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短編小説『繭糸と梔子』

 天国に咲く花と言われているそうですよ。
 庭先に繁茂する梔子を一輪手折って匂いを嗅ぎながら彼女はそう言った。
「葬式の花とも言うそうで。嫁の口無し、ということで、貰い手が無くなるようで縁起が悪いらしいのです。けれど私の場合はどうなるのでしょう。あちらから来るのに、口無し、とは、これはむつかしいですわね」
 そうして、ふふ、と笑う。私はせっかく綺麗な花だと愛でていたのにそんなことを言われてあまりよい心持ちではない。しゃがみ込んで、狂い咲きのように咲きまくる白い花どもの中に顔を突っ込んだ。さすがの香木。甘い香は高く広がり、私は酩酊しかかる意識で彼女に返事をする。
「婿殿がおいでなさる時にめいっぱい飾ってさしあげれば良い。家中、どこにいても目に入るように。せっかくこれだけたくさん生えているのだから」
「ふふふ、それがいいかもしれません。言外に意思を汲み取っていただけたら、そんなに楽なことってありませんもの」
「そうそう! 壬生雪枝に夫など不要! ということを、婿殿だけじゃない、せっかくだからその場で両家のご家族全員にもご覧じていただこうよ」
 雪枝は花を顔から離すと、そっと地面へ置いた。私はしゃがむ彼女に肩を寄せる。すると彼女も身体をもたせかけてきた。互いの体重を互いに支え合う。この完璧な均衡を、崩されてなどなるものか。私は決意も新たに、しばし鼻息を荒くさせた。雪枝はそんな私が滑稽に見えたようで、おかしい、おかしい、と腹を抱えて笑った。
 雪枝に縁談が来たのは春も初めのことだった。養蚕で知られる名家の壬生家も、近頃はあまり思わしくない状況らしく、はやく良いところの坊っちゃんを貰わないといけないと、とても焦っていたらしい。かつての武家の姫君でもあるまいし、まだ十四の子供である雪枝にそんなことをさせるのはあまりにもひどい。私が断乎として反抗する姿勢を示すと、受け入れかかっていた彼女も出来得る限りつっぱねる向きに意見を変えた。
 今までは彼女の懸命な拒絶のおかげで直接会うことは避けられていた。しかしそれにも限界が来て、いよいよ、雪枝は縁談の相手と顔を合わせなければならなくなったそうだ。部外者はけして立ち入ることの許されない秘密の会合ーー。なればこそ、私が立ち入らなければ何が友であろうか。場所も日時も分かっているのだ、私は当日、本人にすら黙って厳粛な雰囲気の中へ闖入した。
「やあやあ御両人! なんとも初心な可愛らしいお見合い、けっこうけっこう! ですが私は今から雪枝殿と約束がありますゆえ、これにてお開きと致しましょう!」
 白けきった座の人々が外をぼう、と見ていたまさにその時に垣を乗り越えて縁側へ現れた私に、彼等は野生の動物でも見るような目を一斉に向けた。失礼! と一声喚いて主役をかっさらっていく私を無理に止めようとする者はおらず、なんだかやけに品の良い謝罪の声が背中に聞こえたのだった。
 手を取り連れ出しこそしたがどんな顔をしているのか確認する勇気が湧かず、私が雪枝の様子を把握したのは邸から遠く離れた小径だった。もうそれ以上は走れないというところまで走って、息も絶え絶えになりながら私達は壁に手をついた。私の海老茶色の袴の裾は道中蹴り上げた砂のせいで薄茶に染まってしまっている。雪枝の瀟洒な花柄の着物も、同じように砂まみれだ。これは帰ったらお小言どころでは済まされまい。
「あっははは! イトさん、どういうおつもりなの? 私、これではもう帰ることも出来なくなってしまった」
「そうだね、私もきっとお母様に大目玉を食らってしまう。ねえ、雪枝、いっそ帰らないというのはどう?」
 私が言えば、彼女はいっそう声高く笑うのだった。それはいい、素晴らしい考えだと茶化すように言う。
「真剣に言っているのに」
「あら、そうでしたの? うーん、帰らない……どこか当てがありまして?」
「当て処ない放浪の旅」
「まあ……」
 どだい無理なこととふざけて言ってみたが、雪枝はその言葉に感化されたようだった。私の手を握る力を強め、向き直って切羽詰まったような眼差しになる。
「鎌倉」
「え?」
「鎌倉に行ってみたい」
「鎌倉……」
