天草騒動 「58. 鍋島甲斐守殿、二の城戸一番乗りの事」
さて、鍋島甲斐守殿は今朝の卯の刻から城攻めを始め、出丸を一番に乗り破ったあと、人馬を休ませて四方を見回され、
「あのように諸方の軍勢が一斉に競い合って攻撃しているから、落城は間近であろう。まず出丸は乗っ取ることができたから、二の丸も乗っ取ってやろう。者ども、あの城戸を打ち破って進め。」と、下知した。
それに応じて、鍋島家の兵士は残らず二の城戸に向かった。
この場所は七八間ほどの間、道が険しく、その上、幅も狭く、五六騎が並ぶと登れなくなる険阻な場所であった。
この城戸は大江治兵衛と佐志木左次右衛門が守っていたが、攻撃が始まったのを見て石や材木を投げつけたり、鉄砲を撃ちかけたりして防戦した。しかし、一揆らはこの頃はすでに飢え疲れていたので、戦いぶりは手緩いものだった。
甲斐守殿が先頭に立って進み、采配を打ち振りながら、「城の狭間を撃て。」と下知されたので、二百挺余りの鉄砲が筒先を揃えて雨あられと撃ち出された。一揆どもは動くこともできず、ただすくみあがっていた。
そこに、鍋島家の家臣の中尾某という鉄砲の達人が、百目弾の強薬で門扉を狙って続けて二発撃ったところ、閂が砕けて門扉が左右にぱっと開いた。
甲斐守殿はそれを見て、「今が好機」と、石の散乱した坂道を飛び越えて一番に馳せ入った。
坂を登ったところで一揆の者どもを七八人突き倒して城戸に乗り込むと、そこに大江治兵衛が槍を引っ提げて駆けつけ、やにわに突いてかかった。
甲斐守殿は両眼を怒らせて、「推参な奴め。おのれっ、わしの先陣の邪魔をするかっ」と言って、きっ、と睨み付けられた。
その勢いは鬼神のようで、さすがの大江も仰天し、恐怖のために尻餅をついてしまった。そこに甲斐守殿が槍ですかさず大江の胸板を突き貫いた。
大江を突き殺して甲斐守殿が後ろを振り返ると、「でかした、甲斐守殿。」と言いながら、守役の三左衛門が旗を二流差し上げてやって来た。
甲斐守殿は、自分自身で二の丸台の見える場所の松の木に旗を結び付け、大音声で、「当城の一番乗り、鍋島甲斐守直澄なり。」と、名乗りをあげられた。
それと同時に鍋島家の先手家老の諌早隼人、鍋島勘解由、鍋島彦大夫らの兵士が我先に進んで二の丸台によじ登り、一揆らを追い立てた。
一揆の者らは飢えて疲れ果てていたので、手を合わせて、「善主ぱりぱり」と唱えながら首を差し伸べて討たれたものが七百人余りもいた。
二の丸がすでに落ちてしまったので、佐志木は死を共にしようという大将の四郎大夫との約束をまもるため、追われるにまかせて一揆を引き連れて本城に入り、城戸口を閉じて守りを固めた。
そこに諸方の寄せ手が攻めかかったので、蘆塚は本丸で、「もはや最期の合戦の用意をすべき時が来た。」と言って城内の掃除をさせ、見苦しい物は取り片付けさせて、最期の場所は荒神ヶ洞と意を決した。
その時、佐志木が馬を走らせて来て、「三の丸はすでに落ちました。」と語るのを聞いて、蘆塚は、「今、大矢野と千々輪が大手を防いでいるが、千々輪一人が鍋島に応戦し、大矢野は本丸に引き返されよ。」と申し送った。
千々輪は、「こころえ申した。」と答えはしたが、今日で最期と思うとなごり惜しくなり、本城に走って来て、蘆塚に向かって、
「今度の企てはもともと成功の可能性はなかったが、それにしても残念なのは兵糧と弾薬が尽き果ててしまったこと。そのうえ、救援を頼む者もおらず、兵士はほとんど討たれて残り少なくなってしまい、雑人ばかりではとても防戦できそうにない。このうえは思う存分戦って討ち死にし、来世で再会しよう。
貴殿はかねてから申し合わせてあったように、大将を助けて最後の華々しい一戦を遂げて討ち死にされよ。今はもうこれで最後だ。」
と言い捨てて、自分の持場に馳せ帰った。
千々輪は今年で五十二歳、勇気は壮年の者にも劣ってはいなかった。黒糸縅の鎧に白地の母衣をかけ、三尺ほどの太刀を佩いて、一揆百人余りをしたがえ、本城の細道を回って、「千々輪五郎左衛門ここにあり。」と鍋島家の軍勢の横合いから突入し、突き立て薙ぎ立て戦った。
鍋島家の軍勢はその勢いに押されて追い立てられて、今にも敗れそうになったが、そこに、旗奉行の石川権大夫が、「生意気な一揆め」と言って、槍を持って馳せ向かった。
千々輪は石川の突き出した槍を打ち落とし、そのまま付け入って石川の鎧の上帯をつかみ、そのまま石川を背後の谷底に放り捨てた。
寄せ手は、これに恐怖して少しひるんだところを散々に攻め立てられ、とうとう二の城戸から押し出された。鍋島家の軍勢は原の出丸に退いて備えを立て直し、次の機会を待った。