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うちの太郎物語

<胎児編>


太郎が、私のお腹に宿ったことに気づいたのは、一か月もたたない時だった。
検査をしても、確定できないほどの時期だ。

きっかけは、私の帯状疱疹発症だ。
1歳になったばかりの、長女・花子が歩き始めたばかりの頃だった。東京の古い借家に住み、子らの父は、大道具(舞台やテレビ局のセットなど)の仕事をしていた。大道具の仕事は不定期で、夜、仕事をして、朝、帰ってくることも多かった。子どもが居ると、家で寝れないだろうと、日中、花子を連れてウロウロと遊ぶところを探し歩いたものだった。
1歳の子どもが歩くと言っても、それは、よちよち歩きで、ほとんど抱っこにおんぶで連れ歩く。そのうち、背中に、消えない痛みを感じるようになる。
病院に行って、帯状疱疹だとわかった。帯状疱疹は、大抵、耐え難い激痛を伴う病気だ。体が弱ってくると帯状疱疹ウィルスが、神経に沿って活動を開始し、体の左右どちらか一方の弱っている側に症状が出る。病気が進行すると神経に沿って赤い発疹が出る。

問題は治療だった。私には、妊娠の予感があって、治療に使う薬は、妊娠初期に使ってよいものかを、医師に訊いた。すると、妊娠初期の胎児に影響があるかもしれないという答えだった。なので、妊娠の有無を確認してからしか、治療方針が立たないということで、妊娠初期の検査の出来る大きな病院の受診を勧められた。
歩いていける近所の医院ですら、小さな子どもを連れての受診は大変だというのに、大病院へは電車とバスを乗り継いで行かなければならない。しかも、背中の痛みはズキズキと増してゆく。痛み止めを飲むこともできず、とにかく、痛む身体に鞭打って、花子を連れて大病院に行った。大病院は、待ち時間も長い。なんとか、花子の機嫌を取りながら、診察を待つ。病人の溢れる病院内で、健気に待ってくれたかわいい姿を、今でも思い出すことが出来る。

やっと診察室に呼ばれ、「治療方針を立てるため、妊娠の有無を知りたい」と言うと、医師は「妊娠していたとしても、まだ、早すぎて、確定できない」と説明した。「で、痛いの?」と医師は言った。その言葉に私は「はい、とても」と答えた。と同時に、『だれが、痛くもないのに、わざわざ小さな子どもを連れて受診するものか?!』と小さな怒りを飲み込んだ。

結局、妊娠していても影響のない治療をすることにした。私の中では、妊娠が確実なものに感じられるようになっていた。痛みをこらえながら、そうまでして、検査を受けている行動自体が、妊婦の感のようではないか?

妊娠していることを前提とした治療は、気休めのようなものだった。内服薬を使えないため、目に出た発疹用の点眼薬を、皮膚に出来た発疹に塗った。外から、ウィルスの活動を少しでも押さえようということだった。痛み止めは、「少しであれば、影響は少ない」という説明だったけれど、「我慢します」と答えた。それは、眠れないほどの痛みだったけれど、なぜか、耐えることが出来るような気がした。

痛みがない今、その痛みを表現するのは、難しいけれど、神経の痛みというのは、眠て忘れることすら許されない眠れない痛みだ。イライラとするような、ジリジリとするような、そして、ズキズキするような痛みが左半身を這うように襲ってきた。

驚いたことに、自転車に、花子を乗せて走っている時に、ズキリとした左側の首の後ろの痛みに、振り向いたほどだ。振り向きたくて振り向くのではなく、痛みに首の筋が引っ張られるように振り向いてしまうのだ。意識して、まっすぐ前を向いているにもかかわらず、何度も振り向いたことを覚えている。

ちょうど、お正月に実家に帰省を予定していたので、実家で休ませてもらうことが出来、ゆっくり快復できたことは、幸いだった。

この痛みを、痛み止めなしで、耐え抜いたことは、のちの太郎の我慢強い性格に影響しているのかもしれない。

胎教が、子どもに与える影響について、医学的・科学的な証明はなにもないが、私の祖母や、母は、胎教が影響を与えることを、経験的に知っている。

その後の妊娠期間も、私は、ちいさな花子を抱えて、よく頑張ったと思う。私が我慢強かったのか?お腹の太郎が我慢強かったのかは、定かではないが。

そして、1994年8月12日の出産予定日の前日、実家の母が手伝いに九州から、上京してくれた。駅に母を迎えに行く道すがら、踏み出す一歩が重かったこと、お腹がずんと下がった気がしたこと、を覚えている。いよいよ、実家の母を迎えて、花子の着替えや、洗濯や台所の説明を一通り終え、やれやれ、と心底安堵したものだった。

その翌日、なんと、予定日きっかりに、陣痛が始まる。


<出産編>

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午前8時に陣痛は始まった。予定日きっかりだった。なんと律儀な子だろうと思った。
朝食の準備をしてくれた母が、「これから、きばらなならんき、しっかり食べちょきない(これから頑張らなければならないから、しっかり食べておきなさい)」と言うので、陣痛の合間に、朝ごはんをしっかり食べた。

花子を母に頼んで、子らの父に、病院まで、連れていってもらう。私たちは低所得世帯だったので、「入院助産制度」の申し込みをしていた。自治体が指定する病院で出産するのだ。産む場所を選り好みしている余裕はなかった。どこで産もうが、産むのは私だという気持ちだった。
しかし、妊娠中の「入院助産制度」の手続きの中で、ソーシャルワーカーさんとの面接があり、花子のことを、頭の先から、つま先まで、見られたことは、軽いショックだった。虐待はないか?栄養状態は?洗濯されたきれいな服を着ているか?値踏みするような視線を感じたのだ。おそらく、問題なしと判断されたのだろう、二度とそのソーシャルワーカーさんに会うこともなかったが。
27年前のことだから、今は、専門性の高い、やさしい従事者がいるはずなので、どうか、遠慮せずに、そんな制度があることを自治体に尋ねてみてほしい。専門性というのは、知識が人を優しくすることだと思う。貧しかったり、人の助けを必要としたりすると、時々、ちょっと、傷つくこともあるけれど、そんな人ばかりではないから。

と、話は長くなったが、準備は整った!さあ、出産だ!!

