天草騒動 「68. 大団円の事」
しばらくして松平伊豆守殿と戸田左門殿が江戸表にお帰りになり、このたびの一揆の鎮定について諸将士の賞罰に関する御評定があった。
北条安房守殿も召し出され、諸役人も出席していろいろ御評議されたが、その際、水戸光国公が、
「去る二月二十七日に鍋島甲斐守が先駆けして出丸を破り、すでにその日のうちに落城させられてもよいはずなのに持ちこたえ、翌日まで困難ないくさをして多数の討ち死にが出たのはどうしてか。」と、御不審の点をお尋ねになった。
伊豆守殿は、
「およそ、いくさの法令は、よく守られなければ必ず負けるものです。味方が前もって城攻めの覚悟をしていないのに、甲斐守が理不尽に攻めかかったため、万事うまくいかず、それによって城兵が手強くて味方の討ち死にが多かったのです。」と、御返答された。
光国公が同じ事を安房守殿にお尋ねになったところ、北条殿は、
「豆州殿の申されることは正しいことのように聞こえますが、二十七日の城攻めが翌日までかかった本当の理由は、小笠原家が人質曲輪を攻めて女子供を皆殺しにしたため、一揆どもは妻子を殺された恨みが骨髄に徹して憤ったうえ、かえってこの世に心残りはないと死を一途に決したからです。
もしも人質曲輪であることに気付いた時に、小笠原家がただちに火を消して焼け死にそうになっている者を助ければ、一揆どもは女子供に心を引かれて迷いを生じ、すみやかに落城したことでしょう。
あの城兵は一揆とはいえ、勇士も加わっていて弓矢の腕前もなかなか尋常でないことは、去年からの風聞でもわかっていたことです。それなのに、小笠原家は特別な家柄のためか、このことは一向に咎められないようです。」と、お答えになった。
光国公が豆州殿に、
「このたび鍋島父子に閉門を申し付けたのは、もってのほかの処置である。賊城が落ちたのはひとえに鍋島甲州の働きによるもので、今の世に並びなき猛将に閉門を申し付けるとは、はなはだよからぬ事ではないか。」
と御尋ねになると、伊豆守殿は、
「法は天下の法ですから、私が勝手に曲げることはできず、軍令を破ったので閉門を申し付けたのです。」と、返答された。
光国公は、
「それは納得できない。今度の一揆は、わずか二十一万石の百姓どもと、武士の浪人二三十人が起こしたに過ぎず、ことに一揆方では若年者を棟梁として籠城していたのに、西国の諸大名が馳せ向かいながら板倉が討ち死にし、その後、そなたと左門が発向して十七万人余りの兵卒を指揮しながら年を越して落城させられなかった。ひとり鍋島甲斐守の武勇によって勝利に及んだのだ。
それなのに法令だけを重んじて閉門を申し渡されては鍋島が満足に思うはずがない。もしも鍋島がこれを恨んで国で事を起こせば、およそ三十五万石の家人がおり、領地の民百姓まで味方すれば、先祖の龍造寺隆景以来の武勇の家柄だから五百騎や千騎は屈強な武士がいるに違いない。雑兵や軍卒を合わせれば、かれこれ四五万人を越えるであろう。また、百姓どもは二三十万人もいようか。
そうして、甲斐守が先鋒の大将となり、信濃守も采配を振るって出陣すれば、天下に容易ならざる変事が起こることになろう。もしも将軍家が出馬するようなことになれば、なかなか由々しい一大事だ。
法のみ重んずるは、これ正に失し、水清ければ魚住まずとのことわざのとおりだ。そなたは自分の権威を振り回すのはやめられよ。」
と、仰せになった。
さすがの伊豆守殿もおおいに赤面され、「至極ごもっとも。」と申し上げられた。
こうして水戸宰相殿の御推挙で鍋島家の閉門は取り消されて、今度の憤りをなだめるために肥州へ上使が送られ、
「このたびの閉門は、いったん天下の法令を立てるためである。甲斐守は原城で武勇を振るい、一番乗りの働きによって落城したのは、すべて甲斐守の功によるものである。」との有難い上意のうえ、時服と御鷹を下された。
甲斐守殿には別に御感状を賜り、急いで参府するようにと伝えた。
