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天草騒動 「5. 島左近、難病をわずらう事」

 そのうち南蛮寺は日に日に繁昌して、有名な人物の中にも治療を頼みに来るものが現れた。

 筒井順慶の執権である島左近は高名な軍学の達人であったが、難病を患っていた。あれこれと療治を行ったが効果がなく、日をおって顔色が黒く変わり、とても快方に向かうとは思えない様子であった。

 左近は奇病のためにむなしく果てることを口惜しく思い、ある時、諸士を集めて相談した。すると、そのころ用事があって京都に往復した奥田喜兵衛という者が進み出て、

「このたびは御難病のため御疎略無く御療養されてきましたが、至って難しい容体です。それについて聞き及んだことがございます。京都四条坊に南蛮寺という寺が建立され、切支丹宗の法を広めています。そこに、計理悟里けいりごり弥理伊須やりいす宇留岩うるがん普留満ふるまんという名医がいて、彼らがさまざまな難病奇病を治療すると全快しないことがないそうです。これを招いて御治療なされば全快するかもしれません。」
と、勧めた。

 左近はそれを聞いて、
「それもいいかもしれぬ。昔、小松内大臣殿(平重盛)が病気の折り、父の清盛殿が唐土から渡った名医に治療を頼むよう勧めたところ、小松殿は承知せず、『唐医を頼めば日本に名医がいないなどといわれて口惜しい。ことに大臣の位にある重盛が頼めば、永くわが国の恥辱になろう。』と言って、医者に対面もしないで医者を帰らせたという。その代わり、御病中に唐の医王山に平家一門の菩提のために三千両の黄金をお贈りになったといわれている。

けれども、このような話は、重盛公を讃えようとしてかえっておとしめている。医者の方がはるばる唐土から渡って来たのだから、その唐医に薬をもらったとしてもなんで我が国の恥になろう。それよりは、一門の菩提として唐土に黄金を贈ったことの方が我が朝の恥辱である。聖人と呼ばれた小松殿がどうしてそんなことをされようか。本当は、行く末をお案じになって三千両の金を紀州熊野の奥に贈り、要害をつくらせておいたのである。平家の没落後、小松殿の子の維盛・清経らがこの奥におちのびて隠れ住み、その後、源氏の世になっても安閑と暮らしながらえて、その子孫が今に伝わっている。したがって、南蛮国の医者を招くことは我が意にかなっている。その方は、様子を知っているので、大儀だが南蛮寺に行って医者を招いてきてほしい。」と、言った。

 そこで喜兵衛は直ちに南蛮寺に急いだ。

 計理悟里と弥理伊須は抜群の名医だったので、死にかかった病人でも彼らにかかると快方に向かうのであった。

 もう少しの治療で全快するというときに、両人は病人たちに向かって、

「そもそも我々が日本に渡ったのは南蛮国王の命令に従ったものです。我が国はわずか四十二ヶ国から成っているけれども、日本の地より百倍も広い国です。この上なく天帝を敬っているため、貧乏な者もなく、難病の人もありません。大王が仁徳をもって国民に恵みを施しており、この天帝の宗門の広まっていない国々へは我々のような者を送って難病の治療にあたらせています。

 また、大王が貧苦に困窮している者をお救いになっているのは、日本に限りません。人の知らない外国にまでも渡ってこの切支丹の法を広め、治療を施し、困窮した民を救っているのです。これは、ひとえに大王の慈悲の心からです。天帝を崇拝しない国々では難病や貧乏人が多くて皆困窮しているため、よこしまな欲心を起こして夜盗や山賊の類になり、人を悩ましてついには罪を犯して罰せられることになるのです。

 あなたがたは難病にかかり、今は私の治療で平癒したけれども、私たちの宗門を信仰しなければ再発してその後は決して治癒しないでしょう。身の不浄は洗い落とすことができても、心の不浄は大海の水を使い尽くしても洗い清めることはできません。決められた未来を逃れることはできません。あなたがたの未来の有り様を見せてさしあげましょう。」
と言いながら、三世鏡を取り出して皆に見せた。

 これまでだんだん快方に向かって醜い顔も治り、もとの容貌が写るだろうと思いながら病人らが鏡に向かうと、思いもよらないことに、牛や馬の顔が鏡に写っていた。

 人々はおおいに恐れおののき、「この世でこのように畜生の顔が写るからには、自分の未来は想像できる。病気がこの寺のおかげで平癒して実にありがたいことだけれども、未来は畜生道に堕ちるというのは何の因果だろうか。」と嘆き悲しんだ。そして、「なにとぞ御慈悲によって畜生道の苦しみから逃れさせ給え」と大勢で手を合わせて拝み願った。

