30年前の私に教えてあげよう、30年後も居場所なんてないってことを。
この写真は、ケニアに住む友人が「こんな写真が出て来た!」と送ってくれたものだ。
私が長女をケニアのナイロビで出産して6か月後、ケニアを発つ前に、お別れパーティー(詳しくは「私のナイロビ物語」
20章クワヘリパーティを読んでもらえたら嬉しい)を開いてくれた時の写真だ。他の人もたくさん映っているが、掲載の了解を取るには、連絡も取れない方も多く、自分だけ切り取った。
ケニアを祝福と共に旅立ち、帰り着いた日本で、私たち(長女と長女の父と私)はまさかの露頭に迷う。東京ですぐにでも落ち着きたくて住む家を探すのだけれど、ぜんぜん見つからない。当時の家探しは、不動産屋をめぐって物件を紹介してもらうという方法で探したものだけれど、赤んぼ連れは大変過ぎるということで、私はとりあえず、実家に帰って待つことにした。なにしろ、家族はまだ生まれた赤んぼを見ていなかったし。
そんなわけで、今か今かと、お父ちゃん(ケニア時代からのニックネーム)からの連絡を待った。ところが待てど暮らせど連絡が来ない。仕事は、友人が紹介してくれて、すぐに働かせてもらっていたのだけれど、なにしろ、不動産屋のドアを開けた途端に「ありませんよ!!」と言われたことすらあったと言う。『お父ちゃん、どんだけ怪しいねん!』と突っ込みたくもなったけれど、やっと不動産屋の椅子に座って話を聞いてもらったとしても、「現住所は?」の質問に「いやその、アフリカから帰ったばかりで、住所がないんです。」と、話がつまずくことになる。
もう、私たち家族に貸してくれる家などないのだ!と諦めかけた頃に、「家が見つかった」と言う連絡が入る。もうその頃には、どんな劣悪な条件でも、住めるだけいいという気持ちになっていた。中央線の武蔵小金井駅から徒歩7分の3kの二軒長屋。効率よく賃料が入るアパートやマンション経営に大家さんが切り替える前の古いお家。東京にも、ギリギリそんな古い家が残っていた。残り物には福がある、そんな言葉を思い出すいいお家だった。そして、その古い家のご近所さんも、今もお付き合いさせてもらう友人になった。その家で、長男・次男と生まれた。
次の引っ越しは、私が離婚をして子ども3人(5歳・3歳・1歳)を連れて、シングルマザーとして住むお家を探した時。私は、まだ仕事がなく、不動産屋で、「仕事を決めてから来てください」と言われた。そこで職業安定所に行くと、「子どもたちの保育園が決まってから来てください」と言われ、保育園の申し込みに市役所に行くと「仕事が決まってからでないと申し込みできません」と言われた。
その間私は不動産屋の長いすで末っ子のおむつを替え、職安の長いすで子どもたちに持ってきたおにぎりを食べさせ、途中の郵便局の給水機で水を飲ませた。市役所の長いすで疲れて寝てしまった子どもたちを眺めながら、私は途方に暮れた。だけど、一軒だけ、家を紹介してくれる不動産屋があり、私たちは喜んで付いて行った。子どもたちも目を輝かせて喜んだ。古いお家だったけど、お風呂のタイルがレトロで素敵だねと話したりして。ところが翌日、私たちはお断りされることになる。理由は大家から「子どもが居ると何があるかわからないから、貸せない」と言われたということだった。
もうわけのわかっている5歳の長女が言った。「私たちが、いったい何をするって言うの?」私は「なぜだろうね?」としか答えられなかった。続けて長女は言った。「私たち、何もしないよ。失礼しちゃう!」
私たちは、東京での家探しを諦めて、沖縄の友人のところに行った。沖縄は大好きな場所だったし、きっと、東京みたいな世知辛いことは言わないんじゃないかと思った。確かに、貸してくれる大家さんは見つかった。子どもたちは「えっ!このお家かしてくれるの?」「もう、子どもはダメって言われないの?」と言ってとても喜んだ。そうやって子どもが走り回って喜んだ家は、作りかけの二階の鉄骨がむき出しの、手すりのない階段が危ないお家だった。住めればいいと思っていた私だけれど、子どもたちがケガをしそうな箇所が気になり、そして、そんなお家でも喜び走り回る子どもらが不憫で、『私ひとりの力では、もはやこれまでか?』と思ったのもその瞬間だった。
