見出し画像

「なんもかんもねえ、取るもんも取らず逃げ回ってみじめなもんよ。どこの国の人であってもあんな思いはさせとうない。どこであっても戦争だけはだめじゃ!」

タイトルと写真は、1996年から2004年まで暮らした北部九州の山間部のお家の、隣のおじいさんの写真と語った言葉だ。

画像2

(この写真の後ろに見える栗の木林と、その奥の竹林でおじいさんはいつも山仕事をしていた。だから私たちの生活は手に取るようにわかるのだった)

過疎地対策で建設された町営住宅が建ったこの土地は、そのおじいさんがこの町で最後まで蚕を飼っていて桑畑があった場所だったという。その大事な土地を過疎対策になるのならと提供してくださって、私たちは暮らすことが出来たのだ。

『うちの太郎物語』の<保育園児偏>からがここでの暮らしのなで、そちらも読んでいただけると嬉しい。

山仕事をするおじいさんが、春になればたけのこや蕗を、初夏には梅や枇杷を、秋になれば栗や柿を、そして季節の野菜を持ってきてくれることが、ありがたく、その時にかけてくださる言葉が優しくて、シングルマザーの私が曲がりなりにも、3人の子どもを育ててこれたのは、このおじいさんのお陰だと思っている。縁もゆかりもなく、たまたま、この住宅に住むことになったというだけの私たちに、どれほど優しくしてくれただろう?

当初、私は33歳で6歳と4歳と2歳の子どもを連れて暮らし始めた。しかも2歳の子どもはいつまでも赤んぼのようだった。子どもたちは可愛かったけれど、私ひとりの力なんて知れていて、自分の許容範囲を超えた仕事量に時に感情が爆発することがあった。でも、爆発させる相手は子どもで、そんな時はきまって自分の不甲斐なさにひたすら落ち込むことになる。さぞ私の醜い声は山まで響いたことだろう、さぞ酷いお母さんだと思われていることだろう。と、自分で自分を責め、消えてなくなりたいと思ったものだ。

そんな時、翌日あたりにおじいさんは山で採れたものを持って現れた。落ち込みから立ち直れない私が消え入りそうに挨拶をすると、おじいさんはすべてをわかったような優しい顔で「いい、いい、お母さんもたまにゃ元気をださにゃ」と笑うのだった。『元気を出す』というのは方言で、感情的になることを言う。たとえば、「昨日○○さんが元気を出した。」などと言うのは、○○さんが怒ったときなどに使う。激怒するとか、喧嘩するとか、感情的になるとかいうことを『元気を出す』という言葉で表す。

おじいさんの「いい、いい」という言葉に、まるで頭をよしよしと撫でられているような気持ちになって、ふっと心が軽くなる。そしておじいさんは続ける。「あんたんとこん子どもな、みんないい子じゃ。それはあんたがいいからじゃ。あんたががんばちょるけん、子どもがいい子に育っちょるよ。(あなたの子どもはみんないい子だ。それはあなたがいいからだ。あなたががんばっているから、子どもがいい子に育っているのだよ。)」と言ってくれる。

そして、いつまでも赤んぼのような末っ子についても、「わしんとこも、子どもがよたり(四人)居ってな。よたり目はちーとかわっちょる。こどものみたり(三人)もよたりも居れば、ひとりくらい、ちーっとかわっちょる子も居るよ。あんたんとこの末っ子も、あんたが大事にしちょるけん、いい子に育っちょるよ。」と言うのだった。

どれほど私は慰められただろう。どれほど自分を肯定してもらっただろう。手探りの、自信もない孤独な子育てを、大きな愛で包んでくださったことを、私は忘れない。もしも今、子どもを感情的になって叱っているお母さんが居たら、私も「いい、いい、お母さんも元気出していい」と言おう。そして「あなたは頑張っているよ。あなたの子どもはいい子に育っているよ。」と伝えよう。

画像3

(当時77歳のおじいさんは、いつも働いて、そしていつも何かをくれた)

