天草騒動 「61. 原の城手詰めの戦働きの事」
さて、北條安房守氏長殿は、夕日の光が城山に映るのを見て、
「日光が白くて黒くはない。これは城内の賊の勢いがまだ盛んなことを示している。今夜には落城するまい。こちらの全軍も下山できないから、大軍が兵糧に困ることになるだろう。急いで兵糧を送るように。」
と石谷殿と牧野殿に指図し、近辺の村から大釜を集め、米を炊かせて握り飯をつくらせ、牛島筵に入れて、三百人に一俵の割合で割り当てて送った。
「水は一すくいだけ谷水を汲んで飲料とせよ。」と、安房守殿が自分自身で馬を乗り廻して各陣に指図したので、夜中はかがり火を焚いてそれぞれ夜討ちの用心を厳重にし、夜が明けたら攻め落とそうと、全員勇み立って待っていた。
一夜明けて、寛永十五年の二月二十八日、東雲鳥の告げ渡る頃、寄せ手の全軍の鬨の声や攻撃の太鼓の音が天地に轟き、どんな鉄壁や堅城も粉々になるかというありさまであった。
ところが、この本丸は周囲に岩石がそびえ立ち、高さ十間余りの断崖になっていた。虎口は曲がりくねった雁木坂で、攻め口が狭くて容易には進めなかった。
大手の寄せ手の黒田右衛門佐殿、黒田筑前守殿、黒田甲斐守殿の全軍二万八千人余りがひしひしと押し寄せて城門へ鉄砲を撃ちかけようとしたが、険しい坂道で弾をうまく込められなかった。
何かとぐずぐずしていたので、城内からこのありさまを見て取り、大矢野作左衛門が兜も着けずに塀の上に現れて、「ここの先鋒は黒田殿と見受けられる。よい敵なので、日頃たしなんでおいた鉄砲の手練をお目にかけよう。」と下知して、一斉にどっと撃ちかけた。
しかし、先陣に進んだ黒田三左衛門、大藤六大夫、川村次兵衛らは前もって用意しておいた一枚楯を並べて一寸も退かなかった。
攻めに攻めて、払暁に戦いを始めてからすでに辰の刻(午前8時頃)になっていたが、寄せ手は討たれるものがおびただしく、なかなか城が落ちる様子はみえなかった。
しかし、黒田家の先鋒の将が激しく下知して寄せ手からも鉄砲を撃ちかけさせ、人をはしごにして「上がれ上がれ」と兵士を励まし、ようやく大手の門に取り付いた。
その時、城の大将の四郎大夫がこの場所に現れ、「全員手当たり次第、道具を投げかけろ。」と指示した。これは、大将の四郎大夫が若輩だったため、死に急いでこのような下知をくだしたのである。
大矢野作左衛門はそれを聞いて、「こころえたり。」と言って高い塀を押し落としたり、石垣を崩し落としたりした。また、手に手に石を取って投げつけ、材木を投げ落とし、道具を転げ落とし、鍋や釜までも雨霰のように投げつけた。寄せ手はそれに当たって、短い間に山のように即死者や負傷者が出た。
かれこれ巳の刻(午前10時頃)になっても、いまだに塀一つ破ることができなかった。
黒田と細川の両家は攻め口に行くことができたが、立花家、有馬家、小笠原家などは攻め口が狭くて、後ろから空しくこのありさまを見物するばかりだった。
しかし、城内から兵糧を準備するための道具まで投げ落としたことから、城内では今日を限りと覚悟を決めたものとわかった。
城内ではもはや道具類も残らず投げつくしたと見え、ついには手槍や竹槍まで投げつけたので、寄せ手は銛を背中に受けた鯨のように死人や手負いが多く出て、まことに難儀な城攻めであった。