診察して、子宮口が数センチ開いたところで、分娩室に移動した。分娩室でベッドに寝かされ、分娩監視装置(ぶんべんかんしそうち=おなかにベルトを巻き、赤ちゃんの心拍数、胎動、子宮の収縮の具合をチェックする装置)をお腹に巻かれた。陣痛の様子が、グラフになって出てくるのだ。

私の隣のベッドには、もう一人妊婦さんが居た。助産師さんは一人だ。このひとりの助産師さんを、私たち妊婦二人が奪いあうことになる。お隣の妊婦さんが、「すいません、痛いんですけど」と言えば、助産師さんがやってきて、グラフを見る。「まだまだ、陣痛は弱いわね」と対応する。私が、「すいません、おトイレに行きたいんですけど」と言えば、ベルトを外してくれるという風に。

ケニアで花子を産んだ時には、私1人に6,7人の看護師さんに囲まれての出産だったので、この対応が、ひどく寂しい思いがした。お腹に巻いたベルトのせいで、身動きがとれない分、苦しさが、倍増するような気もしたし、バックに流れている呼吸法のテープの音が、無機質に響いて、なお孤独を感じた。ケニアでは、看護師さんが呼吸を合わせてくれたものだ。

そんなことを思いながらも、必死に、陣痛に耐える。隣の方は、なんども、痛みを訴えるけれど、分娩監視装置のグラフは、本人の訴えに反して、「まだまだ、陣痛は弱いですよ」と言われていた。本人よりも、機械を信じるのも、理不尽な思いもしながら、私の方は、とにかく、もう我慢できなくなるまで、我慢するしかないと、いきみを逃がしていた。

陣痛というのは、不思議はもので、終わったとたんに忘れてしまう。だから、陣痛が来る今日まで、この痛みを忘れていた。『しまった!!この痛みを忘れえていた~』と後悔すでに遅しで、懲りない自分に飽きれるのだったが、陣痛を忘れるからこそ、母たちは、また、子どもを宿すことが出来るとも言える。

不謹慎だが、陣痛は下痢に近いと私は思っている。10か月もの便秘の末、恐ろしいほどの痛みとともに、襲ってくる下痢。なのに、トイレに行けない。そんな苦しみを想像してほしい。陣痛のいきみも、逃がしても逃がしても、襲ってくる。そこで、力んでしまってはいけない。ギリギリまで、力まずに、逃がし続けるのだ。もう我慢できずに、力が入ってしまうと、あと、少しだ。

そこまで来て、やっと分娩台に移動する。ふつうのベッドと違って、足を開いて固定し、子どもを取り出し安いようになっている。なんとも屈辱的な姿勢ではあるけれど、それどころではない。とにかく、産みたい。分娩台に乗せられたということは、いきんでいいということだ。いきみに任せて、力んでいいことが嬉しい。にしても、痛いことには、変わりない。あまりの痛みに目を閉じていたけれど、ふと、この痛みに向き合おうと、目を開けてみた。不思議なことに、自分の足が見えた時に、すっと、痛みが引いた気がした。やはり、目を背けてはいけないのだ。痛みに向き合うことで、痛みが和らぐのだ!!と思った。

しかし、これは、錯覚だったかもしれない、三人目の次郎を産んだときに、目を開けて臨んだが、痛みが和らぐことはなかったからだ。

なにはともあれ、目をしっかり開け、何度かいきむと、ぷるぷるの赤んぼが、ブルンと出ってきた。会陰切開をすることもなく、しっかり、自分の力で生まれ出てくれた。「男の子ですよ」と伝えられた。

ひとつだけ、その後に残る痛みがあったとすれば、この出産で、もともと持っていたかもしれない痔が、大悪化した。あまり想像したくはないだろうが、たらこ大の痔が、その後私を苦しめた。座ることはもちろん、寝ていてさえ痛いのだ。横向きに寝て、上側のお尻の肉を手でもちあげてさえ、ひりひりとした痛みがあったことを覚えている。

そんな私のおしりを見た看護師さんが、「痛いことばっかりね」と、慰めてくれた。

けれど、太郎が生まれた喜びが、すべてを帳消しにした。
私のところに生まれてくれて、ありがとう!

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<赤んぼ編>

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太郎は穏やかな赤んぼだった。
ニコニコ、いつも笑っていた。おむつが濡れてさえ、ニコニコと私を呼ぶ。近づいていくと、ますます喜ぶので、近づいてみると、おむつが濡れていた。おむつ交換をしてあげると、さらにきゃっきゃと喜んだ。

太郎が生まれた頃には、姉の花子は2才。なかなかに、難しいお年頃だ。赤ちゃんに、母親を取られたこともあり、目を引こうと、いろいろなこともする。
一方、生まれた太郎を誇らしげに、「これ太郎」と、道行く人に紹介したりもする。

2才の花子に振り回される中、太郎はいつもニコニコしていた。

花子と太郎を連れて公園に行くことを日課としていたので、公園友だちもでき、一緒に遊んだりもするようになった。そんな時、いつのまにか、寝ている太郎を見て、みな一様に驚いたものだった。

「え?太郎ちゃん寝てる。ちっとも愚図らすに、寝ちゃったんだね、いつもこんな感じ?」
と。
そう、そんな感じで、太郎はいつの間にか寝て、いつも間にか起きて、愚図ることもなかった。

