ときメモGSの学園演劇って結局どういう意味やねん!?〜紺野玉緒編〜
突然ですが、玉緒への愛が日に日に肥大して押しつぶされそうなので、
玉緒の学園演劇の原作を読み込んで、
彼の最後の文化祭について本気出して考えてみようと思います
紺野先輩の学園演劇の元ネタはこちら
マーク・トウェイン作「王子と乞食」
最近では「王子と少年」と表記されることもある、「トム・ソーヤの冒険」でお馴染みの作者が書いた物語です
60年以上前の翻訳なので語彙は少々古くて堅苦しいのですが、
児童文学だけあってさらりと読みやすい一作でした
めちゃくちゃざっくりしたあらすじ
王子に憧れる物乞いの少年トムは、ひょんなことからエドワード王子に出会い施しを受ける。
互いの暮らしを羨み、戯れに衣服を取り替えたところ、互いの容姿が鏡写しのようにそっくりであることに気づく二人。
そのまま衣服だけでなく生活まで入れ替わってしまい、
乞食として放蕩することになった王子エドワードと、
王子として臣下を従えることになった貧しい少年トム——
16世紀のイングランドを舞台に、正反対の視点から人の世の無情や矛盾を描く、児童文学の傑作。
この演劇の中で、
紺野先輩は王子と入れ替わった物乞いの少年トムの役
私たちバンビは、エドワード王子(※実在人物)の婚約者である美しい姫ジェーン(※実在人物)役
お飾りの王子と、それとは知らぬ姫が想いを伝え合うシーンになり、現れるのが紺野先輩の学園演劇スチル。
「こんな馬鹿げた暮らしはもうごめんだ」「元の宿無しの俺に戻る」と言って宮殿を抜け出そうとする紺野先輩に、
「王子が行くなら私もついて行くわ」「わたしはあなたを見ているわ!」とバンビが食い下がる、とても良いシーンです。
ですがこのシーン…………………
原作に一切ありません!!!!!!!!!!
実際は
・トムもエドワードも10歳の少年なので、高校生が演じることは難しい
・「宿無しの俺も〜」という台詞があるが、別に宿無しではない
・物語は物乞いに堕ちたエドワード王子の冒険譚や、道中で出会う騎士マイルスとの友情に焦点が当てられていて、恋愛要素はゼロ
・ジェーンは序盤以外に台詞がほぼないモブであり、王子に意見などできる立場ではない、イエスマンならぬイエスウーマン
・そもそもジェーンはエドワードと婚約しておらず、彼から見た彼女はただの「いとこの娘」であり、歴史上は別の人物と結婚している
・というか、原作と学園演劇を照らし合わせた結果、バンビがジェーン役なのかすら怪しく、まさに「誰おま」状態で、オリキャラの可能性大
・でも他に若い娘のキャラクターが出てこない上に、国王を「おじさま」と呼んでいるため、一応ジェーン姫と仮定してみた(ジェーンから見た国王は大伯父)
・歴史上のエドワード王子は生まれつき病弱だったため15歳という若さで早逝しており、婚約も結婚もしていない(wiki参照)
等々原作改変が多々あり、それどころか史実上の誤りがある、まさに「高校生の手作り脚本」なのです
おそらく、学園演劇の脚本担当は「物乞いの青年が王子となり、美しい姫と恋に落ちる」筋書きにするために
「物乞いと王子が入れ替わる」という「王子と乞食」のエッセンスのみを拝借したのでしょう。
原作と言うには少し苦しいくらいに、原作要素はほんのわずかです
それなのになぜ、神シナリオに定評のあるGS3のライターが「王子と乞食」を題材に、紺野玉緒という青年の物語を描いたのか
以下、それについての超超超個人的な考察です
肩書きは飾りでしかない
ろくな教養もマナーも身についていない、貧民街出身のトム。
ひょんなことから王子と入れ替わり、皆から殿下と呼ばれても、王子らしいことは何一つできません。
それでも摂政によって国は回りますし、宮殿は「王子の気が狂ってしまった」とざわつくだけで、その他なんの影響も支障もありません。
一国の王子が全くの別人にすり替わっているというのに、誰も気が付かない。
人々が見ていたのはエドワードではなく「王子という存在」であり、
求めているのはエドワードではなく「王子という役割」だけ。
だから、気が狂っていようと中身が入れ替わっていようと、誰も関心を持たない。
これは、紺野先輩が作中でずっと吐露し続けている、
