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天草騒動 「51. 北条安房守殿軍配の事」

 こうして北条安房守殿は、二月二十六日の未の刻(午後二時頃)、島原に着陣した。

 伊豆守殿に対面する前に城の近辺を巡見されたところ、諸役人と諸大名の使者が迎えに出てただちに随行した。

 安房守殿は大手門の前に馬を乗り付けて戦いの様子を尋ねた後、新しく築かれている築山を指さして、「あれは何だ。山の上の柱は何のためのものだ。」と質問した。

 「先頃伊豆守殿の策で築かれた山で、その上の柱は釣井楼といって敵の動静を窺うためのものです。」という答えを聞いて、安房守殿は、「これは六本目の指だ。」と言われた。

 六本目の指があったとしても何の役にもたたず、邪魔だから切り捨てようとしても切り捨てるわけにいかず持て余す代物である。この築山も、戦場ではひどく邪魔で、崩して捨てようとしてもあまりに巨大で、どうにもならない。まことに房州殿の名言といえる。

 さて、諸家の使者をそれぞれの陣にお戻しになり、安房守殿は供を四五人召し連れて出丸のあたりまで見届けた。その後、すぐに鍋島甲斐守殿の陣屋に入って甲斐守殿に対面され、

「お若いのに去年以来の戦いぶりは、将軍家もこの上なくお喜びになっており、人々も感心しております。今の世で並ぶ者のない良将でいらっしゃいますから、この原城もきっと甲斐守殿が落とされるだろうと評判になっています。

万一ほかの家が城を落としたら、これまでの武略も水の泡になってしまうでしょう。常にそのようにお心得になって、この城に一番乗りしていただきたい。

一般に軍事においては、戦場では主君の命令にもしたがわない方がよい場合があると昔から言い伝えられています。だから時と場合によっては、軍代や軍監の言うことも絶対にしたがわなければいけないというものではありません。軍令をお破りになるのも、武勇や手柄の一つというものです」と、甲斐守殿を勇気づけられた。

 また、軍監の榊原飛騨守殿の子息の、左門殿という今年で十九歳になる人を呼び寄せ、

「軍法では、煙の気配で敵の様子を察するものです。その方法をお教え致しましょう。出てみてごらんなさい。」と言って、二人で連れ立って城に近付き、

「あれをご覧なさい。城内からたちのぼっている煙の色が黒くて、地上を離れて舞い上がっているのは、虚煙といって、すでに城内の兵糧が尽きたことを示すものです。食物を焚く煙は白っぽい鼠色で、地面から離れず、一面にたちこめるものです。また、城の後ろに黒い気がたちのぼっています。これは死気です。したがって、兵糧が尽きて近日中に落城するのは間違いありません。さいわい明日は吉日なので、味方が勝利すると見ました。」と、お教えになった。

 それから立花家の陣に入り、
「以前の夜討ちの時の働きぶりは天晴れでございました。この城も兵糧が尽きて、一揆どもは飢え疲れ、近いうちに落城するでしょう。油断しないでください。」と仰せになった。

 また、細川家の先陣の長岡監物に対面され、
「この攻め口を見ると、狭い谷を大軍で進むのは難しいようです。ここから乾の方角の平草山には寄せ手がいません。もちろん場所は持場と少し違っていますが、そこから押し登りなさい。もしも総大将がお咎めになったら、安房守が申し開き致しましょう。

貴殿の老巧のことは江戸表までも伝わっております。しかしながら、麒麟も老いては駑馬に劣るといいます。天下の諸将が百姓一揆を攻めあぐんで兵糧攻めをするとは武門の恥です。それを心得ておいてください。」と、監物を励ました。