 海と寺しか無いのではないだろうか、そう思ったままに伝えると、雪枝は「海と寺があるから行きたいのです」と言う。さもありなん。おおよそ全ての人間が鎌倉に行く理由とはそれ以外に無いのであろう。しかし実を言えば私にはもう一つだけ鎌倉の持つ側面に心当たりがあった。海をすぐそこに臨む寒々しい施設。肺病みの患者達の咳がこんこんと響く白い建物。サナトリウム。お婆さまが亡くなったのがまさにそこだった。私を「おイトさん」と呼び、大人と同じように扱ってくれたただ一人の人。そんな過去もあり、雪枝に鎌倉という名前を出されて何か私は因縁めいたものを彼の地に感じていた。いや率直に言ってしまえば、とても悪い予感を覚えたのだ。しかし雪枝の期待に満ちた目に射られてはもうどうにもしようがない。私達は、一路、鎌倉へと向かうことにしたのだった。

 これが話に聞く江ノ島電鉄というものかと、誰にも許しを得られていない逃避行であるのも忘れーーだからこそ、だったろうかーー私達は一種異様な熱狂に囚われつつ、海を見渡す車内にいた。どこまでも続く水平線。清く穏やかな水面を見ていると、出発前に芽吹いた不吉な気分も溶けていくようだった。他の乗合はほとんどが背広を着てカンカン帽を被った紳士達で、袴と着物の女学生二人は見るからに浮いていた。エスの駆け落ちとでも思われてしまっているだろうか。まさしくその通りではあるけれど。
 駅に降り立てば、車内とは比較にならないほど鮮明に磯の香がした。夕暮の薄闇から現れる、一日海水浴を楽しんだのであろう人々と入れ違うようにして、私達は海へと急いだ。
 ただでさえ汚れてしまっているのにこのうえ更に砂まみれになるのは気が引けたが、砂浜には木製の通路があったので助かった。人もまばらな板の上を、雪枝と共に歩く。私にとって海と言えば、遠き日に訪問せりサナトリウムの窓から眺めた寂しい景色でしかなかった。だから今回見られたのがこんなにも美しく、解放的な気分になれる物だったのは嬉しい誤算である。暮れつつある陽に見惚れている間は、もうすぐ雪枝が人の物になってしまうことについてなど考えられなかった。しかし日が落ちきって暗くなってしまえば、生活力など微塵もないただの子供二人である、帰りたいという気持ちは増すばかりであった。帰る。それは、雪枝を誰とも知らぬ男に渡すのを認めるということを意味する。
「イトさん。どうなさるおつもり? 路銀は、あとはもう、帰るぶんくらいしか、私は持っていない」
「私も同じだよ。でも、二人合わせれば、何処かの宿で一泊くらいは出来るんじゃないのかな」
「あら、そうですか? 私はよく分からないけれど、イトさんがそう言うなら……。女学生二人で、泊まれるものなのかしら」 
「それは神のみぞ知るだね。というより……そうだ……女将のみぞ知る……」
「優しい女将さんを探しましょう」
 疲れた私の駄洒落に溜息を一つして、雪枝はずんずんと先を歩き始めた。いつも私の後ろについてばかりいる彼女にしては珍しい意気込んだ様子に面食らう私を、置いてけぼりにせんばかりの勢いで歩いていく。
「帰りの電車賃はどうするんですか」
「そういうのは、まあ、なんとかなるでしょう」
「なんとか、というのは」
「ほら、こういうとき、小説なんかじゃ、変わり者の親切な泊まり客が施しをくれるじゃない」
「あきれた。何も考えていない。こんなことなら、素直に茂さんにもらわれるんだった」
「冗談でもおよしなさい。……茂というの、あの男?」
「あの男、だなんて。うふふ、まるで浮気相手への嫉妬ですね」
「嫉妬くらいさせてほしい。私は雪枝のエスなんだから」
 そう、エス、だ。私は女で、彼女も女。エス、Sisterhoodである。私は逆立ちしたって、茂とかいう男のように、雪枝と縁付く立場にはなれない。
「そのエスという言い方。私はあまり好きでは無い。普通に恋人と言えばいいじゃないですか」
「皮肉だよ。こういう世の中であること、誰も認めてくれないことへの、私なりのいじけ方なんだ。エス。馬鹿みたいじゃない。人間と人間の繋がりが、愛情が、たった一文字で表現されてしまう。だからわざと使ってるの」
「ただの流行り好きに思えます」
「あながち間違ってもないね……」