生徒会長の肩書きの重さを「案外そうでもないよ」と逆方向へ皮肉ると同時に、
その肩書きがいかに空洞であるかを物語っています。
このシニカルなストーリーが「みんなが俺を見ているようで見ていない。王子なんてただの飾りなんだな……」という象徴的な台詞につながっているのですね。
心根の優しい「偽王子」
紺野先輩演じるトムは「自分は卑しい物乞いだ」と訴えたせいで、王宮で気狂い扱いをされるようになりますが、
持ち前の穏やかで優しい心根で民の心を掴んでいきます。
残忍すぎる法や裁判に疑問を呈し、王子の権力を行使して無実の人を釜茹でや絞罪から救っていくトム。
はじめは王宮の堅苦しさや王子という重責に戸惑っていた彼が、
知らず知らずのうちに一国の長としての素質を発揮し民衆に慕われ始める——
これもまた、乗り気でなくとも無自覚に才能を発揮して(※生徒会スチル)
はじめは大きすぎた肩書きが徐々に身の丈に合いはじめていく紺野先輩にぴったりな筋書きです。
心根が優しいからこそ人一倍責任感が強く、自らの役割を重荷に思うこともあるけれど、感謝されれば嬉しいし困っている人を見過ごすことができない。
そんな紺野先輩が、痛烈な皮肉が込められたこの台本を渡されて一体どう感じたのか、想像するだけで胸がざわついてしまいます。
改変してまで盛り込まれた台詞
原作とはうってかわって、王子に「ちゃんと」恋をして彼を大切に思っているジェーン姫(仮)
「王までが俺を息子だと言う! 宿無しの俺も、顔が似てるってだけで王子様だ!」
「みんなが俺を見ているようで本当は誰も見ていない。王子なんてただの飾りなんだな……」
そう言って去ろうとする紺野先輩(トム)に食い下がり、
「私はあなたを見ているわ!」
「あなたはいつも笑顔の裏で悲しんで、苦しんで……そうして耐え続けていることを私は知ってるわ」
と真摯に訴えます。
SUPER CHARGER略してスパチャを文化祭に呼んで欲しいと言われ、
それに応えようと最善を尽くしても、結果を出せなければ好き放題なじられてしまう。
そんな理不尽に対する悲しみを苦笑いで封じ込めていた紺野先輩の心に、
この台詞は真っ直ぐ突き刺さったようです。
紺野先輩は大人です。ヒロインよりも一つ年上で、常に年長者たろうとあり、リーダーたろうと振る舞います。
けれど、実際はまだ10代の子供。
全ての理不尽を受け止めて責務を全うできるほど大人ではないし、大人であってはいけない。
だからこそ、このバンビの台詞が必要だったのです。
攻略的な意味で王子ではない、偽王子の彼に「王子の肩書きよりもあなたがいい」と案に示すという、メタ的な意味も込められているのかもしれません。
本編では描かれなかった結末
改変されたこの学園演劇で、物語がどのような結末を辿るのかはわかりませんが、原作未読の方向けに、お話の顛末を簡単に伝えようかと思います。
物乞いになり代わったエドワード王子は、様々な冒険を通して英国が抱える問題を見つめたのち、王宮に帰還します。
しかし、気の狂った物乞いだと思われて、王子であることを誰にも信じてもらえない本物の王子。
その際に「彼は本物の王太子殿下だぞ!」と家臣たちに懸命に訴えたトムを王子は褒め称え、
元の物乞いに戻らなくても良いように、貧しい子供達に教育を施す慈善病院の監督長という立派な役割をトムに与えました。
これもまた、ボランティアサークルで病気の子供達の元を回り、堅苦しい肩書きを抜きにして施しを与える紺野先輩と通じる顛末ですね。
こうして見ると、我々プレイヤーをヒロインに見立てて「ときめかせ」ながらも、
攻略男子それぞれの物語の本質を描かなければならない学園演劇の脚本として、
あの改変された筋書きが大正解だったということがよくわかります。
最後に
いかがでしたか?(アフィカステンプレ)
あくまで個人的な読書感想文であり、学術的見地など一切ないただのオタクの考察ですので、誤りや曲解などあるかもしれませんが、
本記事をきっかけに紺野先輩ルートをプレイしてみようと思う人が一人でもいたらいいな、と思います
紺野玉緒は……………いいぞ
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