 宇留岩、普留満の両人はうなずいて、「なるほどあなた方の悲しむのも当然です。それでは、天帝に祈るための真言を授けましょう。」と言って、「渾脱こんたん」という四十二珠の数珠を与えた。

 日本の数珠は、百八の煩悩が消滅するようにと珠の数が百八であるが、この「渾脱」というものは南蛮四十二ヶ国を表して作ったものである。

 両破天連は、陀羅尼の呪文は「死後生天しごしょうてん破羅韋僧はらいそう雲善守麿うんぜんしゅまろ」であると教え、

「身を清浄にして心の邪念を避け、この陀羅尼を一回唱えるごとに数珠の珠をひとつづつはじいて、七日間昼夜を問わず唱えなさい。そのあと当寺に来れば、住持がお会いするでしょう。その時に御教化くださるでしょう。さすれば、死後善所に行く法を授け、天帝の御影をも拝ませてさしあげましょう。今日渡した数珠を繰って、教えた呪文を唱えるのをくれぐれも怠らないように。」と病人達に言い聞かせた。

 人々は、「さてさてありがたいことだ。今生こんじょうを助けてくれたうえに来世のことまでお救いくださるのか。この寺から受けた厚恩は決して忘れません」と、涙を流して二人の僧を伏し拝んだ。そして、教えていただいた勤行を始めようと喜び合った。

 病人たちが七日の間引きこもって教えの通りに過ごしたところ、両人の異人は、「それではあなた方を住持に引き合わせましょう。」と言って、方丈に連れて行った。

 方丈に入ると、両破天連が金襴の衣を身にまとって、しずしずと歩み出て来た。そのさまは生身の菩薩如来の来迎かと疑うほど辺りを光り輝かせて、とても人間界の光景とは思えなかった。

 計理悟里、弥理伊須の両名は、「このところ病にかかっていた者達は、おかげをもちまして病気が平癒致しまして、なにとぞ未来によきところに到達できる法を授かりたいと願っております。」と言って、宇留岩と普留満に人々を紹介した。

 住持の破天連は、「あなた方が一心に勤行した証拠を見せよう。」と言って前と同じ三世鏡を取り出したので、人々が、またどんな姿に写るかと気味悪く思いながらよく見ると、以前見たのとはうって変わって、とても美しい仏の姿がありありと写った。

 皆不思議に思い、ただ茫然として頭を垂れていた。

 破天連は、「わずか七日の勤行でもこのような仏の姿として現われた。これすなわち天帝の加護の徳によることで、感謝のしようもない。今回天帝の御加護を得た者は、この世で獄門、火炙り、磔などのいかなる刑に処せられても少しも恨んではいけない。死後は天に生まれ変われることに疑いない。信ずるべし。そうすれば、天帝のお姿を拝ませよう。」と言って、まず「クルス」というものを取り出した。

 この「クルス」という物は黄金でできており、幅は二寸程でわさびおろしのような形をしており、釘を打って二尺ばかりの柄を付けてある。

 各人を肌脱ぎにさせて、この「クルス」で背中をこすり、流れ出した血を左右の手に塗り付けさせて本尊を拝ませた。

 そして、「他宗では、剣難、変死は浮かばれ難い、というが、わが宗門は天帝の慈悲が深いので、火難、水難、剣難による死は天上に生まれ変わるのがことのほか速い。天上での栄耀栄華は思いのままだ。」と言い聞かせながら、厨子の扉を開いた。

 天帝の御姿は箔金彩色の画像で、頭には冠を戴き、身には金の瑶珞ようらくを掛けて、美しい天女の姿をしており、懐に嬰児を抱いていた。

 破天連が、「この本尊は、汝らのように知恵も無い文盲の者を助けようと、母親が子を思うように、慈悲の相として顕現しているものだ。」と言ったので、皆手を合わせ、真言を唱えて伏し拝んだ。

 この頃、病気が快復したものは三千人余りに及んだ。なかには治療中に死んだ者もあったが、葬礼を特に手厚くしたので、身分の高い者の中にも評判を聞き伝えて宗門に入る者もあった。

 治療を頼むものが多かったので、南蛮寺の繁昌は、日に日に盛んになっていった。


→ 島左近南蛮寺に参詣の事

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芝蘭堂〜軍記で読む南北朝・室町
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