実家の近所に子どもを褒めたことのない奥さんがいた。帰省した際、その奥さんが太郎を抱いて「かわいい、かわいい」と言った。あの奥さんが褒めたと言って、みなが驚き話したものだった。
親戚のおばちゃんも、太郎を抱っこしながら「時々、子どもを誘拐する人が居るけれど、つい、連れて帰りたくなる気持ちがわかるわね。本当に、かわいい。」と言ったものだ。

太郎は、かわいいだけでなく、とっても忍耐強い男の子だった。
まだ寝返りも打てない頃だ。太郎を部屋の隅に寝かせていると、一点を見つめて、ごろごろと、身体を左右にころがしている。何をしているのかわからないまま、大人しいので、ほっておいた。しばらくして様子を見てみて驚いた。部屋の中央ちかくに移動していたのだ。寝返りも打てないのに、少しずつ、ごろごろと、進んでいるようだった。

そして、1時間後、私は、反対側の部屋の隅で、ウルトラマンのおもちゃをくわえている太郎を見つけた。6畳の部屋を、ごろごろ、自分だけの力で、おもちゃのところまで、移動してきたのだった。その忍耐強さに、私は驚いてしまった。

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なんて子だろう。
目的を自分の力で達成することの出来る子だった。


<初めて立った瞬間編>


その日は、朝から、太郎は自主練をしていた(笑)。

私が布団を抜けて台所に立っていると、太郎も目を覚ましたらしかった。そして、ひとりで立つ練習をしているようだった。倒れても痛くないように、枕のそばで立とうとしては、枕に倒れこんでいた。何日か前から、立とうとしていたことは、知っていたので、今日あたり、立てるのではないか?という気がしていた。
覗くと、惜しいところまでいっているようなので、立つのも時間の問題と思って、太郎に邪魔にならないように、後ろからカメラを構えた。
太郎は、何度も倒れて、何度も起き上がった。七転び八起きそのもののような太郎は、頑張った。そして、ついに、立ったのだ。私が居るのは、気づいていたのだろう。

立った瞬間、「どうだ!」とばかり得意げな顔で、振り向いた。

私はシャッターチャンスを逃さなかった。

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太郎は、本当に、優しくて、ベビーカーに乗っていても、花子が乗ってくるのを、嫌がりもせず、いつも一緒に乗っていた。そしたら、それを見た人から、「あら、普通嫌がるのに、えらいわね」と言われて、私は初めて、普通は嫌がるのか?と気づいたのだ。
大人しくて、優しくて、本当に穏やかな子どもだった。

赤んぼだって、出来ないことがあると、イライラするし、赤んぼだからこそ、出来ないことだらけで、愚図るのに、太郎は、愚図って、甘えて泣いた記憶がない。
いつも、黙々と、出来るまでやっていた。初めて立ったときのように。

しかし、対人関係でみせる優しい甘い表情と裏腹に、太郎は、冒険家でもあった。まだハイハイをしている1歳の頃、坂があれば上り、穴があれば入り、水があれば、まっすぐ水に入っていった。
ある時は、ショッピングセンターで、気づいたら上の階にエスカレーターに乗って上がってしまっていて、本当に慌てた。一歩間違えば、手をはさんだりして、大変なことになっていたかもしれない。上の階に居た人も、驚いたことだろう、ハイハイして赤んぼが、エスカレーターで上がってきたのだから。慌てふためいて迎えにいった私を見て、太郎はにっこり笑った。
そんな太郎だったけれど、いつも花子も一緒だったから、迷子になったのは、一度だけ。海水浴場で、人が多くて見失った。その時も、泣きもせず、砂遊びに夢中になっていた。

高這いをする頃になると、抱っこされるよりも、自分でどこでも履いたがったから、駅の構内や、道でも這って移動することもあった。這っている太郎を目で追うと、そんなところを這っているのは、太郎と犬ぐらいだった。今思っても、雑踏の中を這っている赤んぼうなんて居ない。太郎は、なんて、ワイルドな赤んぼだったのだろう?!

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強くて優しい男の片鱗をみせながら、太郎は、立って歩き始めた。


<1才から2才編>

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第三子の妊娠に気づいたのは、いつだったろう?花子も太郎も母乳だったので、1才になるまでは、排卵がなかった。太郎の妊娠は一度戻った生理がまた止まったことから、妊娠がすぐにわかったが、今度は、生理を一度も見ていない。
それなのに、妊娠したかも?と思ったのは、断乳した太郎がおっぱいを触ることが、とてもイヤになったことからだった。
おっぱいと子宮は繋がっていて、おっぱいを触られると、子宮が収縮するのだ。産後、のびきった子宮が、おっぱいを吸われるたびに、ぐいぐい縮んでいくのは見事だ。子宮の収縮する痛みは、第一子より第二子、第二子より第三子と大きくなる。
そんな子宮とおっぱいの関係からか、おっぱいを触られると、なぜ、こんなにイヤなのだろうというような、イヤな気持ちがこみ上げてくる。
私の身体が、私だけのものでなくなったと感じて検査すると、やはり妊娠していた。

さあ、大変だ。妊娠・出産・育児は止まらないジェットコースターに乗せられるようなものだ。途中下車は出来ない。速度も、自分でコントロールできない。また、乗ってしまった。

日本では、もう、子どもは「作るか作らない」かという、自己責任の際たるものとなっている。
しかし、子どもというプレゼントを、運命として受け入れるということでしか、親になる資格も覚悟も生まれないではないか?と思う。最初から、親になる自信のある人などいるのだろうか?生まれてきた子どもに親にさせてもらうのではないだろうか?

