2024/05/14:日記にもタイトルがあった方がいいかも
昨日とは打って変わって晴れ、2日連続での更新に挑戦だ。
昨日は仕事中に書いていたが、24時間のうち1/3を残して「その日」とするのはなんか、不誠実なのかも、と思って寝る前に執筆している。洗濯物が終わる前に書き終えられるかな。
記事を更新していく上で、noteからおすすめされるように写真がある方が良いなと思い、Pinterestとかで探してみたけど、オリジナリティが欲しいというか、カメラの練習にもなりそうだし、ということで自分で写真を撮ることにした。昨日の記事の水溜りも、バルコニーのを即席で撮った、それっぽいやつ。
出来るだけ毎日日記を書く。記事のヘッダーのための写真を昼休みに気分転換がてら撮りに外に出る。
こうやって日々の行動が決定づけられていく。
ルンバを買ったらルンバのために床に物を置かなくなる、そんな感じ。
こういうのがうまくルーティンに組み込めると心地いいと感じるタイプだ。
自分の生活の仕組みをより良く、効率的にする為に徐々に整えていく感じ。
時々こうやって要素を追加したりしながら。
考えないで生活するために考える、そんな日々。
ということで、記事用に何か撮れないかなとふらふらしてみたものの、結局一枚も撮れなかった。
なぜなら今日日記に書こうと思ってた内容が友人との以下のような会話だったからだ。
その友人が4〜50代ぐらいの女性のASMR動画のURLを送ってきて、その人がとても綺麗な人だったので、「昔美人だったんだろうな」とコメントした。
そうすると友人は
「私もそう思うが、歳を取るともう美人という表現には当たらないのかと思って落ち込む」
「今頑張って綺麗になっても、老いによって等しく美しさは奪われるんだな」
と言ってきて
「意表を突かれた」
「若さを良しとするこの国で育った弊害、何の悪意もなく無意識に言った」
と返した。
結構面白い話題だな、と思ったのでこれを深掘りして日記にしようと思っていた。
そして、記事に沿ったテーマの写真を撮ろうと思い外に出たが「老い」「女性」「美しさ」に支配されてしまった脳内では、街の中にしっくりするモチーフを見つけることが出来なかったのだ。
陽に焼けて色褪せた昔の化粧品広告なんかがあったら最高だな、と思っていたのだが、そんなに都合良くあるわけがなく。
学生時代からそうだったが、言葉と結びつかない画を当てはめるのがものすごく苦手だ。
ミュージックビデオの課題も、コラージュの課題も苦手だった。
歌詞自体が脳内で映像を想起させるものなのに、そこから別の映像を作れと言われて、ひどく苦労した。
コラージュに至っては、アッサンブラージュという概念を学習した上での課題だったのでさらに困惑した。意味から逃れ、関係のないものを組み合わせる、が非常に難しかった。
そこにものや現象があり、認識した以上、言語と紐付いてしまうのは必然なのだ。
そこを切り離せる人は言葉を必要としない分野の美術に長けているんだろう、と学生の時も何度も思った、そして私には出来ないことなんだな、とも。
つまり意味不明なものを作成できないということだ、めちゃくちゃ不自由な感じがする。
ネルソン・グッドマンの「芸術の言語」を読もうかな。
他方で、「ほとぼり」が「熱り」と書くの、日本語ってエッチだよね、なんて馬鹿な会話をしてたりしてた。その会話の流れで「たおやか」という言葉を使ったんだけど、たおやかって「嫋やか」って書くらしい。
大学時代、卒業制作で文字に見られるかたちと意味に関する制作をして、その時女偏の漢字をフィーチャーした私からすると、黙っていられないよね。
女偏に弱いと書いて嫋やかだなんて。まあ。
ということでヘッダーは、「嫋やか」の辞書のスクリーンショットに決定。
紙の辞書があれば自分で撮れたし、それっぽいのに。
洗濯物が終わるまでに書き終えられるはずがなく。
明日も書けるといいな。