創作と人生4
(3からの続き)
一作目で特待生となり、二年目は他のクラスにもどんどん潜り込んで貪欲に勉強した。特待生になると学費免除され後輩の指導に当たることになる。
二年間のイメフォ生活で多くの同期と切磋琢磨した。また多摩美や武蔵美、造形大との交流も積極的にしていた。「リング・ワンダリング」金子雅和、「シェル・コレクター」坪田義史、2人は商業へ行った。坪田氏とは互いの作品に出たが、彼の作品で私は全裸でダッチワイフとやりまくる変態役だった。他の作家も多分活躍してると思うが、何人かは自殺してしまった。そういう創作の時代だった。死ぬか作るか。Twitterとかネットがあれば、死ぬ人は減ったのかもしれない。
さて、二作目は8ミリの技術的にも進化出来たので、技法的には全てやり尽くしたといっても良い。問題は描くものにあった。
廃屋のアパートに一年間住み、そこで実際に狂う為の儀式ばかりしていた。狂っていくのを人工的に引き起こそうとしたのである。この際、多重人格を上手に生かしていた。むしろ何人かは切り離すことに成功したと思う。
このジャンルは実験映画というもので、俗に言うオナニー的な内容に陥りがちだが、「それならとことんオナニーしてやる!」という決意で作り上げた。女装もしたし、全裸で浜辺を這いつくばったし、赤道儀で生活をコマ撮りしたり、包帯やロウソク、生け贄も捧げた。
当然、観客からの反応は過激で、自殺しろと責め立てられたり、恩師のかわなかのぶひろからは永久的に口を聞かない宣言もされた。理不尽だと思ったが怒りはなく情けないと突き放すことにした。その一方でイギリスのトニーレインズからは「その年の日本映画界で一番の発見」とされ、以後、世界に紹介され続けてもらう事になる。
バンクーバー上映では「A」森達也に同席してもらうが、映画作りをやめてもいいんじゃないかと言われ憎悪は振り切れた。確かにこの作品は、今の自分には弁護もできないものだが、あの死ぬか生きるかの瀬戸際でしか作れなかったと思う。実際、作品作りは私の死への衝動に対抗するものだった。
バンクーバーでは塚本晋也、アピチャッポン・ウィーラセタクンと知り合い、特にアピチャッポンとは来日する度に遊ぶ仲になる。私がタイの映画祭で審査員をした時は、現地で対談もした。
(5に続く)