「育てられもしないのに、親になるな!」という批判は、たびたび耳にし、親となったものを震え上がらせる。いつの間に、親だけに、子どもを育てる責任のすべてを押し付ける社会になったのだろう?

この私が、3人の子どもを育てられるのだろうか?
「貧乏人の子だくさん」そんな言葉も頭をよぎる。
とにかく、これからつわりも始まることだから、協力してもらわなくては、と思い、子らの父・当時の連れ合いに妊娠を告げる。
すると、なんと彼は、妊娠を聞いて落ち込んだのだった。

今なら、若い彼が不安だったことを、理解できる。
でも、若かった私は、「親が喜ばなくて、誰が喜ぶのだ」と激怒した。もう私のお腹には、子どもが宿っていたから。もういい、もう話すこともない。何もしないでいい。せめて、足を引っ張るなと、言ってしまっていた。

頼りは幼い花子と太郎だけだった。
花子も太郎も、「赤ちゃんが生まれるのよ。もう、お腹に居るよ。」と言うと目を輝かせて喜んだ。「これから、お腹が大きくなって、お母さんも大変になるけど、お手伝いしてくれる?」と聞くと、二人とも「はーい」と大きな返事をしてくれた。この子たちのためなら、頑張れると思った。

ここから、私は、社会にも、連れ合いすらにも心を閉ざし、自分ひとりで、二人の子どもと、お腹の命を守るのだ、とかたくなになってゆく。
知らず知らずのうちに、私は、自分で自分を追いつめてゆくことに、全く気付くこともなく、花子と太郎の笑顔だけを頼りに、次郎の誕生を待つことになる。

陣痛の来た朝、1才10か月の太郎に「太郎、今日、太郎はお兄ちゃんになるよ。よろしくね」と言ったら、「わかった」とはっきりした声で答えた。それまで、おしゃべりの上手な花子と対照的に、言葉が遅いと感じていた太郎の、そのきっぱりとした言葉と、顔つきに驚いた。

その日から、太郎はお兄ちゃんになった。


<かわいいおしり編>

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『母はまた 不憫不憫と 泣いている 笑顔を見ても 寝顔を見ても』

これは、私が書いた短歌のようなものだ。遊びにも行けない、誰とも話しも出来ない毎日から、なんとか抜け出そうと通信『うちの子新聞』というものを作り始めた。その通信に載せたものだ。

『こどもはね おとながおこると こどもはね こどもはなくしか ないんだよ』
という花子の言葉を短歌にしたものもある。この歌は、理不尽に私が怒り、泣きだす花子に「泣くな!」とまた理不尽に怒ったときに、花子が泣きながら言った言葉だ。

自分を責め、子どもを責め、泥沼のような毎日。
私が熱を出して寝込むこともあった。そんな時、花子が太郎にご飯を食べさせてくれた。洗濯物はたまり、子どもたちは汚れ、部屋は散乱し、私は、幽霊のように、次郎におっぱいを飲ませた。そんなことがあるたびに、私の中の箍(たが)が外れて行った。

汚れていてもいい、何を食べてもいい、生きていればいい。

ある時は、歯が痛くてたまらず苦しんでいると、花子が絵本を読んでくれた。
字の読めない花子が絵本をひろげ、読んでいるふりをする。
『あるところに、お母ちゃんがいました。
お母ちゃんはさびしかったので、子どもがほしいと思いました。
すると、花子が生まれました。
かわいくてしかたなかったので、
太郎ちゃんが生まれました。
かわいくてしかたなかったので
次郎ちゃんが生まれました。
お母ちゃんは、さびしくなくなりました。』

花子が初めて作った物語だ。
こんな花子にどれだけ、慰められただろう。

そして、もうひとつ、私を癒してくれたのは、太郎のかわいいおしりだった。
次郎を寝かしつけて、やれやれと腰を下ろすと、太郎が私の膝に座りにくるのだ。
『ああ、次郎が寝るまで、待っていてくれたんだ』と、その時初めて気が付く。太郎が絵本を持って、私の膝に座りに来ることが、とても嬉しかった。今でも、太郎の小さなおしりの丸みと感触を覚えている。

こんな状態になっていても、子らの父を頼らなかったのは、なぜだろう?
離婚を経験した人はわかるかもしれない。『死んでも頼るものか!!』という気持ち。
そんな気持ちになるまでの、葛藤。
『子どものために、我慢することはできないのか?』と自分を責める。
『彼は彼なりに、子どもを愛してくれているではないか?』と心が揺れる。

しかし、こうまでなってしまったのは、今にして思えばだが理由がある。かつて子らの父が家事や育児に手をかしてくれていた頃、ありがたい反面、私の尊厳は失われていった。

次郎が生後一か月で、病院で生死の境をさまよっている頃、私の精神もさまよっていた。目の前に花子と太郎が居ても、なにも手につかなかった。私の目は何も見ていなかったし、私の耳は何も聞いていなかった。私の心を言葉にすれば、ただ『次郎、次郎、次郎、次郎………次郎』と、つぶやいていた。

そんな役立たずの私にかわり、子らの父は、頑張ってくれた。ご飯を作ってくれたし、子らと遊んでくれた。私は呆然と、私なしでまわる家族を眺めていた。本来なら、私は、この時、子らの父と協力して、子どもたちの両親になれたチャンスだったかもしれない。なのに、私の心は揺れ続けた。手を貸してくれればくれるほど、『お前が御大層に、大変だ大変だと言っていることなんて、誰にでも出来ることではないか。俺にでも出来ることだったではないか?』と言われているような気持ちになり落ち込んでしまうのだった。そして、素直に感謝できない自分をまた責めるのだ。