 その後、豆州侯の本陣に来て伊豆守殿に対面され、江戸表の様子や今度の戦いの事を語られた。

 房州殿は、「もはや城内の兵糧が尽き果てて、落城の時が到来しました。明日の二十七日に城攻めすべきです」とお勧めになった。

 しかし伊豆守殿は承知せず、「もうしばらく時節を見合わせてみましょう」と仰せになった。

 そこで、安房守殿が下知して、その夜のうちに敵の近くの、山のすべての登り口の城内から見える場所に高札を立て、大きな字で次のように書いた。

「百姓一揆どものうちで、宗門を改めて城から出る者は、罪を許して元の身分を安堵するものである。」

 これは、百姓どもや女子供が見聞きして心変わりすることもあろうかと考えておこなったものである。

 さて、細川家の先陣の長岡監物は安房守殿が帰られたあと、
「私の武勇が西国に轟いているのは誰もが知っていることだ。ところが、今の江戸表の評判では、麒麟も老いれば駑馬に劣ると言われているという。残念至極なことだ。私は今年ですでに七十過ぎになるから、たとえ討ち死にしても思い残すことは全く無い。明日は先駆けして死力を尽くし、華々しい勲功をあげよう。」と決心し、二人の息子を呼んだ。

 長男は帯刀たてわき、次男は万作という二人の息子に安房守殿の言われたことを詳しく語り、「去年から軍令を守っていたので、まだそれほど勲功をあげていない。それで江戸表の評判が良くないと聞いたからには、今後はどこでも合戦が始まったら、たとえ軍令を破っても先陣して一番乗りしなければならない。」と言い含めた。

 また、鍋島甲斐守殿は北条殿の意見を聞いて、「江戸表で、城攻めが手ぬるいと噂されているという。軍令に背いても自分は次男だからそれほどのお咎めはあるまい。」と考えて覚悟を決め、夜中のうちに準備して夜明けを待った。

 明朝、二月二十七日の卯の刻(午前六時頃)に出陣したが、この日は特に天気が良かったので、朝日が海面に輝き、遠山の桜は今が盛りで、雲の上の雲雀は声を限りに舞い遊び、比べるものの無いほど素晴らしい景色だった。寄せ手の人々は、「ああ、うららかな春の日だ」と心を浮き立たせた。

 その時、鍋島甲斐守殿が、水色縅の鎧に金の唐冠とうかむりの兜と紅の母衣ほろを着け、黒駒にうちまたがって山の尾根を真一文字に駆け登って行った。とても華やかな若大将だったので、人々がそれを見て、「あれを見ろ」と言っているうちに、早くも山の中腹まで駆け登った。

 それに続いて榊原飛騨守殿の子息の左門殿が、桃色縅の鎧に浅黄の母衣を懸けて、我劣らじと馳せ登って行ったので、諸軍勢が、「あれは御軍監おめつけの子息だ。敵に討たすな。続けっ」と言って、大将の信濃守殿と紀伊守殿の全軍二万人余りがかけ声をかけながら我先に攻め登った。

 大筒を揃え、楯を並べて鉄砲を撃ちかけるのを見て、黒田、細川、立花、小笠原の四家の人々は、「あっ、鍋島家が軍令を破って一番乗りするようだぞ。おのおの方、遅れるな。」と、四方で一斉にどっとときの声をあげて押し登り始めた。

 伊豆守殿はこのありさまを見てひどく驚き、「このように軍令を破るとはもってのほかだ。早く軍勢をひきあげろ。」と御使番おつかいばんを送って制止した。しかし、各方面の軍勢はまったく聞き入れず、かけ声をかけながら押し登って行った。

 全部で十七万人余りの軍勢だったので、山岳や樹木が震動し、天地も一度に崩れ落ちるかというありさまだった。伊豆守殿も制止できず、しばらく様子を見ることにした。

 さて、城内では一揆の頭分の柄本左京、佐志木佐治右衛門、大江治兵衛が三千人を率いてこの門を守っていたが、近頃では兵糧も尽き果てたため、雑穀を集めてそれを少しづつ食べて飢えを凌いでいた。

 今朝から数百人の一揆の者たちが海草を取ろうと搦手の浜づたいに海辺に行っており、あとには屈強な者がわずか七百人ほどで出丸を守っているだけだった。

 弾薬も尽きようとするところだったので、小筒を少し撃ちかけるだけで、棒火矢を撃つこともできなかった。しかし、柄本と佐志木が下知して松山に並び、鉄砲を撃ちかけ、石や材木などを投げ落とした。