しばらくして、私は子どもたちの為に、民族音楽のコンサートを開いたり、環境問題の講演会をひらいたり、田舎にしては変わったことを初めた。私が子どもたちをいろんな所に連れて行って、いろんな体験をさせてあげられないかわりに、いろいろな人を呼んで、いろいろなことをすることにしたのだ。そんなチラシを持っておじいさんを訪ねると「いい、いい、なんでんしない。年取ったらつまらんでー。なんもでけんごとなる。今んうち、なんでんしちょきない(良い良い、なんでもしなさい。年を取ったらだめだよ。なにも出来なくなる。今のうちになんでもしておきなさい)。」とこれまた、励ましてくれた。そして、自治会の集まりなどに、私のチラシを持って行って皆の理解を求めてくださった。

いつもおじいさんに励まされていたから、私は反戦や反核の署名なども、持って行ったものだった。おじいさんは、私が説明をするまでもなく「あんたがすることやけん、なんでん協力するよ。」と言うのだった。そして、タイトルに書いた言葉を言ったのだ。「戦争ちゃなあ、なんもかんもねえ、取るもんも取らず逃げ回ってみじめなもんよ。どこの国の人であってもあんな思いはさせとうない。どこであっても戦争だけはだめじゃ」そう言うのだった。そして「もうわしは、つまらんごとなってしもうたけん、あんたががんばっておくれない。あんたが戦争んねえ世の中にしちょくれよ。(私はもう何も出来なくなってしまったから、あんたが頑張ってください。戦争がない世の中を作ってくださいよ)」と言った。

その言葉に励まされた私は署名集めのために、一軒一軒近所のおじいさんやおばあさんを訪ねた。それは図らずも戦争体験を聞き歩くことになった。あるおばあさんは言った。「戦争中小倉に住んじょったけん、そら怖かったよ。小倉に原爆が落とされたかもしれん。だからもう都会には住みたくないんよ。」あるおばあさんは言った。「私は父が殺されるのをこの目で見たんです。戦闘機が飛んできたのを、父は二階の窓から見上げたんです。私はその父を下から見上げていたんです。そしたら、その戦闘機は父の額に向けて鉄砲を撃ったんです。見事に命中して即死でした。まるでゲームでもしているように、父は殺されたんです。私の目の前で。」

私はバトンを渡された。

平和を願うバトンだ。どんな言葉にも騙されてはいけない。どんなきれいな言葉を並べられても、どんな正義を語られても、戦争だけはNO!と言おう。暴力はダメだと言おう。どんな国の人とだって、どんなに意見の違う人とだって、話し合いで解決しよう。殺し合うなんてどうかしてる。人殺しの武器を作ったり、人殺しの方法を考えたりする武器商人がいる。武器商人は頑張って武器を作って売っている。とてもまじめに働いている。けれど騙されてはいけない。戦争は武器商人が作るのだ。そのことで、誰がどんな目に合うのかを考えなければならない。

私は冒頭の言葉を、8月9日長崎に原爆が落とされた日にどうしても書きたかった。日本に落とされた二つ目の原爆は、戦争を早く終わらせるためなんかではなく、核兵器の実験の為に落とされたのだ。ウランとプルトニウムの実験だったのだ。そして、その実験は終わってなどいない。アメリカはその後1000回からの核実験を半世紀の間にしている。マーシャル諸島の水爆実験をマグロ漁で被曝した第五福竜丸の乗組員が世界に知らせたけれど、それだけではなかったことは、様々な人の努力で明らかになりつつある。どうか注目してほしい。

「あんたらだけでも忘れんちょいてや」に、今に続く放射線被曝について書いたので、ぜひ、そちらも読んでいただけると嬉しい。

ナガサキは終わっていない。

核兵器のない世界を作るのだ。

戦争のない世界を作るのだ。

私たちが。



書くことで、喜ぶ人がいるのなら、書く人になりたかった。子どものころの夢でした。文章にサポートいただけると、励みになります。どうぞ、よろしくお願いします。