見出し画像

天草騒動 「28. 一揆の者、原村に集合の事」

 一揆の面々は葭田よしだ三平の謀計で城兵を欺き、思いのままに勝利を得ることができたので、今のうちに蔵屋敷の米を奪おうと考え、蔵の扉を押し開き、俵を運び出して船に積み、原村に運び込んだ。

 兵糧蔵を建てて穀物を積み入れたが、その量は、米二万八千俵、大豆四千俵におよんだ。これらの穀物をたった一日で奪い取ってしまったのである。

 また、一揆に味方しない村に押し寄せて暴れまわり、米や金銀、雑具まで奪い取って原村に送った。前代未聞の騒動であった。

 その後、蘆塚忠右衛門が次のような指図をした。

 まず勢いに乗じて高久の城下の裕福な家に押し入って金銀米穀を奪うこと。

 また、弾薬蔵が城の三の丸にあり、この中の弾薬を残らず奪い取ってこちらの軍用にしたいので、今日は火を用いるのを固く禁じる。

 城中から打って出た時の備えとしては、大矢野作左衛門と天草甚兵衛がそれに対応する。両人のもとには軍勢五百人をつける。

 蘆塚父子は五百人余りを率いて後陣に回り、急変があった時に救援に行くことにする。

 城下の町に押し入って家財を奪い取るためには一揆の者二千人余りを派遣する。その大将は、赤星内膳、天草玄察、四鬼丹波、有馬休意、柄本左京、佐志木佐治右衛門とする。

 また、煙硝蔵に押し入って弾薬を奪い取るのは最も大事なので、これは千々輪五郎左衛門を大将として五百人余りで向かう。船の指図は、上総三郎右衛門、葭田三平、楠浦八兵衛がおこなうこととする。

 時に寛永十四年九月二十七日、一揆の面々は高久の城下町に押し入って乱暴し、金銀は言うに及ばず、武器、衣類、味噌、諸道具、鍋、釜の類まで残らず奪い取ってすべて原村に運んだ。

 葭田三平は地理に明るかったので、陸路や海路の案内をし、やすやすと弾薬を奪い取って船に積み、すべて原村に運送した。こうして全軍ゆうゆうとひきあげて行った。

 このような大騒動なのに武士どもは城から出てこれを制止することもできず、ただ城の中で小さくなっているばかりであった。

 「やすやすと武具弾薬を奪い取られるとは、武士の風上にも置けない。」と、一揆の者らは誹り笑ったということである。

 さて、城内では、松倉家の臣下のうちで少しは勇気のある二十七人が残らず討死してしまったので、残った武士はまったく敵対する勇気もなく、雑兵たちはなおさらのこと、ただ震えおののくだけであった。

 一揆の者らが蘆塚忠右衛門に、「今この城を落とすのは簡単でしょう。」と進言したが、蘆塚はこれを制して、

「窮鼠は追ってはいけない。すでに天草富岡城で懲りたではないか。たとえこの城を乗っ取っても、城内は狭く、なかなか大軍がたてこもることはできそうにない。また、二か所、三か所と分散するには侍大将が不足だ。その上、この城はそれほどの要害ではない。城中の武士たちは顔を出す様子もなく、うち捨てておいても気にかける必要はあるまい。全員、原村に引き返すように。」と下知した。そこで、全員しずしずと引き上げていった。

 このようにして存分に打ち勝って、奪い取った金銀を全軍に分け与えたので、皆おおいに喜び勇んだ。

 今ここにいる人数は八千五百人余りで、天草勢を合わせると一揆の総勢は二万人余りにおよんだ。

 最初の計画では長崎に押し渡るはずだったが、海上は薩摩の根木という港に軍船が数艘いて、島津家の家臣の種ヶ島大膳、本多六郎左衛門が守備に当たっており、大大名のことなので軍勢の数がおびただしく、大砲も数門備えているので、なかなか船で押し通ることは難しかった。