 甲斐守はその中をたった一騎で見事に馬を乗り回され、落ちてくる木や石を飛び越えたり跳ね除けたりして少しも恐れる様子を見せず、勇みに勇んで鬼神のように進まれた。

 それを見て鍋島家の軍勢は、主人に劣るまい、遅れまいと励まし合って、落ちて来る材木を足掛かりにして、えいえいおうおうと声をかけながら押し登った。信濃守殿も采配を打ち振って尾根伝いに乗り上がろうとした。

 それを見て、先に立って進んでいた旗本二万人余りが平押しに攻め登り、「城内から棒火矢を打ち出さないところをみると、火薬がまったく尽きていることは明らかだ。安心して攻められる。」と言って、すでに七八割ほど登った時、甲斐守殿は早くも山を登りきり、出丸の曲輪の松山に取り付いて土塁の上に馳せ登った。

 一揆らはその場所が危機に陥っているのを見て鉄砲を投げ捨て、しかたなく虎口こぐちから討って出た。

 甲斐守殿は大音声で、「逆徒どもも今日で最期だ。一人も逃がすな。」と下知しながら、自分自身で馬上に槍を打ち振って進んでいった。

 不思議にも甲斐守殿の馬は突然猛り立ち、雑人らを踏み倒し跳ね散らして、獅子が猛り狂ったように千変万化したが、甲斐守殿はいつものように畳の上にすわっているかのように平然と馬を乗り回し、近付く者を槍で谷底に突き落として行った。あたかも悪鬼羅刹が荒れ狂うようであった。

 甲斐守殿と一緒に大木治大夫、下村八郎兵衛、平岡勝次郎、鍋島三左衛門、都築惣兵衛、小池官兵衛を先頭に若侍の面々が馳せ登った。守役の鍋島三左衛門は甲斐守殿の馬前に立って戦い、その他百有余人の兵士が常に馬前に立って戦った。

 この頃から、兵糧の乏しい一揆の者らはおおいに追い立てられ、右往左往して曲輪の中に敗走した。

 柄本つかもと左京は、今はこれまでと土塁の上に立ち現れ、「去年以来、日本国中にその名を知られた当城出丸の大将柄本左京。最期さいごの相手に好き嫌いはせぬっ」と大音声で呼ばわり、大身おおみの槍を引っ提げて、早く相手が来ないかと身構えた。

 鍋島家の家臣の平岡勝次郎が、よい敵だ、とその土塁に飛び乗った。それを柄本はきっと睨み、槍を投げ捨て太刀を引き抜いて、平岡の正面からまっぷたつに斬り割った。

 甲斐守殿は目の前で家臣を討たれておおいに怒り、「おのれ、推参な」と馬の手綱を引いて一鞭当てると、不思議にもこの馬は一飛びに土塁の上に飛び乗った。

 柄本が勝負を決しようとすかさず向かって行くと、甲斐守殿は左京の後ろに乗り抜け、槍を伸ばして打ちすえた。左京は打たれて土塁から滑り落ち、出丸の外に転げ落ちた。そこを三左衛門が押えつけて首をあげた。

 甲斐守殿が、「旗を持って来い」と呼んだが、旗持ちはまだそこまで来ていなかった。そこで、守役の三左衛門があらかじめ鍋島家の旗を腰に指していたので、それを槍の先につけて松の木に縛り付け、大音声で、「当城の一番乗りは鍋島甲斐守直澄なり。味方よ、続け。」と呼ばわった。

 御軍監おめつけの子息の榊原左門殿も歩行かち立ちになって乗り上がり、「当城の二番乗りは榊原佐門なり」と呼ばわったので、鍋島家の軍勢はこれに力を得て、それぞれひたひたと四五十人が乗り上がり、揉みに揉んで戦った。

 一揆の者らは柄本を討ち取られて力を落とし、少しづつ二の丸に退いた。

 この二の丸は、大手は狭くて足場が悪く、奥の方は広くなっていた。攻めるには難しく、守るには易しい場所だったので、一揆の者らはここで防ごうと待ちうけた。


52. 黒田家の先鋒の戦いの事

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