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天草騒動 「55. 黒田家惣曲輪一番乗りの事」

 さて、黒田三左衛門がこのありさまを見て、「何とものものしい。一揆どもの戦いぶりなど、どれほどのことがあろうか。」と言って采配を打ち振り、それに応じて大軍が一斉に平押しに押し登ってやにわに一揆二三十人を討ち取った。

 そこに布津村が、たった一人で槍を捻って立ち向かってきた。

 「それっ、討ち取れ。」と、黒田勢、四五十人が群がって馳せ向かい、一揆どもも二十人ばかりが再び取って返して、布津村と槍を並べて戦い始めた。

 黒田主税はまだ揚巻あげまきを結っている若侍だったが、勇猛果敢に布津村に打ってかかった。布津村が、「こころえたり。」と太刀を正面に振りかざして主税の頭上から切りかけたところ、主税は太刀の平身で受けとめたため、太刀の鍔元からぽっきりと折れてしまい、兜の上を一二寸切り下げられた。しかし、前髪にかかる程度の薄手だったので、脇差しを引き抜いて飛びかかろうとしたが、頭から流れる血が眼に入ってどうっと倒れてしまった。

 その時、家来の井上四郎兵衛が、「くそっ、主人のかたき、逃がさぬ。」と走り寄ってきた。布津村はすかさず井上を正面からまっぷたつに切り割った。

 そこに、黒田三左衛門が、六十歳余りの老武者ではあったが気力は壮士に劣らぬ剛勇だったので、大身おおみの槍をひらめかせて、大喝一声、布津村の胸板深く槍を突き込んだ。代右衛門は突かれながらにっこりと笑い、「南無阿弥陀仏」と唱えてどっと倒れ伏した。

 それを見て、立花家の家臣が横から駆けてきて布津村の首を取ろうとした。

 すかさず黒田の家臣の西村太郎が走って来て、「これは当方の敵だ。他家に渡すわけにはいかない」と言ってどちらが首を取るかで争いを始めた。

 その間、布津村は念仏をただ唱えていたが、それを聞いて西村が、「この天主でうすの賊め、どうして念仏を唱えるのだ。首を差し伸べて討たれろ。」と大声で言った。

 布津村は西村をかっと睨み、「今の一言は奇怪千万、わしの首を取るべき人は槍を付けた武士だ。確かに見覚えがある。おまえは天主でうすの供をしろ。」と言うやいなや太刀で横に薙いだ。西村は両足の脛を斬られてどっと倒れ伏した。

 布津村は大きな声で念仏を十遍ばかり唱えて、結局、黒田三左衛門に討たれた。

 この布津村代右衛門は布津村の庄屋で、大勇の者であった。領主の寺澤の非道を深く恨んでいたので一揆にくみしたが、耶蘇宗門を信仰していなかった事は最期さいごに念仏を唱えたことでわかる。

 布津村が討たれた後は、この口を防ぐ者もなく、黒田、立花両家の大軍が潮の湧くように外郭そとぐるわを押し破って両家の旗を立てた。

 惣曲輪は破られたが、二の丸はなかなかすぐには落ちる様子ではなかった。

 蘆塚は休みなく下知をくだし、鉄砲や弩弓いしゆみを激しく打ち出して防戦しているので、細川勢はこの場所でしばらく様子を見ることにした。

 軍師の蘆塚忠右衛門はあれこれと一揆の者に下知してから、大将の四郎大夫の前に出て、

「もはや運命もきわまり、落城も近いことでしょう。寄せ手は大軍で勢いも凄まじいものがありますから、諸方で厳しく働いているとはいっても、城内では弾薬が乏しく、兵糧ももはや尽き果て、全員飢えているためますます気力が衰えて、これ以上の防戦はできそうにありません。

かねてから覚悟していたことですから、今さらどうして悔いることがありましょうか。去年以来日本中を騒がせ、歴々の武士に対して潔い戦いをし、たびたびの合戦に勝利を得て、天下の追討使の板倉殿を討ち取ったからは、もはや命は惜しくありません。この上は各々華々しい戦いをして討ち死し、名を後世に残しましょう。

とはいえ、我々が滅亡した後、生き残った者に見苦しいふるまいがあって、一揆どもはやはり匹夫野人であったと末代までも物笑いの種になってしまうのは口惜しく思われます。落城の時になって、大勢の老人や女子供が取り乱したら見苦しく、かつ足手まといなので、かねて用意してあった人質曲輪に入れましょう」と、言った。

 四郎はそれを聞いて、「私もそう思う。万事あなたに任せるので、なんなりと貴殿の思ったとおりに取り計ってください。」と答えた。

 そこで、侍大将のうち、森宗意軒そういけんを呼び出して、

「すでに落城は近い。最期のときに臨んで、皆、心を一つにして潔く討ち死にし、天主でうすに救われて黄泉で再会しよう。なかでも貴殿は、去年の八月に本渡島子で和尚になって敵を欺いたことがあるので、僧の役目は貴殿がふさわしかろう。いそいで女子供をすべて人質曲輪に入れて、いざというときには大勢の者どもの引導の役をして一斉に火をかけ、火葬を終えてから最期の一働きをしていただきたい」と、冗談めかして言い渡した。

 森宗意軒は、それを聞いてにっこりと笑い、

「心得た。もはや兵糧も尽き、弾薬もなく、もちろん他所から救援が来るあても無い。私も他の人も最期の場所は違っても、運命は今日を限りで、明日まで生き延びられることはあるまい。それがしはにわか出家となって、老若男女全員の、冥途黄泉こうせんの案内をしましょう。」と、答えた。

 ただちに足弱あしよわと子供を集めて人質曲輪に入れて焼き草をたくさん用意し、一斉に火をつけて焼き殺そうと準備した。

 そもそもこの人質曲輪というのは、本城の東北にあたり、一つの山谷の端にあって、詰めの城の横にこの曲輪に向かう道があった。高くそびえた草山である。

 攻め口の足場が悪くて、いつもは人のいない場所だったので、寄せ手はこの場所に曲輪があることに気付いていなかった。今日になって突然ここに天主でうすの白旗がなびき、無常のありさまを見せた。


56. 森宗意軒最期の事 

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