 また、肥前の港にも鍋島の軍勢が軍船数艘を浮かべて守備についていた。長崎の方には、立花、大村、五島、宗らの勢が軍艦で守っており、容易に長崎に渡れる状況ではなかった。

 蘆塚が人々に向かって言った。

「このような情勢では、なかなか長崎には渡れそうにない。長崎に渡ることは当面見合わせ、肥前の国の中に本陣を置いた方がよいであろう。天草の勢が別れていては味方の力が弱まってしまうので、一か所に集まって今後の計略を決めよう。」

 これを急いで天草に申し伝えたところ、天草でも四郎らは以前から出陣を覚悟していたので、ただちに船の用意をして、唐津勢から奪った兵船に漁船を加えて、全員が乗船して島原へと出帆した。船には兵糧をはじめ天草に貯えていた品をすべて積み込んで、女や子供には屈強な者を付き添わせていた。総勢一万人余りであった。

 天草勢の出帆を聞いて原村の騒ぎは尋常ではなく、島原から浜辺に迎えに出た人数は八千人におよんだ。

 これらの人々は天主でうすの旗百流を先頭に押し立て、軍師の蘆塚忠右衛門と諸将の大矢野作左衛門、千々輪五郎左衛門、天草甚兵衛、赤星内膳ら頭分かしらぶんの者が浜辺に出て平伏した。

 やがて大将の四郎大夫時貞が船から上がった。その人品骨柄、自然の威風は天晴れな大将と見えた。

 各人それぞれに挨拶してまず本陣に入り、今度の蘆塚らの軍功を賞した。

 人々は、天草の良い家を解体して運んできた材木を用いて仮の家を建て直し、大将の住居とした。その後、軍陣での役柄を決めた。

原城内役付け

軍師 蘆塚忠右衛門
侍大将兼軍師相談衆 大矢野作左衛門
 同 千々輪五郎左衛門
 同 天草甚兵衛
 同 赤星内膳
徒士大将兼評定衆 天草玄察
 同 森宗意軒
 同 有馬休意
 同 千束善右衛門
 同 大江治兵衛
 同 柄本左京
 同 布津村代右衛門
 同 駒木根八兵衛
 同 鹿子木左京
 同 蘆塚忠大夫
 同 蘆塚左内
 同 四鬼丹波
中老兼旗奉行 山田右衛門
 同 毛利平左衛門
 同 楠原八兵衛
 同 田崎刑部
 同 菅村善兵衛
 同 大浦四郎兵衛
鉄砲頭 佐志木佐治右衛門
 同 上総三郎左衛門
 同 葭田三平
 同 会津宗印
槍奉行 林田藤平
 同 上総玄蕃
 同 畑久右衛門
 同 渡邊伝右衛門
 同 堂島対馬
 同 戸島惣左衛門

 その他、弓箭奉行、弾薬奉行、小荷駄奉行、監察役、兵糧奉行、作事奉行、隊長、伍長などや、その下役の者を決めた。全部で二十一組に分け、違う色に染めた旗を持たせた。

 足軽には先手の鉄砲組千人、弓組五百人、長柄槍千人、その他夜回り番に至るまで申し付け、厳重な軍令を出した。とても百姓一揆とは思えない陣容であった。

 まったく前代未聞の珍事であり、これが天下の動乱の発端であった。

 将軍家からの征伐の下知が遅れたために一揆がこのような多人数になり、簡単には鎮圧できない情勢になってしまったのである。

 天草領五万石と島原領五万石の領内が皆一揆に加わって、総勢合わせて二万千人余りに及び、その他、女、幼児、子供、老人を入れれば、一揆に加わった者は総人数四万三千人余りに及んだ。

 島原村の賑やかさは言いようもなく、古今未曾有の徒党であった。


第3章 籠城へ

ひとつもどる
目次へ


いいなと思ったら応援しよう!

芝蘭堂〜軍記で読む南北朝・室町
楽しんでいただけて、もしも余裕があったら投げ銭をお願いします。今後の励みになります。