白田真綾と白田真澄(祖母)の話
愛している。でも憎んでいる。
憎んでいる。でも愛している。
愛憎というものをゆっくりと考えている私です。この両極端な感情を、心理学ではアンビバレンス感情というらしいです。
祖母が亡くなりました。
末期腎不全でした。
享年92歳でした。
私にとって祖母は、私の育ての親であり、私という人間の人格形成に多大な影響を与えた人の内の1人であり、私の愛する家族であり、私にとって憎たらしい女でもあります。
幼い私に愛も憎しみも与え続けた存在。外面が良く、感情的で、プライドが高いお嬢様。愛情深いけれど、妬み嫉みの感情も深い、昭和、平成、令和を跨いだ女性。太平洋戦争も経験した女性。
私の祖母・白田真澄の話をさせてください。(こんな風に書くと、「孫の立場の癖に何言ってんだこいつ」「もっと年長者に敬意を払え」「死者を悪く言うな」だの言われそうなものですが、こちらは私の庭ですので…。仲良し家族崇拝・年長者崇拝がご趣味でしたらご自身のお庭でどうぞ)
祖母は、「私の人生、こんな筈じゃなかった」とよく言っていました。
元々由緒正しい血筋の生まれ、6人兄弟の末娘の祖母は、小柄な女性でした。料理と裁縫が得意でした。実家には昔、古びた大きな足踏みミシンがあって、祖母がそれを使うのを、私はじっと眺めるのが好きでした。右足でペダルを踏みながら、両手でミシンを操る背中。ペダルがギィ、ギィ、と鳴ります。ギィ、ギィ、ギィ、柔らかく軋む音を、幼い私はぼんやりと聞いていた覚えがあります。
「こんな筈じゃなかった」。祖母は本当は、洋裁学校に通いたかった。18で田舎の農家に嫁ぎたくなどなかった(家柄が分かる遠い親戚同士で無理矢理結婚させられたそうです)。祖父が後妻の子だった所為で本家から追い出された。自分以外の兄弟は皆優秀で、自分だけが頭も器量も悪かった。こんなに長生きする筈じゃなかった。私は祖母の自虐とも嘆きとつかない文句を、「昔の人って大変だったんだねー」と思いながら聞いたものです。(特に田舎の農家の嫁いびりが酷すぎて、祖母が泣きながら実家に逃げ帰り、それを祖父の父親が鬼の形相で連れ戻しに来たという昭和壮絶エピソードは平成生まれの孫ながら震えながら聞いたものです…。怖ァい!!)
実家に居た頃、祖母のお客様がよく茶の間にいらっしゃっていました。(こちらの文化でお茶っこ飲みと言います)
私は祖母から、「お客様が来たら正座して、両手を揃えて頭を深々と下げ、いらっしゃいませごゆっくりどうぞと挨拶しなさい」と言われて育ちました。幼い私は素直に言う通りにしていましたが、それが白田家にしかない作法だと知った時、猛烈に恥ずかしくなりました。私の親友も、幼馴染も、客人に対してそんな畏まった挨拶はしないと知ってしまいました。「私以外の子どもは来客があったとしても誰一人そんなことをしていない」と気付いた時、「礼儀正しい子供を強要されている、自分の株を上げる為に利用されている」と感じ、なんだか背筋が寒くなったものでした。
(…と、子供の頃は思ったものですが。20代の頃に、実家に帰省した時、たまたま祖母のご友人がお茶っこ飲みに来られていました。私がふざけて昔よくやっていた古風な礼をしたところ、相手の方が深く深く縮こまる様に頭を下げてくださったので、「そんなに悪いものでは無かったのかも知れないな」と思いました)
祖母は花が好きな人でした。
白田家の庭は色とりどりの花が植えられており、祖母が丁寧に手入れをしていました。
「ばあちゃんは何で花が好きなの?」と、私が聞いた時、「花は、愛情を込めて育てれば、ちゃんと咲いてくれるから。花は裏切らないから」と言っていた、祖母の言葉を今でも覚えています。花が好きなのが、「綺麗だから」「良い香りがするから」という理由ではなかったという意外さを、私は今も噛み締めています。
祖母は料理が好きでした。
料理の品評会で賞を取ったことを、いつも誇らしげに話してくれました。料理もお菓子作りも得意だった祖母。鰻も豚も自分で捌いた祖母。祖母の作るご飯はいつも美味しかった。
70を過ぎた辺りから、腰が痛くて長時間台所に立っていられないと言い、料理を一切やめてしまった祖母。
祖母の料理の味を思い出しながら、私はよく実家の家族に料理を振る舞いました。ばあちゃんが昔作ってくれた酢豚を完全に再現し、実家の食卓に出したところ、父が嬉しそうに沢山食べてくれました。姉に「この酢豚の味、懐かしくない?」と聞いたら、「え? 何が?」と聞き返されました。(そうか…姉は料理を全くしないし、料理自体に興味が無いから、昔の味も憶えてないんだな…)とびっくりしました。
