決別ー公安捜査官ー
~プロローグ~
斉藤守は警察庁警備局警備執行課、別称ヤチヨに所属している警察官である。斉藤がヤチヨに所属していることはおろか、その部隊の存在すら限られた数人しか把握していない。ヤチヨが扱う案件は決して表には出せないような非合法なものがほとんどである。
日本にはインテリジェンスを担当する機関がいくつかある。内閣情報調査室、警察の公安部、法務省の外局である公安調査庁、自衛隊の情報部隊、また外務省にも情報担当がある。制度上の仕組みなどから現状で有効的な実力部隊を持っているのは警察の公安部しかない。
斉藤は警視庁採用の警察官で、いわゆるノンキャリであり警察庁警備局に引き抜かれることとなった。通常、警視庁などの各都道府県警から警察庁警備局へ引き抜かれるのは警備部の情報担当や公安部などの警察官が主だが、斉藤はその点異色である。警視庁警備部警備第一課特殊急襲部隊、通称SATの班長を務めていた斉藤は表向きは退職というかたちでヤチヨに異動することとなった。
〜DAWN〜
例年より少し暖かい年の暮れ、斉藤はその視野にぎりぎり収まる範囲を保ちながらある男の後を追っていた。
男の名前は橘邦彦。東京大学理学部物理学科の教授であり、斉藤の学生時代の恩師にあたる。橘はなじみの喫茶店へ入った。斉藤は少し後に橘を追って入った。
斉藤は橘と背中合わせに座った。
「この喫茶店は昔とちっとも変わらないな。」
橘はいつものように問わず語りを始めた。
「教授、前にも言いましたが、このような場所で会うのは危険です。私との関わりはすべて消しましたが、嗅ぎつけられる可能性はあります。」
斉藤はお灸を据えるつもりで意見したが橘にはどこ吹く風であった。
「そんなことより、先月ストックホルムで開かれた学会で旧友から不穏な噂を聞いたんだ。あるスウェーデンの若手研究者が先月から失踪しているらしい。その数か月前からやけに親しくしていた友人がいたらしく、失踪とともにその友人も姿を見なくなったそうだ。それがどうやら日本人らしいと言うんだよ。」
斉藤は橘に詳しい事情を聞いたあと、
「わかりました。できる範囲で調べてみます。」
そう言うと橘は店を後にした。
斉藤は橘が残した封筒をスーツの内ポケットにしまうとテーブルにお金を置き店を出た。
斉藤にはSAT時代からの腐れ縁でもある友人がいる。菊池憲吾という男で、見た目はどこにでもいそうな優男であるが、SATでも1,2を争うほど優秀な隊員であった。
菊池は現在は人事交流という形で外務省へ出向し、ロンドンの在外公館勤務をしている。
名目上は警備対策官という肩書になっているが、実際に警備実務を行うことはなく計画立案が主な業務となる。今回は年末の特別休暇で帰国し束の間の休息を楽しむ予定だった。
菊地が場末の居酒屋で酒を煽っていると、見慣れた番号から着信があった。
「俺だ。」
久々に聞いた斉藤の声は幾ばくかの年波を菊地に感じさせた。
「会えるか?」
このいつものぶっきらぼうな物言いは変っていないようだ。確かに、夏に一度仕事で帰国した際に斉藤に年末に帰国することは伝えたが、それにしても単刀直入である。
「おう。よっちゃんのところだ。」
「わかった。30分後に。」
彼らのいうよっちゃんとはこの居酒屋の名物女将で、年はもうすぐ60になろうかとしている。根っからの江戸っ子である、男勝りのべらんめえ口調が、ようやく顔に刻まれてきた小皺と釣り合うようになってきた。
菊地や斉藤は現役の隊員時代から通っており他の隊員たちと飲むときはいつもここだ。当然、斉藤や菊地の仕事を知るはずもないのだが、鍛えられた首の太さは隠しようがなく、昔ラグビーで鍛えたということでごまかしている。
入口のドアが開き、空気が通るのを感じた菊地がその方向を見るとそこには斉藤の姿があった。
斉藤が菊地の向かいの席に腰かけると、
「ここはちっとも変わらねえな。」
斉藤がぽつりと呟いた。
「それで、要件は?電話では話せないようなことなんだろ?」
菊地は並々と注がれた酒をぐいと飲み干すと斉藤に尋ねた。
「ここ最近ストックホルムで怪しげな動きをしている日本人に関して何か知ってるか?」
「ストックホルム?いまの会社ではOS(Over Stay超過滞在のこと)やらで面倒なやつを扱うことはあるけど、ストックホルムでなんかあったということは聞いてないな。年明けにEUでシンポジウムがあるからそれとなく聞いておくよ。」
菊地は外では所属機関を隠すためにいつも会社ということにしている。
「そうか。頼む。」
「また厄介なクライアントを抱えてんのか?」
「ああ。この関係らしい。投資先に見合うかどうか判断したいそうだ。不安因子はなるべく把握しときたいんだろうよ。」
テレビでは原発稼働再開のニュースが流れていた。
「それにしても、お前が辞めると言ったときは正直驚いたよ。どんな形であれSには定年まで関わるんだろうと思ってたよ。」
「仕方ねえだろ。娘の学費を出してやるには。」
「そういえば、まりちゃん元気にやってるか?最後に会ったのは確か高校に上がるときだったな。」
「ああ。毎日毎日意味のわからねえ絵を描いてるよ。」
斉藤には大学2年になる娘がおり、芸術系の大学で油画を学んでいる。斉藤は、まりの学費を捻出するために、表向きは金払いのいい外資系の民間軍事会社の日本支社に転職したことになっており、菊地のような当時の仲間はおろか斉藤の家族でさえ真実は伝えていない。
家族を欺くことは造作もないことだったが、同じ釜の飯を食い、死線を共に潜り抜けてきた菊地を欺くのは斉藤の技量を持ってしても容易いことではなかった。
加えて、菊地は部隊一頭のキレる男だった。少しでも変なそぶりを見せれば、たちまちのうちに斉藤の欺瞞を見抜くだろう。
そこまでして菊地に会ったのには訳があった。
失踪に関わったと見られる日本人が菊地の特徴に酷似していたからだ。仮に菊地が失踪に関わっていたとすれば、斉藤と再会して多少の牽制をしたことで、菊地の行動に歪みが生じるかもしれない。そうすれば斉藤にわずかながらの勝機が巡ってくるかもしれない。
だが、斉藤の目論見ははずれた。
つづく。