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天草騒動 「34. 鍋島甲斐守殿と千々輪五郎左衛門の戦いの事」
さて、千々輪は黒糸縅の鎧に黒毛の兜を着け、大身の槍を引っ提げて、出丸の虎口から馬を乗り出した。そのありさまは三国志で名高い呂布や馬超にも劣らないほど勇ましく見えた。
その時、甲斐守殿が馬を駆け寄せ、大音声で、
「龍造寺和泉守隆景の五代の孫、鍋島甲斐守直澄とはわしのことだ。一揆め、前非を悔いて降参すれば、許してつかわそう。」と、呼ばわった。
千々輪五郎左衛門はこれを聞いて、「健気な若大将。わしが引導を渡してくれる。」と、馬を躍らせて平場に乗り出し、槍をぶんぶんと振り回しながら甲斐守殿が登って来るのを待ちかまえた。
甲斐守殿はおおいに怒り、
「そこのおまえ、馬にまたがって槍を使うとは何事だ。日ごろ手に馴れた鋤や鍬と間違えたか。」と、罵った。
千々輪はそれを聞いて、
「これは大将に似合わぬ罵りよう。今さら名乗るもおこがましいが、先祖は尾形三郎惟茂の嫡流、肥後の国に数代にわたって住み、父は加藤肥後守清正に仕えて朝鮮以来武勇の者と呼ばれたが、主家の滅亡で浪人となった千々輪五郎左衛門。時至らず今は一揆の頭五人の内の一人だが、武術に身分の上下の隔てはあるまい。賎しめるなかれ。」と、山の中腹の平らな場所で、縦横に乗り違いながら戦いを始めた。
千々輪は大坪流の馬術の達人で甲斐守殿もそれに劣らぬ達人だったので、互いに秘術をつくして上段下段と突き合った。そのありさまを敵も味方も固唾を呑んで見守った。まことに天晴れな一騎打ちの勝負であった。
千々輪五郎左衛門は大身の槍で数度に渡って突いたが、一度も鎧の裏に通すことができなかった。
五郎左衛門はおおいに怒り、「およそ我が槍は鬼神をも挫くというのに残念至極。」と、槍を捨てて太刀を抜き、槍の下をかいくぐって斬りつけた。
甲斐守も「こころえたりっ」と、槍を投げ捨て太刀を抜きざまに斬り返した。
双方受けつ流しつ、払えば開き、開けば付け入り、飛鳥のように斬り結び電光を閃かせた。互角の戦いぶりで、とても勝負がつかないように思われた。
そこに、鍋島三左衛門がただ一人で馬を走らせてきて、「これは軽々しい大将のお振舞。老武者で力は弱いが、手練のほどを見せてやる。」と、斬ってかかった。
五郎左衛門は、「邪魔するなっ」と、荒馬を蹴立ててまったく近くに寄せ付けない。三左衛門はどうしようもなくしばらくうろうろしていたが、そのうち千々輪が、
「天晴れ武勇の大将よ。どんな天魔でも一太刀で切り捨てられると思っていたが、なかなか驚いた手並みだ。今は大将が討死する時節ではない。それがしもまだここで討死するわけにはいかない。勝負はまた後日決しよう。臆して逃げるな。」と、馬首を返して一気に出丸の松山に乗り込んだ。そのさまはまことに勇ましく見えた。
鍋島家の者は、兵士はもちろん軍監の榊原飛騨守殿もこれを見て甲斐守殿の武勇に感嘆し、「もう引き上げなされ」と声をかけた。
甲斐守殿も、自分の手並みを十分に見せたので、このへんでよいだろうと、本陣めざして引きあげた。
こうして今日全軍が引き上げた時は、はやくも未の頃(午後二時頃)になっていた。
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