ああ、フレディ!
「俺は、アリーナの最後列の人たち、入場できなかった人たち、シャイな人たちのために、常に歌ってつながっているんだ。批評家やいじめっ子たちを飛び越えられることを見せるんだ。俺にそれが出来れば、誰にだってやりたいことは出来るはず」(フレディの言葉)
フレディが生きた時代を知っているのに、フレディを誤解していた、もしくは、知っていたのに知らなかった、後悔の念に押しつぶされそうになりながら、今日もフレディです。
前回、1981年、私はイギリスのパンクバンド『ザ クラッシュ』の缶バッチを付けていたら、「勘違いすんじゃねー」とすれ違いざまに言われたエピソードを書きました。当時、日本にもパンク旋風が吹き荒れていました。かといって、私は『優等生もどき』という鎧を着ていましたから、心はパンクだと言わんとして拒絶されたといったところでしょうか?
いつの時代も、そんな言葉は飛び交っているので、今でいうことろの「ググれカス」みたいなことでしょうから、気にすることでもないですが、私は、あまり音楽を語れなくなりましたし、自信も持てなくなりました。
10代の私は、パンクムーブメントに、ワクワクしたひとりでした。パンクを「てめえで考えて、てめえでやれ!」ってことだと理解した私は、既成の価値観や、組織や、常識や、とにかく「ぶっ壊わす」んだと、思っていました。ぶっ壊わさなければ、なにも生まれてこないとでもいうように。
フレディの歌が耳に届いていたのに、心に届かなかったのは、私は心に厚い壁を築いていたからでした。わかってほしいのに「わかってたまるか?!」という駄々っ子のような心で、世界を見ていたのです。だから、『愛』などという言葉は大嫌いで「愛で世界が救えるなら、とっくに世界は救われているはずだ」などと、思っていたし、言ってもいたと思います。
そんな私は、1985年にインドへひとりで行き、インドで出会った連れと1990年にはアフリカへ行きました。連れは、パンクバンドを経て、音楽をやっていこうとしている人でした。そのころはレゲエが流行り始めていたころでした。私は彼に言いました。「音楽をやっていくのなら、アフリカに行くしかないんじゃない?」と。
アフリカのケニアでの出来事を「私のナイロビ物語 (1章~20章)」としてブログに書いているので、よかったら、読んいただけると嬉しいです。https://ameblo.jp/shiraiwa824/entry-11989337590.html?frm=theme
なんで「アフリカで出産?」と今でも聞かれますが、ふと思いだすと、これもひとつの理由だったことに気づきます。
私たちが、ナイロビで暮らした場所は、エチオピア大使館の近くでした。なので、ご近所さんは、エチオピアからの難民の方がたくさんいました。1974年のエチオピア革命で国を追われた人々でした。その憂いを帯びた目を、今でも思いだします。
同じ目をフレディもしているんです。
フレディはザンジバル革命でイギリスに逃れています。フレディの目は何を見たのでしょうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/ザンジバル革命
フレディを語る時、「その複雑な生い立ち」と、一言で言われることが多いですが、革命で国を追われた経験だけでも、想像を絶しているのに、パールシーを検索して、またびっくりします。複雑どころではないです。その壮大な歴史と、その微妙な立ち位置に、気が遠くなりそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/パールシー
だからだ!と私は思いました。フレディは誰も悪く言わないのだと。
私は、自分の立ち位置を、貧乏人とか、労働者とか、女性とか、シングルマザーとか、障がい当事者の家族とか、なんらか見つけて、社会の中に居場所を見つけてきました。しかも、必ず一方的に踏みつけられる者として。一方的に踏みつけられるということは、「その足をどかしてくれ!」と言えばいいだけで、とっても簡単な思考回路です。
私は、もっとも弱い立場が、もっとも安全な場所とでも思っていたようです。少なくとも、私は人を踏みつけにしては来なかったと思いたかった。でも、本当にそうでしょうか?私は人を踏みつけてはいないでしょうか?踏みつけていることすら、気づいていないだけではないでしょうか?
例えば、日本人というだけで、踏みつけている人が居るかもしれません。女性というだけで、女性でも男性でもない人を傷つけているかもしれません。結婚をすれば、結婚したくてもできない人を傷つけているかもしれません。どこまで、配慮してもしすぎることはないと思うのです。
フレディが出自を隠したことから、「白人崇拝」と批判した人もいました。性的マイノリティであることを隠したことも批判し、エイズを公表しなかったことも批判の対象になりました。けれど、フレディが公表することで、家族や友人や、同じ立場の人が傷つけられることは、容易にわかることです。自分のことより、そのことを気遣ったのではないでしょうか?
私は、たくさんのフレディのインタビュー動画を見て、この人は本当に優しい人だったのだろうなと、思いました。フレディが周りの人を守ったように、バンドメンバーや、友人がフレディを守り抜いたことも、特筆したいと思います。その心の広さと優しさが救いです。
フレディは何者でもなく、ひとりの人間として、言葉を発しているから、すべての人の心に響く言葉なのだとわかった気がします。しかも、その言葉はとても易しい(優しい)言葉です。英語がわからない私にも、その意味が届いてきます。きっと、世界中のもっとも弱い人を見捨てない歌なのです。
私はフレディが生きたこの世界を、もう少し好きになれそうです。
何がいいとか悪いとか、誰がいい人とか悪い人とか、物事は、そんなに単純じゃないけど、愛と、フレディの歌があれば、乗り越えていけるんじゃない?と今、思っています。
遅すぎたファンの私は、フレディ参加の最後のアルバム「INNURNDO(イヌュエンドゥ)」を手に入れました。
フレディがもう居ないという事実に痛む胸の、痛み止めです。
ひねくれものの私は、『あまり、フレディを神格化しない方がいいんじゃない?』と、忠告をしたがる自分もいますが、なにしろ、死の病の中にあって、苦しいと一言も言わなかったとか、神対応のいろいろや、あの優しい声とか、あの目とか、もう、すっかり、どっぷりファンです。
ああ、フレディ、生きてくれて、ありがとう!歌をありがとう!
私も、『何者でもない私』として、生きてゆこうと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
書くことで、喜ぶ人がいるのなら、書く人になりたかった。子どものころの夢でした。文章にサポートいただけると、励みになります。どうぞ、よろしくお願いします。