もし、家事や育児に手を貸しているにも関わらず、パートナーが不満を持っているとすれば、こう言ってみてほしい。「やってみてわかったけれど、とてもあなたのようには出来ない。あなたの仕事に感謝している」と。
お互い様といえば、そうなのだけれど、母親の3人に1人が産後鬱になると言われている今、どうか、お母さんをいたわって欲しい。

そして、泣いてばかりの私の毎日も続いてゆく。
当時、少しばかりの内職をしていたのだけれど、内職を持ってきてくれていた友だちが、「友だちの友だちが、母子心中したって。友だちがお葬式に行ったらね、こんな悲しいお葬式はなかったって言ってた。」と話す。他人事ではない。
もしも私が母児心中をしたら?と想像してみる。

そして、私たちのお葬式を想像してみる。

子らの父が「どうしてだ?」と泣くだろう。

そしたら、私は「あんたの所為だ!」と化けて出てやろう。

そう思ったら笑えた。

私は、もう少し、大丈夫かもしれない。

亡くなったお母さんには、大変だったねと言う言葉しかない。子どもたちには、救ってあげられなくてごめんね。と伝えたい。もう、そんなことのない世の中になるように、がんばるからね。あなたたちの死を無駄にしないからね。と心で誓う。


<2才から3才>


よく、「子供なんて、放っときゃ、育つ」という人がいる。そんなことを言う育児経験のない人が、福祉や、教育、そして、行政の重要なポストに就いていると、絶望的な気持ちになる。どこから説明すればいいのだろう。

人間の子どもは、なにも出来ない状態で生まれてくる。育つのに、たくさんの手が要る。放っとけば、死ぬ。死なないように、必死になって、子どもを守っている人がいるから、子どもは育つことが出来るのだ。なにしろ、危険も多すぎる。一歩外に出れば、車にひかれるような環境、目を離せば、落ちそうな駅のホーム。なにかあれば、母親だけを責める雰囲気。というようなことを言えば、「じゃ、産まなければいい」という言葉が帰ってきそうな社会で、親たちは、必死に子どもを育てている。

次郎が退院してきてからの毎日は、休みなく私が動いていなければならない日々だった。5分だけでいいから、休みたいと思っていたことを思いだす。

たとえば、こんな感じの毎日だ。
朝、目が覚めると、子どもたちが起きる前に、洗濯にとりかかる。布おむつだったから、まず、大量の布おむつを手で洗い、洗濯機を回す。おむつの洗濯には二層式の洗濯機が便利だったけれど、手間取った。花子の夜用のおむつも含め、最高で3人分のおむつの洗濯が待っていたから、起きるのすら、おっくうだったのを思い出す。

そのうち子どもたちが起きてくる。起きてきた順に、トイレ介助、おむつ交換、着替えを手伝い、顔を洗うのも手伝う。それで朝出た洗濯物をまた洗濯。布団を揚げ、洗濯の間に朝食を用意して、食事介助、授乳、授乳の合間に、子どもの食べ残しなどを、自分の口に放り込む。子どもたちが、機嫌よくしていれば、食事の後始末をして、洗濯物を干す。

子どもたちが、機嫌のいいうちに、おにぎりとお茶を準備して、公園に出かけられたら理想なのだけど、次郎は、ふにゃふにゃとよく力なく泣いたので、公園に行くのも、難しかった。気づけば、太郎が、家の前の少しだけある庭で、泥んこになっている。

実は、次郎を妊娠した時に、妊娠中は保育に欠けるという理由で、保育園の申し込みが出来ることを知り、花子と太郎の保育園の申し込みをした。当時1歳児の太郎は待機児童となり、3才児の花子だけ入園が許可された。入園準備をして、入園したものの、花子を保育園まで連れていくことが、大変だった。
花子は保育園にすぐ馴染み、保育士さんにもとてもお世話になって、感謝しているけれど、なにしろ、次郎をベビーカーに乗せ、太郎と花子を連れ、時間に間に合うように連れて行くことが出来ないのだ。欠席の連絡を三日に一度はしていたような気がする。連れて行けても、保育園に吸込まれていく花子を見ながら「たろうも、いきたかったなぁ~」と言う太郎を連れて帰る道は、途方にくれた。太郎と次郎とどうやって過ごそう。

花子が居てくれれば、太郎の遊び相手になってくれるし、私の手伝いもしてくれた。感のいい花子は、呼べば飛んできて、リモコンのように、頼んだことをしてくれた。花子にも手助けが必要だったけれど、花子が居ることで、様々なことが、上手く回っているようだった。

たとえば、私が花子のトイレ介助をすれば、花子が太郎のパンツを片付けてくれ、太郎が、次郎のおむつをバケツに入れに行くというように。また、花子のトイレトレーニングの記憶はあるけれど、太郎には、その記憶がない。花子がトイレに行く様子を見て、ひとりでいつの間にか出来るようになっていたからだ。和式のトイレにしゃがんでおしっこをしている太郎を初めてみたときには、びっくりした。太郎は花子が育てているようだった。

初めての保育園の運動会は、悲惨だった。花子に「お弁当はなにがいい?」と聞くと、「栗ごはんがいい」というので、朝4時に起きて栗ごはんのお弁当を作った。初めての運動会なので、靴を新調してあげたら、喜んで「花子、かわいいって言われるかな?」と言いながら、保育園に着く。運動会を太郎が大人しく見ているはずもなく、園庭で遊ぶ太郎を横目で見ながら、次郎を抱っこして、花子の出番を目で追った。休みがちで振付など覚えていないのに、踊りが一拍遅れながらも、踊れていたことにびっくりしたり、「はなちゃん、はなちゃん」と、段どりのわからない花子を気遣ってくれる保育士さんに感謝したりの一日だった。

