天草騒動 「53. 細川家総攻撃の事」
さて、細川越中守忠利殿は、鍋島家と黒田家の鬨の声を聞いて、「それっ、城攻めに遅れるな。」と、先鋒の面々に下知し、平草山から平押しに押し登った。
その面々は、まず一番に長岡監物。
この監物は、大阪の合戦に生き残った老巧の武者で、その武勇が天下に知れ渡っていた者であるが、きのう北条殿の言った言葉におおいに恥じ入っていた。
子息の帯刀と次男の万作を左右にしたがえ、「今日の戦いは鍋島家が始めたとはいえ、出丸は特殊な場所である。大手の黒田家だけには遅れをとってはならない。是非とも一番乗りしたい。」と言って、配下の二千人余りの先頭に立ち、持ち楯を振りかざして必死になって押し登った。
それに続いて二千人余りがかけ声をかけながら攻め登った。
この場所はそれほど険しい場所ではなかったが、滑って簡単には登れなかったうえ、そこに城内から矢玉や材木が激しく飛んできたので寄せ手は進みかねている様子であった。
長岡監物は至って大兵で、年齢は七十六歳、腰は折れ曲がってうまく歩けなかったが、心は剛勇で力量もすぐれた人だったので、大音声で、「汝ら、これくらいの平山を登るのは児戯に等しい。さあ、我に続けっ」と下知して、自分自身が先頭に立って進んだ。
しかし老体のため、五間登っては息をつき、また十間登っては腰を折り、いかに矍鑠としていても登るのはなかなかたいへんな様子だった。しかし、勇気はますますさかんであった。
さすが、去る元和元年の合戦で、鏑木、岡部、長岡の三勇と称され、その後、細川家に仕えた名誉の人である。
子息の帯刀は父の手を引き、次男の万作は腰を押してやり、えいや、えいやと押し登った。それを見て配下の者らも、我劣らじと一斉に押し登った。
城内からいよいよ激しく鉄砲、石、材木などを撃ちかけ投げかけたが、早くも城兵は防戦に疲れてきた様子だった。
細川忠利殿は城内の様子を御覧になって、「一揆どもは早くも弱ってきたように見えるぞ。この機に乗じて攻め破れ。」と下知して、采配を打ち振り、九曜の紋の旗を翻し、左の脇道から大筒、小筒を撃ちかけながら攻めていった。
長岡監物は四方をきっと見て、二人の息子に向かって、
「おまえたち、あれを見ろ。黒田侯、鍋島侯の両家は早くも城下に着いて戦っているから、今にも敵城を乗り破るに違いない。この方面の人々は、攻め方がてぬるい。おまえたち、父に代わって先陣を果たせ。わしにかまうな。かかれ、かかれ。」と下知した。
しかし、兄弟は父から離れかねて、弟の万作が、「兄上、先陣して敵の城を乗り破ってください。それがしは父上をお助けしてあとから登ります。」と言うと、兄の帯刀は弟に、「一番乗りしろ。私は父上を介抱してあとから登ろう。」と言って、兄弟で互いに先陣を譲り合った。
監物はおおいに苛立って、歯がみし、地団駄踏んで、
「おまえたち、父を助けようなどとは不届き至極。年老いたとはいえ、この監物の武勇は誰に劣ろうか。兄弟一緒に早く敵の城を乗っ取れ。それが嫌なら今から七世までも勘当するぞ。」と太刀を振りかざし、二人の息子をさんざんに追い立てた。
兄弟は、こうなってはどうしようもなく、いざ城を乗っ取ろうと、二匹の唐獅子が胡蝶に狂うように、先になり後になりながら真一文字に馳せ登って行った。
それを見て監物は、「何と勇ましい兄弟のありさまか」とおおいに喜び、「それに比べて自分は老い武者の悲しさよ」と薙刀を杖にしてよろめきながら登って行った。老いても剛勇は衰えず、勇猛一徹な心ばえには目をみはらせるものがあった。
その姿に励まされて、「老い武者を討たすな」と配下の者たちが左右から助け合ってあとに続いた。