 ちょっと見ない間に宿屋町としての顔をはっきりとさせていた通りを歩く。今でも少し山の手の方へ行けばあの療養所はあるのだろうか。あれはもしかすると幼い私が見た夢なのかもしれない。そう思ってしまうくらい、辺りは繁華になっていた。
 あまり大きな宿は軍資金的にも可能性が低いと見て、出来るだけ小さな物を探し回った。そのうち、こう言っては失礼だろうが、私達にとって最適と思われる場所が見つかった。二階建ての小ぢんまりとした、旅籠、と呼んでも差し支えの無いような。
 中へ入れば腰を直角に曲げた老婆が聞き取りづらい声で出迎える。ますますお誂えだ。数十銭をそれぞれ支払い、亀の歩みの案内で通された部屋へ入った。案外にも内装は洒落ている。他の泊まり客からの施しは期待すべくも無いが、想定よりだいぶん安く済んだのでそんなドラマは起こらずとも帰れそうだ。嬉しさ半分、淋しさ半分。
「ほら、なんとかなった」
「これはなんとかなったうちに入ります?」
「ギリギリ」
「うふふ、まあ、面白いですわね。こんなにみじめなお部屋に泊まるのは初めてですもの」
「みじめと言うかい」
「みじめです。うら寂しくてみじめ。新鮮」
「……喜んでいるようなら良かったよ」
 あの老婆は想像よりも料理人だった。少しして運ばれてきた食事は、私が普段家で食べているものと遜色ない豪勢な物だった。
「月がきれい」
「私も愛しているよ」
「見て、星まで……これは拾い物でしたわね。良い露天」
「ロマンというものをさ、雪枝はあまり解さないね」
「失礼ですね。私だって意味くらい分かります」
「意味は知れども心は知らず」
「怒らせたいんですか?」
「……そうかもしれない。一度くらい、雪枝が本気で怒るところを見てみたい。せめて最後に、記念として」
 湯船に浸かりながらそう言った私に、彼女は返事をしてくれなかった。ちゃぷちゃぷと静かに波立つ湯の表面に目を落とすばかり。風呂は、露天と彼女は言うが、外へ張り出した狭い縁側に足付きの浴槽が置いてあるという珍奇な物だった。どういう訳か猫脚である。かつては西洋趣味の旦那様でもいたのだろうか。さらに驚くことには、自分で湯を溜めなければいけなかった。それも、あらぬ所についた蛇口に繋がれている緑のホースを浴槽に入れるというやり方で。客がいないのも肯ける。
 とはいえ、確かに満天の星空に煌々と輝く月。こんな物を見ながらのんびり湯に浸かっていられるとは、疲労困憊でふらふらうろついていた数時間前の私達に教えたらきっと嘘だと思うだろうほどには僥倖である。
「極楽、極楽」
 私よりただ二つ年若いだけなのに、私はとうに無くした張りを持っているように見えて仕方ない雪枝の裸身を見ながら言ってしまうと、彼女は破廉恥、と照れて笑うのだった。
「本当に極楽なら良いのに」
「雪枝は極楽じゃないの」
「快適」
「言葉遊びはやめて」
「極楽……」
 雪枝は遠い目をした。
「あまり良くないことを考えているね」
「うふふ……」
「あのね、雪枝、早まったことをしてはいけないよ。私達はまだ子供だ。きっと、ほんとうがどんなかあまりよく分かってないんだ」
「ほんとう? ほんとうって、何ですか」
「ほんとうのこと。世の中の、様々なほんとう。大人は、なにも教えてくれないじゃない。だから子供はこの世のことなんてちっとも分かりゃしない。大人になって、ありとあらゆることが分かるまで。雪枝、それまでは、だめだよ」
「あっはははは!」
 雪枝はのけ反って笑った。出来得る限り神妙な雰囲気を出しているつもりで話したのに、これだからこの子は分からない。そこが面白いのだが。
「早まって縁談をぶち壊しにした人が何を言うんだろ」
「それとこれとは違うでしょう」
「ええ? どれとどれ? ふふふふ、どれでもいいわ、ああ、おかしい」
 あまり高く笑いすぎるので、どこかから見られやしないかといまさら心配になり、私は彼女を急き立てるようにして部屋の中へ戻った。
「大人だって、きっとなんにも分かっていない」
 畳んだ布団の横に置かれていた絣の浴衣を着つつ、雪枝は言うのだった。
「大人になれば分かると言いますけれど、一体何が? 子供も大人も、おんなじです。あのみじめな女将もそう。あの人と私達、何が違いますか? ……茂さんだって」
「何を言い出すの」
「何かしら……ほんとう?」