鶏と大根の煮物と、土鍋で炊いた五目ご飯を、祖母は沢山食べてくれました。それが、最後に私が祖母に作ってあげられた食事になりました。
祖母は本が好きな人でした。
源氏物語。枕草子。徒然草。百人一首集。純文学や古典文学など、色々な本がありましたが、祖母は特に、夏目漱石が好きなようでした。『草枕』の、「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という一文を、よく私に聞かせたものでした。
「昔読んだ本をもう一度読みたい」と祖母に頼まれて、鶴見祐輔の『母』という本を探して、祖母に渡しました。私も試しに読んでみたところ、(息子を一人前に立派に育て上げるという、昭和の古き良き母親像の話だなぁ…。祖母はきっと、こういう母親になりたい、という気持ちがあるから、この本が好きなのだろうな)と思いました。
私が好きな上橋菜穂子の『闇の守り人』という本を貸したところ、祖母がとても気に入ってくれました。家族、祖先、意志の継承をテーマとした物語だった為、非常に祖母の気に合ったようでした。同シリーズの『精霊の守り人』も貸したのですが、そちらは全く気に入って貰えなかったので、(精霊の守り人も面白いのになぁ。やはり祖母の心にはご先祖様的な話しか響かないんだなぁ…)と幼いながらに思いました。
祖母、白田真澄は、2人の息子を溺愛していました。
私の叔父。厚生労働省指定の難病の影響で長年苦しんだ叔父に関しては、きっと祖母には、「障害のある身体に産んでしまって申し訳ない」という気持ちがどこかにあったのかも知れません。叔父が緊急入院した時、家族が医師からの治療方針の説明を受けるという場面がありました。車椅子に乗った祖母が「おらはいい、聞きたくない」と言うのを、私が(うるせえ、全部聞け、おめーの息子だろうがよ)という気持ちで医師の前に半ば無理矢理運びました。医師からの淡々とした説明を聞いて、祖母は泣き崩れました。まさか自分の息子がこんな状態になるなんて、白田家の先代にも同じ病気の人がいる、私が妊娠中に農業で無理をしたせいで…とさめざめ泣く祖母を見て、「産まれながらの障害や病気を持った子を産んだ女は、一生業を背負うんだなぁ。気が強いばあちゃんが、こんな風に泣くんだなぁ。この厄介な病気に遺伝の可能性が少なからずあるなら、私は本当に、自分の子供は欲しくないなあ」と思ったものでした。
白田真澄は自分の息子を愛していました。私の父。仕事も農業も田舎のご近所付き合いもしっかりとこなし、人当たりも愛想も良い自慢の息子。深く深く愛するあまり、祖母は私の母を嫌悪していました。「出来損ない」「ざまかれ(こちらの方言で酷い罵倒の言葉)」「ほんでなす(こちらの方言で以下略)」「役立たず」「白痴」「クソの役にも立たない」「お前がこんなに仕事が出来ないなら、お前の親も何も出来ないんだろう」「ろくでなし」「馬鹿」「貧乏人」「この家から出て行け」あらゆる罵声を母に浴びせていました。そして母のストレスは、幼い私に全てぶつけられました。
祖母はその事実を知っていたのかしら。祖母が母に強く当たるたびに、私は母から精神的虐待を受けていたと、知っていたなら。私が物心がつく前から、小さく幼い頃から、貴方達の愛憎に巻き込まれていたと、悲しい思いも辛い思いも理不尽に背負わされていたと、知っていたなら。祖母は私の為に何かしてくれただろうか? 母への態度を改めてくれただろうか? 今はもう聞くすべは無いけれど、そんなことを考えます。(こう書くと祖母がとんでもない悪者のようですが、母自身も性格や人間性に問題有りの女だったので、いやはや何とも…。少なくとも、母と祖母、2人の相性が最悪だったことは確かです)
ああ。
私のおばあちゃん。
愛しています。でも憎んでいます。でも、愛しています。
往年の祖母は認知症が酷く、何度も何度も同じ質問を繰り返していました。睡眠障害で昼夜逆転し、家の中をうろうろと徘徊し、ひとりで外へ出かけてしまって家族が泡を吹いたこともありました。それでも、私のことはちゃんと覚えていてくれました。
90を過ぎても、着替え・入浴・食事・排泄など、自分の身の回りのことは自分でできる人でした。口も回る人でした。要介護度認定がなかなかおりず、家族が非常に困っておりました。