これによって父子ともにおおいに喜んで参勤されたため、天下は何事もなくおさまった。この時から鍋島家の御鷹拝領が吉例となった。
甲斐守殿は肥前佐賀郡蓮池に五万二千六百石余りを賜って別家を立てられた。甲斐守殿の武名は天下に並ぶ人がなく、本家は異国の押さえとして長崎表の警護を仰せ付けられて武威を西国に振るわれた。
また、榊原飛騨守は御軍監でありながら伊豆守の下知を守らず、御軍令を破って先駆けしたのは不埒至極であるとして三千石を召し上げられ、伜の左門は若年ながら天晴れな働き御感斜めならずとして、新しく七千石を賜り、父は隠居するので世話をせよと申し付けた。
これについても、伊豆守殿が改易した方がよいと言うのを、水戸光国公が再び安房守殿に御尋ねになったところ、「このたび左門は法令に背いたとはいえ、戦功は衆を抜きん出ています。」と、つぶさに言上されたので、上述のように仰せ付けられたということである。
また、北条安房守殿の戦功は西国に轟き、名誉なことなので、一万石以上に取り立てて一城の主にもなろうと評判だった。水戸宰相殿はかねてから御懇意のことだから、きっと御推挙になるだろうと人々が思っていたところ、光国公はかえってそれを止めて、
「天下の政道には親疎のへだてがあってはならない。安房守は大身にすべき者ではない。ことに城主などとはもってのほかで、なかなか心底の恐ろしい男だ。ただ、将軍家の覚えがよいので、少々御加増があってもよろしかろう。」と仰せになり、三千石御加増のうえ有難い上意があった。
これは、光国公が以前の安房守殿の大言を考慮しての取り計いで、まことに良将というものである。
また、松倉家の先代は松倉右近重政といって、もとは筒井順慶の三家老のひとりであったが、後に秀吉公にしたがって二万石を領し、その後、関ヶ原の合戦で徳川家に忠勤があったため一万石を御加増のうえ伊賀国名張の城主となり、その後再び御加増があって肥前島原の城主として四万八千石を領していた。
在国の折に高久に城を築き、それを居城として代々伝えるべきところを、現在の松倉豊後守殿は利欲深く奢り高ぶり、領内の百姓どもの恨みが積もって一揆が起こり、天下の騒動となった。
これはすべて自分がもとになった大事だったのに特に抜きん出た戦功も立てず、いつも臆病神に誘われて引込み思案な戦いぶりばかりしていたため、領地をことごとく召し上げられて森美作守殿に御預けとなった。嫡子の左近は、保科肥後守殿に御預けとなった。
後に豊後守は切腹を仰せ付けられ、左近については御預けを許すと保科家に仰せ渡されたところ、残念と思ったのか左近は自殺してしまった。「一揆の百姓どもの恨みによるものだろう。」と、人々はうわさし合った。
寺沢家も、先代の寺澤志摩守広高殿は朝鮮までも武名を知られた人で、だんだん立身して唐津富岡の城主として十二万石を領し、政道も正しかった。
しかし、嫡子の兵庫頭は松倉と同様に政道が正しくなかったため天草一揆が起こってしまった。
ところが唐津領については特に騒動は起こらず、また、城攻めにおいてもしばしば戦功を上げたので、天草領だけを召し上げられて唐津領の八万石はそのまま下された。これは、ひとえに家老の三宅藤右衛門の武功によるものであった。
ところがその後、どうしたことか兵庫頭は乱心して自害してしまい、家は断絶した。これも一揆の怨念によるものであろう。
ここに至って家臣らは皆ちりじりになったが、その中で三宅藤右衛門はこのたびの戦功が抜群だったため、細川越中守殿が召し抱えて三千石をあてがわれ、長く武名を残した。
さて、日本国中、すみからすみまで切支丹宗の御制禁はいよいよ厳しくなり、すべて賞罰正しく、水戸黄門公の英傑と松平豆州侯の知嚢がよく国家を補翼し、天下静謐におさまって、万民は安堵の思いをしたということである。
これで『現代語訳 天草騒動』は終わりです。最後までおつきあいくださり、ありがとうございました。