この場所は大手と搦手の間で足場が悪いため、城内でも大勢では守っていなかったうえ、弾薬が不足しており、鉄砲を撃っても距離が遠くて届かなかったので、兄弟は難なく塀の近くまで押し登ることができた。
塀際でよく見ると、遠くから見た時と違って普請も粗末で空堀もなかった。
これこそ天の助けと二人は塀に手をかけて城内に乗り込み、「この城の一番乗り、細川越中守の家来、長岡監物。同じく帯刀。同じく万作。」と大声で呼ばわった。これは大手から容易に見える場所だったので、後に細川家が一番乗りと認められた。
父の監物は遥かにこれを見て涙を流し、「老人の面目、これに過ぎるものはない。」と、采配を打ち振って、「続け、続け」と味方を進軍させた。
また、大将の旗本に使者を送って、「二人の息子が一番乗りしました。もうすぐ落城するでしょうから、御馬をお寄せください。」と申し送った。
そこで旗本が、「全軍平押しに攻め登れ」と下知し、それに応じて有吉四郎右衛門、長岡七郎、杉井隼人、木村兄弟、片山常右衛門、および澤村才次郎らが先頭に立って、都合一万人余りが潮の湧くように鬨の声をあげ、鉄砲を撃ちかけ、槍の穂先を揃えて塀を押し破り、白兵戦となった。
一揆の者らは、ここが死に場所と必死に戦ったが、悲しいことに百姓どもは武器も整っておらず、武芸の腕は武士の相手になるはずもなく、そのうえ長い間飢え疲れ、力も衰え気も疲れ、うろたえまわるばかりで大勢の者が討たれていき、五百人余りが守っていたのにたちまち滅び失せてしまった。
長岡監物が下知して早くも諸方に火をかけさせたが、もともと菰を張った小屋が並んでいただけなので、ただちに燃え上がり、黒煙が四方に充満した。
生き残った一揆の者らは全員本城に逃げ込んだので、三の丸に乗り込んだ細川家の軍勢は九曜の紋の旗を立て並べて厳重に守備を固めた。
三の丸と二の丸の間は幅二間、深さ一丈ほどの空堀が隔てていたが、まだ跳ね橋を引いてなかったので寄せ手が橋を渡って攻め込もうとした。
そこに千々輪五郎左衛門が急を聞いていっさんに馬を走らせて来て、「ここから破られてはいけない。槍を組んで押し出せ。」と下知したので、この口を守備している組頭の戸島惣右衛門、軒山善右衛門をはじめとする面々が、心得たりと五六十人集まり、長柄の槍や竹槍を構えて横合いからどっと突き出した。
細川家の先鋒が追い立てられかかったところに、長岡兄弟、有吉、杉井、大木らの兵士が真っ先に進んで、「踏みこらえて無二無三に追い立てろ。二の丸を落とせっ」と言って、再び跳ね橋を渡りかけ、一揆の者らを二三十人ばかり橋の下に突き落とした。
それを見て、戸島、軒山の両人はおおいに怒り、槍を揃えて突き出した。
長岡帯刀がそれを見て、「ちょこざいな。一槍くれてやる。」と戸島と渡り合って二三合戦ううちに、帯刀が苛立って突いた槍が戸島の胴腹をぐさっと突き刺した。
戸島は刀を抜いて槍を切り折ろうとしたが、橋板を踏み外してしまい、堀にまっさかさまに落ちていった。
また、軒山善右衛門は大木と組み打ちしてもみ合ううちにごろごろと堀の中に落ち重なったが、大木が手早く脇差しを抜いて軒山を突き刺し、とうとう首を取った。しかし、大木も体を強く打ちつけたので身動きできなくなってしまった。
もはやこの口は破られたと思われるところに、千々輪が、「ここが破られたらおしまいだ。」とたった一騎で馳せ廻って下知し、「一騎の首領、千々輪五郎左衛門なりっ」と名乗りをあげながら、当たるをさいわい突き伏せ薙ぎ伏せ暴れまくった。
そのありさまは、鬼神も恐れおののくほどであった。