ちょうどその頃「お前はどげでん(どうでも)いいが、子どもらがむげねぇ(不憫だ)で、みちょられん(見ていられない)。」と私の父が、大分の実家近くに過疎対策で建てている住宅のことを教えてくれた。もはやこれまで、と思った私は、その勧めを受け入れて大分の過疎地での子育てをすることになる。その新築のお家を見た長男(3歳)が、玄関から動かなくなった。「今日は見に来ただけだから、入れるようになったら荷物を運んで住むんだよ」と言っても、「ボクはここに居るよ。」と座り込んでしまった。そうか、今日帰ってしまったら、明日になってまた、お断りされるかもしれないから、もうそうならないように、ずっとここに居ようと思ったのだと思うと、泣けてきた。ごめんね。もうそんな思いはさせないから、ここに、住むから、約束するから、そう言い聞かせて、やっと長男は動いてくれた。
大分の過疎の村に住むこと8年。子どもたちの高校の近い市街地に住むこと8年。その間の引っ越しは、私が介護の仕事をしていたので、家探しに苦労することはなかった。20倍の公営住宅の抽選に当たった時には、奇跡に感謝したものだった。そのお家から長女が旅立ち、長男が旅立ち、最後に残った私と末っ子。末っ子には障がいがあるので、旅立ちの準備にはもっと時間がかかる。障がいのある末っ子にも、健常児と同じ選択肢を与えたくて、高校卒業後に行ける学校を探した。その少ない選択肢の一つが三重県にあるということで、私も一緒に引っ越した。長女が三重県に転勤になるという奇跡が重なったからできたことだった。長女が借りてくれたお家に転がり込む母と弟という形で。
そこからの、県営住宅への転居。定職のある長女が同居していたから、私が仕事をしていなくても、問題なく申し込めたのだなあ。と今更ながらしみじみ思う。
三重県に越してきてからも、私は仕事をしてはいた。けれど、末っ子の支援計画が私の仕事に大いにかかわってくるのだ。例えば、末っ子が週に一度のショートステイに行っている間に、私がグループホームの夜勤勤務をするとかいった働き方だ。ところが、成人した末っ子のショートステイ先は少なく、今は不定期にたまに預かってもらえる程度。日中の支援も15時で終わるところがほとんどで、小学一年生に後戻りしたくらいに、私の自由は利かない。本物の小学生であれば学童保育があるけれど、成人した障がい者には、預かってくれるところが、まあ少ないのだ。
そんなこんなで、末っ子の支援を求めて東京に行くことにした。私の人生は、末っ子の福祉サービスにかかっているのだ。もちろん末っ子が安心して暮らせる環境を作ってやりたい。もう、ここでは私の身体がもたない。シングルで障がい者を支えていることに、疲れてはじめている。
なぜ、引っ越しで泣いてきた話を書いたかというと、今、まさに東京の家探しで壁にぶち当たっているからだ。今日も、一軒お断りをされて、どうすりゃいいの?状態だ。
でも、いいや、頑張る!30年前の私に応援されて、30年後の私は頑張るよ。今までだって、もはやこれまで!の先に、未来が開けてきたのだから。ここからが勝負!!捨てる神や、捨てる神や、捨てる神が100人くらい居れば、拾う神がひとりくらいいるもんだ。
さあ、もうすぐ末っ子が帰ってくる、パソコンを閉じて笑顔になって迎えてあげよう。小学一年生のママのような笑顔で!(無理だっちゅーの!笑)
追記:皆さんにご心配をおかけするような記事を書いたため、本当にたくさんの人に声をかけていただきました。本当に嬉しかったです。ありがとうございました。そして、この記事を書いたその夜に、私の前に立ちふさがっていた壁すべてを取り去る提案をもらいました。その華麗なる問題解決能力を持つ友人の話はいづれ書きます。とりいそぎ、私は人に傷つき、人に助けられ生きていますと伝えたくて。