悲惨だったのは、昼食だった。園庭にシートを敷いてお弁当を広げる。ひとりで食べられない太郎に食べさせている間はよかったものの、次郎が泣き出し(食事時は、赤んぼも、一緒に食べたいのだ)授乳をするために、花子に太郎の世話を頼む。花子は、自分もちゃんと食べていないのに、太郎の世話まで任され、大変だ。そのうち、太郎の手が砂を触る。「花子、太郎のお手て拭いてあげて」と、花子が太郎の手を拭く。でも、また、太郎は砂をさわる。一歳児なのだから、しかたない。狭いシートの中に納まっていなさいと言うのが無理なのだ。そのうちに、お弁当に砂がかかってしまう。「あ、あ、、、」

「花子、もう行っていい?」
「あ、うん、いいよ。がんばってね」。
お昼の時間は残っているけれど、花子は、先生のところに行ってしまった。お昼ごはんすら、満足に食べさせてあげられなかった。ふと隣を見ると、花子と年頃も背格好もよく似た女の子が、両親と、両祖父母に囲まれて、笑っていた。子ども一人におとな6人の手がかかっている。私はひとりで、三人をとても手が回らず、十分見てあげることも出来ていない。砂にまみれたお弁当が悲惨だった。

なにはともあれ、毎日、なんとかしなければならない。
買い物をして、子どもを連れて荷物を持って、やれやれと休む暇なく、ごはんの準備。ご飯を食べさせたら、お風呂の準備。

お風呂がまた、大変だ。花子、太郎の順に服を脱がせ湯船に入れる。次郎を入れるために、私も裸になって、次郎を脱がして、一緒に入る。首の座らない次郎(6ヶ月まで首が座らなかった)を抱っこして、湯船につかる。温まったら、まず次郎から、洗う。その間、太郎は花子と浴槽で遊ぶ。次郎を洗い終わったら、浴室の隅に寝かせ、太郎、花子の順に洗う。二人を洗っている間に、寝かせている次郎が冷えてしまうから、慌てて、次郎を抱っこして、浴槽に入って温ためる。温たまったら、まず、次郎をあげて冷えないように、しっかり拭いて、急いで服を着せて寝かせる。太郎、花子の順にあげてしっかり拭いて、パジャマを着せる。
その間、私は裸だ。いや、その前に、自分の身体を洗う暇はない。何日かに一回、髪をお湯で流すだけ。子どもが冷えてしまうから、服を着るのも、自分が最後だ。ゆっくりお風呂に入りたいというのも、当時の夢だった。

お風呂が終わったら、やっとお布団へ。絵本を楽しみにしている子どもたちに、絵本を読んで、一日が終わる。
いや、終わらない。子どもたちが寝たら、台所の片付けと、部屋の片づけをする。ここで、一緒に寝てしまっては、後が悲惨なことになるのだ。えいやっ!と起きて一仕事。やっと一日が終わる。

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長くなったが、母親の一日の仕事は書ききれない。
もし、疲れ果てている母親がいたら、伝えてほしい。「あなたは、誰にも真似できない、尊い仕事をしているのだ」と。そして、「手伝えることがあったら、言ってね」と。

私は、よく3人の子どもを育てた元気なお母さんだと言われる。シングルで3人の子どもを育てたことは事実だけど、いつも元気に頑張れたわけでもないし、子どもたちにとって、いい親だったとは思わない。「いつも元気なお母さんの~」と紹介されたりすると『いつも元気なわけないじゃん』と思いながらも、求められる元気なお母さんの顔をしてしまう。

でも、私は、心配になる。「あの人は、ひとりで、3人の子どもを育てて、しかも一人は障がいがあったのに、どうして、健康な子どもひとり育てられないのだ?」と家族に責められているお母さんはいないか?自分を責めているお母さんはいないか?と。
だから、書こうと思う。ひとりで3人の子どもを育てるということで、どんなに子どもに負担をかけてきたかということを。太郎をどれほど苦しめてきたかということを。


<2才10ヵ月編>


「大丈夫?」
「え、何が?」
「子どもたちのこと、ひとりで見れんの?」
「え?見れてない?」
雷に打たれたようだった。私は、私は、何をやっているのだ?

そう助言をくれたのは、私が信頼を寄せていた人だった。その一言に、私はびっくりしてしまった。その人自身も病気を抱えていたから、動かない身体で、じっと見る世界は、ガチャガチャせわしなく動きまわっている私から見える景色とは違って見えていたのだろう。

私には、考えつきもしなかった選択肢を突き付けられた。
「子どもの親は、あんた一人じゃないんだから、任せたら?」
「まさか?冗談じゃない!!」
そんなことが出来たら、苦労はしない。任せられない山ほどの理由がある。死んでも頼みたくない。いかに子らの父がダメな父親であるかを言い募る私に、その人は言った。
「あんたが言う、そのダメな男が、子どもたちの父親なんだよ。それでいいの?」
「男は弱いから、家族を失ったら、もっとダメになる。もっとダメになった男が、子どもたちの世界にひとりしか居ない父親でいいの?」

私は、子どもたちに母親にさせてもらった。もしかしたら、私が子らの父から、父親になる機会を奪っているのかもしれない。子らの大好きな『お父ちゃん』との間に立ちはだかっているのは、私かもしれない。どんな親も、子どもたちは大好きだ。邪魔しているのは、私?
外面がよく、見栄っ張りで、世間体ばかりを気にして、思い込みが激しくて、勝気で、優しい人のふりはするが、実際は、子どもを鬼のように怒ってばかりの私が、子どもの大好きな父親から、子どもたちを遠ざけている?

怒りを杖に、憎しみをバネに、立っていた足元が崩れてゆく。
悪いのは私?

