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短編小説『レトロニムに惑う』

 黒沢楓が好きだ。長く艶やかな黒髪が、少し見上げる形でなければ目を合わせられないほどの背の高さが、いつも私と一緒に帰ってくれることが、低めながら甘い響きを持つ声が、好きだ。もうこれは、ここまで育ってしまった思いは、隠してなどおけない。だから告白することに決めた。放っておいたらダラダラと最悪な形で漏れ出してしまいそうだから、そうなる前に自分で伝えたい。
「ツナ缶よりは絶対まぐろフレークのほうが美味しいのにさ。値段も全然変わんないんだよ? でもいっつもツナ缶なんだよ。ありえなくない?」
「……えっ?」
「また聞いてなかったの? 今日なんか変だね芳花。具合悪い?」
「だいっ、大丈夫! ははは。大丈夫大丈夫。ツナ缶? ね、美味しいよね」
 私の返答に、楓は遠い目をした。それきり黙ってしまったので、押し寄せる沈黙に私の心臓はいまだかつてないほど張り裂けそうに脈打った。思い切って私が「あのさ! 楓!」と、第一声を盛大にひっくり返しつつ切り出すと、楓は「ん?」と気のない返事をした。構わず私は、もはやどうにでもなれという気持ちで言ってしまう。
「楓のことが好きなんだ、私、その……。つ、付き合ってほしいんだけど!」
 楓は足を止めた。それから私のほうをじっと見ながら近付いてきたので、目を逸らしてしまいたくなりながら私は必死に耐える。そんな私の気も知らずなのか、楓は至近距離で私のことを見つめ続ける。心なしか口元を綻ばせながら。楓が少し顔を動かすたびに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。息もできないような時間がしばらく続いて、私はとうとう耐え切れずに吹き出してしまった。楓も小さく笑ったかと思うと、前触れもなく私の左手を取った。思わず固まった私の手を引くようにして、楓はさっきよりもいくぶん早足で歩き始める。

 怒っているようにも感じられた早さで動き続けた楓の足は、今にも崩れてしまいそうな古いアパートの一室の前で止まった。二階建てで、上の階へは真っ茶色に錆び切った外階段で上れるようになっているが、楓は一階の一番奥、砂利道に面した場所にある扉に鍵を挿して開いた。中に入ってすぐ、空気の悪さに胸が苦しくなった。足の踏み場がないわけではないものの、パンパンに中身の詰まったビニール袋や、日焼けした古い求人雑誌のような何か、埃をかぶった衣服の類などが玄関から廊下までを占領していて、いくつかあるらしいことがうかがえる部屋の中も似たような様相なのだろうことは想像に難くない。
 手を引かれ続け、入るのがためらわれる部屋のうちの一つへ招き入れられたとき、一瞬、私は状況を理解できなかった。その部屋には楓がいた。でも、私を招き入れたのも楓だった。私の目の前に、私が手をつないでいるのとは別の楓がいた。二人目の楓。家の有り様に声を失っていた私も、つい短く大声を上げてしまった。でも、すぐにある可能性に思い至った。
「双子……?」
 私が訊ねると、楓はもう一人の楓と目をゆっくり見合わせてから「そうだよ」と答えた。
「私が楓で」と私と手をつないでいる方の楓が言い、「私が桜」ともう一人の楓が言う。見分けはまったくつかない。
 何で連れてきたの? と、桜と名乗ったほうの楓が言うと、楓と名乗ったほうの楓は告白されたから、と事もなげに答えた。桜のほうはそれを聞いてかなり驚いた様子を見せ、私と私の隣を何度も見比べる。そののち、どうする? と私に問いかけてきた。
「ど、どうするって?」
「どっちと付き合う?」
 意味が分からずまばたきを無駄に素早く繰り返す私に、桜は「私たちは二人で楓だから」と、そう言った。そして立ち上がり、今度は桜が私の手を取って、どこかへと歩き出す。後ろには楓も付いてきていた。
 広さや奥にキッチンがあることからしてダイニングらしい部屋に入ると、そこには一人の女性がいた。背筋をまっすぐ伸ばした美しい姿勢でテーブルについている。柔らかく微笑むその顔は楓たちによく似ていたが、二回りかそれ以上年齢が離れているのは明らかだったし、一人で中空に向かって笑顔を向け続けていることもあって、私にはその人がひどく不気味に感じられた。
「お母さん」
 桜がそう呼びかけると、その女性は表情を変えずにこちらを向いた。あらおかえり楓、とだけ答え、また何もない宙に目線を戻し、にこにこと笑い続ける。そんな彼女に、私の陰から楓も「お母さん」と声をかけた。すると女性はまたしても同じように、おかえり楓、と言った。
 分かった? と桜が訊いてくる。何も答えられずにいた私に、そのあと楓と桜は自分達の事情を話してくれた。楓たちの中学卒業が間近に迫っていた頃、父は不倫をして家を出て行った。それから母は次第におかしくなっていき、ついには仕事を失ってしまった。間もなく落ち込んだ貧困がとどめとなって、母は完全に心を壊してしまい、楓と桜を同一人物だと思うようになった。自分には娘は一人しかいないと思い込んでしまった。それで、楓と桜が高校へ入学する際も、二人を入学させようという考えに母が至ることはなかった。いくら説得しても母は一人分の入学準備しか進めようとせず、結果として二人が辿り着いた解決法は「二人が同一人物を演じて一日ずつ交代で学校に行く」というものだったという。
 すべてを打ち明けると、楓と桜の二人は揃って私に今まで隠していたことを詫びた。私はただ呆気に取られながら、もはや愛慕なのかもよく分からない思いで二人の頭を撫でることくらいしかできなかった。

