天草騒動 「64. 蘆塚忠右衛門討死の事」
さて、荒神ヶ洞の伏兵がだんだん討死していく中で、去年以来一揆の者らが軍師として頼りにしていた蘆塚忠右衛門の最期のありさまをここで説くことにしよう。
最期の一戦で蘆塚は、紺糸縅の鎧に同じ毛の兜を着け、二尺五寸の太刀を佩き、十文字槍を小脇に抱え、佐志木佐治右衛門と池田清左衛門を組頭として左右にしたがえ、一揆四十人を後ろにしたがえて、真っ黒な集団となって討って出て、黒田の先手の野々村、浦上勢五百人余りの中へ、真一文字に突っ込んだ。
寄せ手は思いがけない事だったので、右往左往して突き立てられ、虎口からどっと退き、転がりながら追い落とされ、麓を目指して敗走した。
蘆塚がそれを追い討ちしていって坂の下に眼を凝らすと、総大将の旗が山風に翻っていた。
蘆塚は、「それっ、日頃の念願がかなうぞっ。この春、板倉殿を討ち取り、今また伊豆守殿を黄泉への道連れにできれば、このうえない幸せ。勇め、者ども。」と言って、まっしぐらに坂を押し下った。
寄せ手の軍勢は、皆、山の上にいたため、城兵が麓に下って行くのをくい止める者は誰もいなかった。
この時、松倉家の家老の松倉重兵衛が、「この一揆めらを一人残らず討ち取って手柄を立てましょう。」と主人に勧め、二百人余りで谷道の横合いから討ってかかった。
蘆塚は、「願っても見なかった松倉が向こうからやってきた。」と、いっさんに追い立てたので、松倉家の軍勢は、疲れた武者だからたやすく討てるだろうという予想に反して、死に物狂いの一揆らに追い立てられ、猫に遭遇した鼠のように谷に追い落とされた。まことに見苦しいありさまであった。
この混乱の際に、一揆の組頭の佐志木佐治右衛門は足を踏み外して谷底に落ち、死んでいった。
蘆塚は生き残った一揆三十人余りをしたがえて手負いの猪のように暴れまわっていたが、伊豆守殿の家老の深井藤右衛門が、「槍、刀は役に立たない。鉄砲で討ち取れ。」と下知し、鉄砲を撃ちかけたため、一瞬のうちに一揆十人ほどが将棋倒しに討ち取られた。
蘆塚は怒って、「天下の征討使たる松平伊豆守殿が、鎧も着けない百姓どもの武勇を恐れて飛び道具を使われるとは何事ぞ。真剣の勝負をされよっ」と呼ばわった。
その時、後ろの方から立花飛騨守殿が、「総大将を守れ。」と、槍ぶすまをつくって押し寄せてきた。蘆塚はそれを見て、「鉄砲に向かって犬死にするより、この槍ぶすまを打ち破れ。」と言って、真っ先に進んでいった。
一揆の者らも太刀を振りかざして向かって行き、たちまち槍垣を切り崩した。
蘆塚忠右衛門はやにわに兵士七八人を切って落としたが、立花勢は蘆塚の勢を小勢と見切っていたうえ、すでに落城させていたので、短兵急に戦った。また、その後ろからは伊豆守殿の先手の深井藤右衛門が激しく攻めたてたので、結局、一揆どもは一人残らず討たれてしまった。
蘆塚は、今はこれまでと思い、「こころよく最期の一戦をせん。誰を道連れにしてくれようか。」と、四方をきっと見回した。すると、立花家の陣頭に華麗な鎧を着けた武者が進んできた。
蘆塚はその武者の側につっと寄って小脇に抱え込み、大きな岩の上に飛び乗って大音声で、
「われこそは、小西摂津守行長の旧臣、肥後国宇土の城代蘆塚忠兵衛尉の長男、この一揆の軍師、蘆塚忠右衛門、今年六十一歳。まことの武士の最期を見よ。」
と白髪を逆立て眼中に血をそそぎ、「今こそ黄泉の道案内をせよ。」と言いながら、抱えた武者を眼より高く差し上げ、谷底深く投げ落とした。
武者が岩角に当たって微塵になって死んだのを見て、からからと笑い、「ああ、心地よい。それではわしも後を追おう。」と言いながら、太刀の切先を口にくわえ、谷底めがけてまっさかさまに飛び込んだ。
こうして蘆塚忠右衛門は、屍は谷に埋めても、名は西海に残すことになった。
惜しいことである。蘆塚ほどの勇士が正しい道を歩めば武士の鑑ともなったであろうに。亡主の遺命とはいいながら、天に逆らって土民を煽動し、悪名を千載に流したのは、あさましい限りである。