気づけば、太郎の髪はぼうぼうになっている。次郎は、使うようになった紙おむつで、おしりが真っ赤に腫れ上がっている。花子は、私の顔色を伺って、「お父ちゃんなんて、嫌い」と言うようになっている。

私は、私なら、そして、ほとんどの母親なら絶対に思いつかない選択をした。

4才10ヵ月の花子と2才10ヵ月の太郎を子らの父に託した。
父は、生まれ育った大阪に、二人を連れて帰った。

その日、一番いい服を着せた太郎が、リュックを背負い父と手を繋ぎ、泣くこともなく、きょとんとした顔で、振り向きながら去っていった。
花子に「元気でね」というと、花子は「お母ちゃんもね」と言った。

とにかく、生きていればいい。

とにかく、次郎をしっかり育てないと。
1才の次郎は、やっとお座りが出来るようになったばかりだった。

しかし、子どもと離れる辛さは、想像を絶するものだった。

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<2才10ヵ月~3才8か月>

丸い月を見ても、太郎の顔が浮かび泣いていた。
大阪に子らの父が花子と太郎を連れていってからというもの、連れ戻したい衝動と戦っていた。電話をしては、子どもたちの心を落ち着かなくさせていた。花子が足にけがをした、と聞いた時には、たまらなく、迎えに行きたくなった。
でも、大阪には、手助けくれる祖父母も叔母も居る。私ひとりで、見きれないから、手助けしてもらっているのに、信じなくてどうする。

けがでよかった。痛い思いをさせた分、父は父親になっていく。運命を信じよう。
私の元で、無理心中への階段を上っていくような生活を、止めるための決断だったはずだ。

まだ、私が19才の時に、聞いた話がある。殺人で罪を問われている女性受刑者の多くは、子殺しだというのだ。子どもと一緒に死のうとして、子どもを殺した後に、自分は死にきれなくて、殺人者となるケースが多いと言う。
なんて、むごいことなのだろうと、このことは、記憶にとどめていた。

この記憶が、12年後の私を助けてくれることになる。その時私は、泣き止まない次郎を抱えたまま、ウロウロとさまよっていた。このまま目の前にある水に入ろうか?そう思った刹那だ。この子は、簡単に死ぬだろう。そして、私は、水の中で、もがき苦しみ、死にきれずに、助かるだろう。頭では死にたがっていても、手足は死ぬことに抗うだろう。それは、今よりも、もっとひどい地獄のような苦しみが待っていることを示していた。

一瞬の気の迷いから抜け出れば、なんでそんなことを思ったのだ?と冷静に、そんなことをして、悲しむ家族や、人生を狂わされてしまう子どもたちの未来のことも考えられる。
しかし、『魔がさす』ということは、あるのだ。

19才の時に聞いた話の信ぴょう性を確かめようと、総務省の統計を見てみる。殺人事件は昭和27,8年の3000件をピークに減り、平成23年には1051件。人口比も減っている。受刑者の男女比はおおよそ8:2、被害者の親族率はおおよそ50%、犯行動機で注目したのは、「介護疲れ5.7%」「子育ての悩み3.2%」「生活困窮2.8%」だ。この3項目をあわせると11.7%だ。

私は数字に強くないが、単純に計算して、平成23年に起きた殺人事件1051件中、11.7%の122件は、少なくとも社会が救わなくてはならなかった事件ではないだろうか?なにかしらの助けがあれば、122人の命が助けられ、122人の殺人犯を産まなくてもよかったのではないか?

幸い、私は殺人犯にならずにすみ、なんとか、次郎の育児に専念した。

にしてもだ。太郎の幼い顔が、瞼の裏に張り付いて、泣いてばかりいた。

母親が子どもを育てるものだと、思いこんでいた私も含め、私の周りの人々も、苦しめてしまったことを、謝りたい。理解不能な私の行動に、翻弄された私の両親にも、本当にすまないことをしたと思っている。

そんな中、ガーナ人の友人が、「家族みんなで子どもを育てるのは、当たり前のことよ」と言ってくれた。出稼ぎのネパール人の女性が、「私も子どもを田舎に置いているよ」と言ってくれた。

その言葉を頼りに、子どもたちが幸せに暮らせるように、頑張ろう!!と思った。
そう、まずは自分が元気にならないと!お母さんが幸せでないと、子どもたちも幸せになれない。
もう一度言う!子どもたちの幸せを願うなら、お母さんの幸せが大事だということを。もっと言うなら、大人が幸せでない社会で、子どもが幸せになれるわけがないということを。

当時、頭痛なんてあたりまえ、腰痛、歯痛、神経痛、いつもどこかが痛んでいた。なのに不思議な理由で、この痛みは、消えていった。それは、人を恨まなくなったことだった。

人に傷つけられた経験は、簡単に消えるものではなくて、恨みは、簡単に手離すことの出来ない感情だ。人になにを言われても、『あなたになにがわかる?』と受け付けることもない。恨みを持たない人が、幸せそうで、おめでたい人間に映る。
だから、人の痛みや辛さや、その結果持ってしまっている恨みに対して、誰も救う方法がわからない。

私を癒してくれたのは、ただ黙って聞いてくれる人が居たことだった。

私は口を開けば、ためこんだ愚痴を言い続けた。その人は、言っても言っても出てくる愚痴を聞きながら、そんなに、「元ツレの話ばかりするのは、今でも好きなんじゃない?」と笑った。「そんなはずはない!」と、どんなに憎んでいるかを、しゃべり続けた。
ある日、ふと、あれ?もう言うことが思いつかないと気づく。吐き出してしまったのだ。私は初めて清々しい気持ちで空を見上げた。

気づけば、私の身体も痛まなくなっていた。どうやら、私は自分の恨みで、自分の身体を痛めていたらしかった。

もう私の心の中に何も不満がない。その日から、私がどんなに、思い出そうとしても、子らの父への不満を思い出せない。思い出すとすれば、私がどんなにたくさん荷物を持っていても、子らの父は気づかなかったことや、「3000円貸して!使わないから」とお金を持って出て、予想通りお金が戻ってこなかった、ことくらいか。そんな話を、笑って話せるようになった。

