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天草騒動 「2.破天連、日本に渡る」
呉喜大臣は二人の破天連を伴って南蛮国に帰着し、報告のために宮殿に赴いた。大王はそれを聞いて官人らが居並ぶ広間にお出ましになった。大王が殿上の間に進むと、二人の破天連は彼らの国の礼であると言って、足を出し、手を胸の前に組んで礼拝をおこなった。
大王は、「汝らが千里を遠しともせずに来たことに満足した。このたび汝らを日本国に遣わす目的は他でもない。かの国の人々の智恵を測り、奇術をもって切支丹の法を広めてほしいのだ。日本人の三分の一ほどが帰伏したら、わが国の大軍を催して押し渡るつもりだ。もしもあの国を伐り従えてわが属国にすることができれば、万民豊かに暮らすことができるようになるであろう。早々にかの国に渡り、よろしくはかりごとをめぐらすべし。」と、仰せになった。
二人の破天連は、「日本国は小国とはいいながら、武勇するどく、才知に優れていると聞いております。なかなか簡単に法を弘めることはできないと思われます。気長に逗留してはかりごとをめぐらし、やがてお望みをかなえてさしあげましょう。」と、言上した。大王はことのほか満悦され、二人の破天連にさまざまな賜り物を授けた。
破天連は日本国王に送る七種の宝物と工作資金の金銀を受け取り、船を仕立てて旅支度を調えた。
日本帝王への貢ぎ物目録
遠眼鏡 一器(七十里を見通せる)
一寸五分の箱入の蚊帳 一帳(八畳敷に用いる)
権達の数珠 一輪(山水の彫物入り)
虎の皮 二十枚
伽羅 百斤
南蛮製鉄砲 二百挺(玉薬二万発付き)
麝香 二斤
あれこれと渡航の準備に忙しい毎日であったが、ある時、宇留岩破天連が普留満に、「今回は、まず私が一人で渡海してあの国の動静を窺ってみよう。向こうの様子を知らせるから、そのあとで普留満が渡海した方が良いだろう。最初から大勢で渡ると、疑いを招くことになってよくなかろう。」と言った。
普留満もそれに賛同したので、さっそく両人はその旨を大王に言上した。大王は、「すべて汝らに任せるゆえ思うとおりにやってみよ。」との事であった。そこで、宇留岩破天連は従者四人だけを引き連れて南蛮国の大洲から出帆した。
遥かに続く蒼海に船を走らせたが、風向きが思うに任せず、その上日本とは万里を隔てているので、年を越した永禄十一年戌の三月にようやく日本の肥前国長崎に到着した。
とりあえず船を住居として毎日長崎の街を徘徊したが、宇留岩の容姿は身の丈七尺三寸(約2メートル20センチ)、体の大きさの割に頭が小さく、目は丸くて黄色であった。また、鼻が高く耳が長く、唇が厚く、歯は白く、髪の毛は鼠色で爪は熊のようだった。年齢は五十ばかりに見えた。
毛氈のようなものを着ており、その着物は裾が短く袖が長かった。また、着物は左前に合わせてあり、とても奇妙な風俗であった。常に名香を懐中に入れていて、周囲によい香りをただよわせていた。従者は織物の衣服を着てずいぶん立派ないでたちであった。
言葉はまったく通じず、鳩の鳴く声のようにただグハウグハウと言うので、たくさんの人々が見物に集まって、希有の者が渡ってきたと評判した。
その噂はまたたく間に全国に広まり、京や大阪にまで異人の姿を描いたものを作って売り歩く者が現れた。
このころ、織田右大臣信長公は天下の動乱をなかば鎮めており、安土に居城を構えていた。諸侯が毎日出仕していたが、そのうちの誰かが長崎での事を信長公に申し上げて異人の絵図を御覧にいれた。
信長公はそれを御覧になってたいへんな興味を示され、異人のことをいろいろ御尋ねになったという。
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