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天草騒動 「3. 織田信長公異人を安土に召す事」

 さて、信長公は異人の絵図を見て実際にその人物を御覧になりたく思われ、菅谷九右衛門を召してこの異人を呼び寄せるようにお命じになった。

 九右衛門は、「上意ではございますが、西国はまだ殿の御幕下ではなく、その上、肥前長崎は龍造寺隆景の領地でございます。もし上意が達せられないときは殿の恥辱となりましょう。よくよく御賢察あそばされるべきでございます。」と謹んで申し上げた。

 信長公はそれを聞いて、「汝が申すことも一理ある。わしが工夫しよう。」と言い、本来将軍しか出せないはずの御教書みぎょうしょを祐筆にしたためさせて、それを持った使者を肥前に遣わした。この使者は、もと足利将軍の家来であった田沢三右衛門であった。

 肥前に到着して上使の理由を申し入れたところ、龍造寺隆景は自らそれに面会して謹んで御教書に目を通した。

 龍造寺は田沢が信長の配下になっているとは夢にも思わず、足利義輝公のじきじきのお望みであると思い込んでしまい、ただちに、「たやすい御所望です。」と返答した。そして、さっそく長崎役所の中村監物に申しつけ、武士を大勢付けて異人を駕篭にのせ、献上の品々を準備して通訳をそえて京都へ送らせた。

 信長公は、御教書を偽造して南蛮人を呼び寄せたので、南蛮人が京都に入って義輝公に面会すると都合の悪いことになると考え、寺井兵庫、坂上主膳をはじめとして家来を多数迎えに出し、東寺四塚鳥羽縄手のあたりに待ち伏せして、一行を見つけたら直ちに安土に連れて来るようにと下知された。

 時に永禄十一年八月二十八日、摂津住吉の社のあたりで強い地震があり、松の木が六十六本折れたという。

 これはただごとではないと神官の津守助つもりのすけ国豊が京都に子細を告げたところ、「六十六本はわが国の分国の数である。諸国が乱れる前兆であろう」ということになり、諸国の名僧に命じて祈祷が行われた。

 このように騒動になっているところに、はたして九月三日、宇留岩破天連うるがんばてれんが京の近くに到着したので、こころある人は、「さてさて異人が京の近くまで入り込み、やがては国を乱そうと謀るのではないか」とひそかに眉をひそめたという。

 さて、宇留岩破天連が来たので、途中に待ち受けていた大勢の武士がこれを取り囲み、「信長公の上意である。まず、安土に来るように。」と申し渡した。

 中村監物をはじめとして全員、彼らの威勢を恐れて一言の異議も無く、そこから安土へ向かった。

 安土では、まず城下の妙法寺という日蓮宗の寺へ入れ置かれた。信長公は一行を妙法寺で二三日休息させたあと、登城するようにとの命令を下した。

 城内の広間では、信長公が上段に二畳の台を設けさせ、そこに衣冠正しく座していた。左右には敷物を敷いて近従が二人おり、そこから柴田、丹羽、佐久間、蜂谷、菅谷、筒井らをはじめとして譜代外様の面々がきら星のごとく列座していた。

 中村監物を召し出して信長公がおおせになった。

「不審に思うであろうから申し聞かせておく。このたび異人を見たいと所望したのは私であって、将軍義輝公ではない。遠路大儀であった。異人はここに置いて帰国せよ。」

 こう言って白銀二十枚づつ下された。中村は案に相違したとはいっても為す術もなく、安土を出立して肥前に帰り、隆景にかくかくしかじかと伝えた。隆景はおおいに怒って信長を恨んだということである。

 さて、通訳の篠田弥右衛門が異人を連れて階下に出たところ、宇留岩は信長公のことをかねてから聞き及んでいたので、ここぞと思い、例の七種の貢ぎ物を出して信長公の御前に並べた。

 信長公がその異人を御覧になったところ、身の丈七尺有余(2メートル10センチ余り)、頭は小さく、目は黄色で、髪の毛は鼠色、鼻は犀の角のようで、口は大きくて歯は白く、アヒトというものを着ており、裾ははだけて、袖は長く、まるで蝙蝠のような醜い姿だった。信長公をはじめとして全員奇異の思いをなし、なんとも珍しい人種だとこぞってこれをながめた。

 異人は香をたきこめているらしく、懐からよい香りが御殿に満ち渡っていった。

 やがて異人は献上物を披露し、通訳がいちいちその説明をおこなった。

 信長公が上段の間から「近う寄れ」と命じたので、異人は下段まで進み、南蛮の礼に従って両足を投げ出し、爪先を揃え、両手は腰に当てて頭をうつ伏せにした。通訳が異人の国の礼であると申し上げた。

 信長公は猪子いのこ兵助を通して、「汝が遠く南蛮国から来たのはどんな子細があってのことか。」と、尋ねられた。

 通訳が申し上げるには、「仏法をひろめようとして渡ってきた者で、名は宇留岩破天連と申します。」ということであった。

 信長公は、「それではまず、今日は休息を取るがよい。追って沙汰する。」と仰せになり、異人らは妙法寺に帰った。

 その後、信長公は諸臣を召して、「このたびの異人の、仏法をひろめたいという願いをどのように取り計らうべきか。」とお尋ねになった。いずれの者も判断がつきかねて、「殿の思し召しのままに。」と申し上げた。

 その時、学者の文教院法印が進み出て、
「そもそも、儒教も仏教も定法規則があって、第一に礼儀を最も重要なこととしております。しかるに、彼の者は左様な者には見えませぬ。わが国の所々の神明権現和光国応は結縁のはじめ、八相成道は利物の終わりでございます。唯一両部神を敬うときは再拝し、また、仏道には、帰依仏、帰依法、帰依僧の三依の儀をもって三拝と申します。これは、仁義礼智信のもとにして、人間不易の大法です。

しかるに、このたび渡って来た宇留岩破天連という者は、彼の国の礼とはいえ、両足を投げ出し、頭も下げず、定法に背く畜類に等しいものです。このようなものにどうしてすぐれた法があるでしょうか。すみやかに追い返すべきです。」と、言った。

 信長公は、ともかく彼の法をひろめさせてみようとの思し召しだったので、文教院に、

「その方の申すところ、一理あるが、あながち彼の法を捨てるべきでもあるまい。仏法の由来をたずねれば、往古釈尊が入滅したあと一千余年を経て、天竺が玄宗皇帝に諸経を献じたことに始まる。皇帝が仏法を敬ったので大唐四百余州に広まったのだ。また、わが朝では人皇三十代欽明天皇の御宇に百済国から一切経を伝え、それが広まって世の人々が成仏の道理を知るようになったのだ。そのようないきさつがあって異国から伝わった仏法教化が今の代まで遺っているのであって、最初から仏法に帰依していた者などいない。この度の破天連ばてれんも、どんな善法を持っているか測り難い。ひとまずひろめさせてみて、その上でもしも害があれば、武力で打ち破るのは簡単であろう。」と、仰せになった。

 皆それに賛同して退出した。


→ 南蛮寺を建立し仏法を弘める事

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芝蘭堂〜軍記で読む南北朝・室町
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