱いてしまうのは、菊之助丈に対してだけのものではもちろんありません。菊之助丈世代の全体に感じてしまう、観客としての偽らざる感想です。
 ただ、観客としての思いは、辛抱強く待ちましょう、見守って参ります、と言う気持ちも強いのであって、古典芸能を観客側から支えたいという「楽しみ」をもって劇場に足を運んでいるのもまた事実です。

 『石切梶原』を拝見して、観客としては、これからも研鑽を積み、精進を重ねて下さることと信じて、ここでは別の角度からの期待を書いて見たいと思います。

 今、菊之助丈の世代が意欲的に新作歌舞伎などに取り組まれ、大きな成果を上げていると私は思います。
 そして、そうした活躍があるからこそ、ご自分達の芸の精進と並行して、今後期待されることが、クローズアップされくるのだということを実感いたします。

 今回の公演のインタビュー記事で、お父様が代が替わったということをおっしゃっておられるのを目にしました。ご自分の芸道への精進の上に、座頭役者としての役割がより大きく、強く期待される立場になっているのだと思います。
 今回の舞台で強く感じたことは、代替わりの中での観客としての期待でもあると言えます。

 歌舞伎は演出家を必要としない芝居だとよく言われます。
 それは、座頭役者を中心に、役者というプロの職人が集まって、気心が知れた中で無意識に芝居をまとめていくことが出来る、その実力が歌舞伎役者にはあるからだと思われます。
 ただ、今回は座頭役者を中心にうまくまとまっていた、とはとても言い難いように、私には思われました。

 菊五郎劇団としては畑違いの吉右衛門劇団系の芝居作りを指向して菊之助丈が舞台に臨むことを明言され、それに沿った芝居作りがされたのでしょうが‥。演出家の視点なくしては、なかなか簡単にはいかないものだということを、改めて考えさせられました。
 吉右衛門劇団系の芝居、という視点で観客も見てしまうなかで、どうにも芝居全体としての統一感のない舞台になっているのが、私としては非常に気になりました。

 圧倒的存在感で梶原が存在し、そこに観客の目が集中出来れば、見過ごされることかもしれません。
 劇場の間口も狭く、後ろに多くの役者が並ぶ中での芝居なので、いやが上にも一人一人の役者の存在が目に入って、気になってしかたがなかったとも言えます。

 吉右衛門丈は、中心的役者だけで芝居を見せればいいというより、義太夫狂言などは特に、登場人物全体で芝居作りをしていくことを志しておられた役者さんであったと、私は思います。
 現中村吉之丞丈が若かりし頃、吉右衛門丈の後ろにひかえていた時、芝居に集中していないと、後ろに目があるがごとくに、師匠に叱られたというようなことをおっしゃっているのを、聞いたことがあります。

 多分、今回の舞台でも、吉右衛門丈のそうした芝居に対する心構えは共有されていたのだと思われます。ただ、それがまだ付け焼き刃で、行過ぎていたり、足りなかったりで、私が気になったのだとも言えると思います。

 どんなところに、統一感のなさが出ていたか。
 わかりやすいのは、居並んだ梶原方の大名と大庭方の大名の仕上がり具合です。
 筋書きに書かれた役者さん達のコメントを読むと、役作りの肝は伝わっているように思われます。ただ、それが舞台に表れるにはかなりの距離があるようにも思われました。

 今回、いい意味での緊張感のある舞台というのは、神経質に緊張感を持つこととはちがう、ということを改めて感じました。義太夫狂言に必要なのは、肚のある芝居になっているかということだと言うことを、見物としても学んだように思います。

 梶原方の並び大名がぼーっとしているように見えたり、緊張感ゆえかかえって貧相に見えたり、その一方で大庭方の大名が背筋が伸びて梶原方の大名より分別のある大名に見えてしまい、端敵としての面白みがでなかったり、面白く演じている役者が却って悪目立ちしてしまったり‥。
 言うは易し行うは難しということを実感させられました。

 坂東彦三郎丈の大庭も、大きさは出ていたのですが神経質なように見えてしまいかねないのは、肚の芝居にまだなっていないためでしょうか。
 今後の研鑽にご期待申し上げたいと思います。

 菊五郎劇団として、どこまで義太夫狂言にこだわっていくべきなのか、それはご本人達が決めるべきことかとは思います。
 忠臣蔵の塩冶判官や早野勘平など、尾上菊五郎丈につながる当たり役も、劇団にはあるのだから、より深められる芝居が増えていったら、それも見物としては、楽しみでもあります。

 その一方で、観客の立場として、劇団だからこその魅力を見直していただけたらと願わずにはいられません。
 例えば、『め組の喧嘩』は私もお父様の舞台に熱狂した一人で、大好きな狂言の一つです。喧嘩に向かう場面など、菊五郎劇団ならではの魅力があり、いっしょに駆けつけたいような気持ちになって大興奮したものです。
 それが‥。昨今の上演では、播磨屋系の役者さんが入ることによって、かなり崩れてしまっていたことに、私としては大変なショックを受けました。

 一朝一夕にはいかないでしょうが、常にいいものを目指していく姿勢は、舞台の魅力を保っていくという点でも、必要であるように思われます。

 吉右衛門丈の当たり役として、語り草になっている芝居に『俊寛』があります。私も一度だけではありますが、長谷川等伯の「松林図屏風」のような、芸術の極致とも言える舞台を拝見させていただいたことがあります。
 ただ、そうした舞台を毎回拝見できていたわけではありません。一度など、俊寛以外の役が非常によく出来上がっているのに、俊寛だけ今ひとつの出来のように感じた舞台もありました。

 いい芝居を見ていると、観客が要求するハードルもより高くなってしまうということもあるとは思います‥。
 今考えれば、周りがよかった時は、吉右衛門丈の周りに対する演出の目が行き届いていたのだろうと思います。

 江戸時代の昔から座頭には、二枚目の人気役者とは次元の異なる責任が要求されてきたのであり、それに応えるために、さらに芸の研鑽も必要であったように思われます。
 座頭をつとめるということは、周りの力をいかに引き出し、まとめていくかということ。そうしたことが最も期待されてきたのとではないか。
 世間に物申す集団であった芝居國にあって、そうしたリーダーの存在が江戸時代から求められて来たのだと、私は思っています。

 どれだけ多くの力をうまくまとめ上げることができるか。そうした努力や責任感が、また役者としての大きさや輝きにつながっていくのだろうと、私は思います。
 どれだけ多くの魅力的な座頭が、歌舞伎という芝居國に生まれるのか。
 それを楽しみにして、芝居見物を続けたいと思います。

 他二作は次回にゆずります。
                        2024.1.23

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