自分の体が思うように動かないことや、自分の要望が通らないことに、ずっと苛々している様子だった祖母。
入院先の病院で強い不安から夜中に大騒ぎし、「家に帰れないなら今すぐここで首を吊って死ぬ」と叫んだ祖母。
「寂しい。寂しい。誰かが側にいないと、寂しい」とずっと言っていた祖母。
亡くなる前日に、最期に、私がICUへお見舞いに行った時。
「おばあちゃん。真綾だよ」という私の呼びかけに反応はしたものの、何も応えては貰えなかった。強い睡眠薬の影響で意識が混濁した祖母。でも、生きている祖母に会えて良かった。私は祖母の右肩をさすりました。「今まで本当にありがとう」という気持ちを込めて、何度も何度もさすりました。
伝わったかしら。伝わっていたらいいな。でも、伝わらなくてもいい。
ああ。ああ。
やはり、愛しています。
でも、やはり、憎しみもあります。
私の穏やかで平和な幼少期を奪った根源は貴方でした。貴方が母を虐めるせいで、私にまでその被害が及んでいたことを、私はきっと、これからも、許せない。
貴方が私の陰口を言っていると、母から聞きました。表では聞いたことがないけれど、裏では私のことを影猫(宮城の方言。悪口)と呼んでいたそうですね。悪口なのに言葉の響きが可愛くて、笑っちゃったけど。
化粧やアクセサリーを身に着けることを覚えた私のことを、ご近所さんに「孫が派手になった。気に入らない」と触れ回っていたことも知っています。貴方は着飾ることが嫌いな人でしたね。
私が「人に触れ、人を癒す仕事がしたい。セラピストになりたい」と話した時、「それはめくら(盲目の人)がやる仕事だから辞めろ」と言いましたね。初めて、祖母から直接的に、私の気持ちを全否定された瞬間でした。姉が「今はそういう時代じゃない」と祖母を窘めてくれたけど、私は悔しくて哀しくて、大泣きしました。祖母の前であんなに泣いたのは初めてだったかも知れない。
憎んでいます。
でも、愛しています。
貴方が養老院(老人ホーム)に行く為に貯めていたお金を、私達姉妹の進学費用の為に惜しむことなく使って下さいましたね。
なんの役にも立たないピアノなんかさっさと辞めろ、金の無駄だ、と私に言う祖父に、「好きでやってるんだから、やらせてやれ」と怒って下さいましたね。
姉妹喧嘩をした時は、いつも私の味方でいてくれましたね。
大事な息子の子供として、可愛い末孫として、惜しみなく愛して下さいましたね。
おばあちゃん。
ああ、おばあちゃん。
私のおばあちゃん…。
愛しています。憎んでいます。でも、愛しています。でも、憎んでいます。でも、愛しています。でも、憎んでいます…。私はずっとその繰り返し。だけど、やはり、最後には「愛しています」が勝つ。嫌な思いもしました。悲しい思いもしました。でも、愛されていました。私の成長を喜んでくれました。私の冗談に笑ってくれました。
人間は不完全で、完璧なんてあり得なくて、どんなに上辺は取り繕っても、奥底には劣等感と妬み嫉みがあると、貴方は私に教えて下さいました。自身の人生を以て、教えて下さいました。
今までの私にとって、お墓参りは空虚なものでした。
これからは、特別なものになります。大好きな貴方の骨と灰が眠る場所だから。お花を買っていきますね。貴方が大好きだった、白い百合の花。
私は、貴方の待望の曾孫は産めなかったけれど(これから産むつもりも一切無いけれど)。貴方が私に受け継いでくれた、料理、お菓子作り、花を愛する心、読書の面白さと奥深さ、おもてなしの心。そして、あたたかな愛情。私は忘れません。過去の貴方が私にしてくれたように、私も惜しみなく、この両手を誰かの為に使いたい。
ありがとう。
おばあちゃん、ありがとう。
貴方に出会えて良かった。
18年間、私を育ててくれてありがとう。
3X年間、私を愛し続けてくれて、本当にありがとう。
離れて暮らしていても、90を過ぎても、認知症になっても、私のことをちゃんと覚えていてくれて、本当に本当にありがとう…。
愛しています。ずっと。
2025/01/28 15:12
白田真綾
ずっと、私に「早く結婚しろ」「早く子供を産め」「老年にひとりでは寂しいから」と言っていたおばあちゃん。
私は今、小鳥達と熱帯魚達と一緒に暮らしながら、ひとりでも楽しくやっているよ。
きっと、昭和初期産まれのおばあちゃんには、想像がつかないような手段で。私は私の力で、私のやり方で、必ず幸せになるからね。
どうか、天国の叔父と一緒に、見守っていてね。