 それから私たちは三人でよく遊ぶようになった。一緒の時間を過ごしていくほどに、私には徐々に桜と楓の違いが見えてきた。桜は二人の中でも姉役を務めているだけはあり、頼りがいのあるお姉さんらしい気質を持っている。対する楓は桜と比べると常にどこかぼんやりとしていて、なんとなく超然としたところがあった。
 だが、二人の違いが私の中で少しずつ大きくなっていくにつれ、私は混乱していった。私の好きだった黒沢楓とは誰なのだろう? 桜と楓のどちらが、より私の憧れた人そのものなのか? 疑問は、二人と一緒にいる間は封じ込めるようにしていた。しかし、そんな風にしていたところで、いつしか最悪な形で漏れ出してしまうのは目に見えていたのだった。
 楓たちの秘密を知ってから半年ほど経った頃のことだった。その日も三人で遊ぶ予定だったが、待ち合わせ場所の駅前の喫茶店には、一人しか私を待っている相手はいなかった。その子は、私が店に入ってきたのを見つけると、ひらひらと手を振った。そして私が少し遅れてしまったことを謝れば、いーよいーよ、と間延びしているようにも思える声で返答した。それで私は目の前の相手のことを楓だと判断した。顔付きもそれらしく見えた。
「桜はちょっと用事ができたんだって」
「用事? へー。じゃあ、来ないの?」
「うん。……たぶん、来ないんじゃないかな、もう」
「もう?」
「……あ、もう今日は、ってこと」
「そっか」
 そんなやり取りをした次の休日、今度は楓が待ち合わせ場所に現れなかった。桜は「楓は急用ができた」と説明したが、私は流石に何かがおかしいと思った。その日、一日中桜のことを注意深く観察し、別れ際に思い切って私は訊いてみることにした。
「もしかして、楓なの?」
 途端に、桜の雰囲気はまるで別人のように変わった。長い間、二人で一人の人間を演じ続けてきていた彼女たちのことを侮ってはいけなかったのだと、私は強く後悔した。
「桜はいなくなっちゃった。それを今日は言いたくて」
 そう言ったのが楓であることは疑う余地がなかった。彼女が背負った夕焼け空はグラデーションと呼ぶにはあまりにも綺麗に紫と濃い赤に分かれていて、目に痛かった。

 楓の言葉通り、本当に桜はいなくなったのだった。高校卒業と同時に楓は自らの家庭のことを然るべき場所へ報告し、そのせいでどこかから聞きつけたらしいマスコミに一時騒がれたりもした。しかし、そんな最中でも、桜の消息は杳として知れなかった。
 私は今、楓と付き合っている。晴れて私は、大好きだった黒沢楓と恋人同士になった。長く艶やかな黒髪で、少し見上げる形でなければ目を合わせられないほどの背の高さで、いつも私と一緒に帰ってくれて(今や一緒に暮らしてさえいる!)、低めながら甘い響きを持つ声の、何もかもが大好きでたまらない黒沢楓と。
 それなのに、私は時々考えてしまう。もし私がもっとよく見ていれば。もっとたくさん話して、もっとたくさん触れ合っていたなら、と。
 だって、そうしていれば、まぐろフレークではなくツナ缶が、私たちの家の冷蔵庫には常備されるようになっていたのかもしれないのだから。
 ねじれた気持ちをかき消すようにして、小皿に盛られたまぐろフレークが見えなくなるくらいマヨネーズをかけ、ぐちゃぐちゃとかき混ぜる。そして口に運び、美味しいね、と楓に言う。すると満足そうに楓は笑うのだ。
 そんな毎日がもう何年も続いて、大学の卒業も近付いてきた折、私たちのもとに思わぬ来客があった。その人は長く艶やかな黒髪などではなく茶色のショートカットで、私はすぐには誰だか分らなかった。
 帰ってきてくれた。私のところに。私たちのところに。そう気づいたのは、低めながら甘い響きを持つ声で「あのね!」と盛大に第一声をひっくり返した時で、私は思いきり彼女を抱き締めた。

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