 いじらしく、いや、いぢわるに、雪枝はこちらに目をくれる。
「その男と私が同じなら、私は堂々と君の家へ婿入りする。そうじゃないから、こんなことをした。そうしていつか、もっと違う方法で、君と共にいられる未来を得ようとしている」
「いやだ、いやだ。小説読みは口ばかり達者ですね」
「本気じゃないと思っている?」
 雪枝はテエブルに突っ伏す。良家の令嬢らしい古風な結綿にしていた髪も、今や自由になってしどけなく広がっている。水の面に浮いているような艶やかな絹のごときそれを私は見つめた。
「蚕は……」
 まさしく水中から届くような声で何か言った雪枝に聞き返せば、彼女は顔を上げる。
「蚕は一匹で繭を作ります。自らを閉じ込めるみたいに、真っ白く強い繭を、たったの一匹で。淋しく、孤独に」
 私は一言も聞き漏らすまいと総身に力を込めた。
「けれど時々、雌雄一対で作ってしまう者達がいる。そうして出来た繭は玉繭と呼ばれます。玉繭は、ふつうの繭とは比較にならないくらい弱い、細い糸の集まり。とても売り物にならない」
 底冷えするような落ち着いた声である。幼さがかき消え、深い覚悟ーーそれとも、怒りだろうかーーに満ちている。
「私は、イトさん、もう玉繭しか作れなくなってしまうのではないだろうか。貴女を知ってから今日まで紡いできたような強く確かな糸は、もはや二度と私には作れなくなる気がしている。それだけが、とてつもなく、おそろしい」
 泣き出してもおかしくはない吐露の間中、雪枝は、しかし冷静であった。言い切ってしまってから、意見を求めるように私を見る。すぐに茶の一杯でも淹れておくのだった。だんだんと湯冷めしていくわが身をもう一度温め直す術が欲しい。
「やはり、どこかへ行ってしまおうよ。それだけおそろしいことを、わざわざ君がしなければならない理由はない」
「家を継ぐ。理由なら、ありすぎるくらい」
「まだご両親はお若いでしょ。今からでも次男坊が生まれることだって……」
「夢ばかり見ないでください。そんなもの、それこそ、玉繭」
 雪枝は、この細い身体でずっと、精一杯の繭糸を織っていたのだ。翻って、私は何をしていた。口調や身振りだけ紳士を真似て、そのくせ彼女の言う通り軽薄な流行り好き。耳隠しの頭に、海老茶色の袴。そんな姿で彼女の繭へ入り込んでは、ろくな働きもせずに脆い糸を吐き出していた。玉繭。私は玉繭の中で満足する、役に立たない浮ついた蚕でしかなかったのだということに、はたと気が付いた。
 私は乱暴に布団を掴んだ。ぷん、と黴臭さがしたが勢いに任せて畳の上へ広げ、黙りこくったまま横臥する。一切を忘れて眠ろうとしても、黴と自己嫌悪はそれを許してはくれなかった。考えないようにと努めるほど、自分が貧相な繭に閉じこもる虫けらに思えてくるのである。雪枝がもぞもぞと隣へ床を敷くのが分かっても、何かを言おうとは思わなかった。それでも疲労は確実に溜まっていて、やがて私は不眠への苛立ちを感じながら眠るという器用な芸をしてみせたのだった。
 
 朝になれば塞いだ気分も少しは消え、また運ばれてきた素敵な料理に舌鼓を打つと、私たちは昨晩話したことなど何ということも無かったかのように元の間となった。あれだけ絶望的に思えたというのに、迷うことなく電車に乗り込むことまで出来てしまった。車内でも特別憂鬱にはならず、二人してよく笑った。
 その後、南野茂という青年が、すんなりと壬生家の一員になった。だが間も無く起きた大きな震災で彼は帰らぬ人となってしまった。私と雪枝はともに無事だったが、壬生家の邸、そして養蚕工場は瓦礫と化した。蚕はもうどこにもいない。玉繭もない。それでも、梔子の花は庭先で力強く咲き誇っていた。
「くちなし……こういうことでしたのね」
「笑える戯談だ」
 こんもりと小山のようになっている、腰掛けるにはちょうど良い邸の成れの果てへ二人で座り、花を眺めながらいつまでも話した。これがほんとう。全ては簡単に崩れ去る張りぼてに過ぎなかったのである。今にして思えば、やはり鎌倉は療養地だった。私と雪枝が共に蝕まれていた熱病のような恋慕の情は、あすこから帰るとすっかり消えてしまっていた。

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