そんな中で、ちっとも大きくならないように思えた次郎は、地道に、次郎なりに成長していた。1才半で、お座りがしっかり出来るようになり、ハイハイもするようになってきた。

元気を取り戻した私と、大きくなった次郎は、太郎と花子に会いに行くことにした。最初はとりあえず1年をめどにしようと思っていたけれど、もう、待っていられなかった。太郎に会いたい!花子に会いたい!なにも考えず、とにかく、会いたい。

二人と離れて8か月が経っていた。


<3才8か月~4才>

花子19997・3月

突然に尋ねた私と次郎を、嬉しそうな顔が迎えてくれる。子らの父が、嬉しそうに迎えてくれたことに驚く。恨み言のひとつも言われる覚悟で連絡もせず寄った私と次郎を、どうぞと、4畳半二間、風呂なしアパートに案内してくれた。花子は、私の伸びた髪を見て、「おかあちゃん、髪、ぎょーさんのびたなぁ」という。さすが、環境への適応が早い。太郎は、ただただニコニコしている。ああ、やっと会えた。

「なにもないけど、ごはん食べていかへん?玄米ご飯炊くし」と子らの父が誘ってくれる。「ヘ~、玄米ご飯炊いてるんだ。すごいね」という私に、太郎がニコニコ、「ボンカレーもあるよ」という。父が「あ、太郎、それは、まあ、そんなこともあるわな」とみんなで笑う。ああ、よかった。みんな元気だった。

この日は、ちょっと顔を見に寄っただけだったので、ちゃんと、大阪の祖父母に挨拶してからという思いがあり、顔だけ見て帰った。太郎は「お母ちゃん、また、来てね」と言った。

私は、離れている間、自分を責めるあまり、子どもたちも、こんな母親を嫌いになるのではないか?と不安に思っていた。しかし、親と離れて育った人が、「子どもはね、ただ、ただ、待ってるんだよ。なにも考えずに、ただ、親が来てくれるのを、待ってるんだよ」と教えてくれた。だから、その言葉を信じて、会いに行けた。そう教えてもらえなければ、会いに行きたくても、行ってはいけないのではないか?と思い悩んだだろう。

その後、日を改めて、子らの祖父母のお家に、あいさつに行った。さすがに、敷居が高かった。どう思っているだろう?さぞ、大変で、私に対する不満がたまっているだろう。私が、玄関から、中に入ることが出来ずにいると、太郎が「よいしょよいしょ」と、手をひっぱって、中に引きいれてしまった。何を話したかは、記憶にない。私が戸惑っていたのと同じように、子らの祖父母も戸惑っていた。

そして、花子と太郎を引き取りたいと言い出し、また困惑させてしまった。子らの祖父は、太郎だけでも、大阪に置いていってほしいと思っているらしかった。私は、兄弟を一緒にしてあげたいと言った。目の前に、嬉しそうに太郎をハイハイして追いかけている次郎が居た。花子も「次郎ちゃんと暮らしたい」と言った。子らの父が、「おじいちゃんはさびしがるやろうけど、それで、子どもたちがいいなら」と言った。その話を聞いていた太郎が、「お父ちゃん、負けたね」と言った。意味が分からず言った言葉かと聞き流したけれど、そのずっと後のことだが、お父ちゃんに出すハガキを、太郎がポストに入れるときにも「おつかれさま」と言ったので、わかっていたのだろうと思う。

父と別れて、子ども3人と私、また、この4人で暮らしてゆくことになった夜、私は太郎に言った。「お母ちゃん、太郎に会えなくて、さびしかったよ」と。
すると太郎は「太郎もお母ちゃんに会えなくて、さびしかったよ。次郎ちゃんに取られたと思った。」と言った。
「え?取られた?って何を?」と私が聞き返すと、
「お母ちゃんを次郎ちゃんに取られたと思ったよ」と言った。

「取ったんじゃないんだよ。病気だったからね。次郎ちゃん元気になったから、もう、どこにも行かないよ」
「ほんと?」
「うん、もうどこにも行かないよ。もう、絶対離さないよ。太郎が離れたいって言うまで」
「太郎も離れないよ」
その夜はぴったりくっついて寝た。幸せだった。

そもそも私の両親は、私の生活が安定もしていないのに、子どもたちを迎えに行くことに反対だった。しかし、安定してからなんて、待っていられなかったのだ。第一、私の生活が安定したことなど、今まで一度もなかった。安定するまで待っていたら、迎えに行けなくなってしまいそうだった。

とにかく、子どもたちとの生活を初めてから、安定をさせようと思った。しかし、不動産屋には「仕事を見つけてから来てください」と言われ、職業安定所に行けば、「子どもたちを保育園に預けてから来てください」と言われ、保育園に行けば「仕事が見つかってからしか申し込みできません」と言われた。

「仕事が決まっていなくても、いいですよ~」と不動産屋に言われ、見に行ったお家を、後から断られることもあった。
「また、断られちゃったね~」と私が言うと、
「なんで?」と賢い花子が聞く。
「子どもがいるからって言われたよ。」と私。
「え、なんで子どもが居ちゃダメなの?」と花子。
「子どもがいると、なにがあるかわからないからって」と私。
「花子たち、なにもしないよ。子どもが、なにをすると思ってるんだろう?」と言った。

幸い、「居てもいいよ」という友人が居たから、子どもたちと一緒に居ることが出来た。この後におよんで、私は海の見える小学校に花子を通わせたいと思い、沖縄まで行って、家を探したり、職安に行ったりしていた。
沖縄では、東京のような冷たい仕打ちではなく、貸してくれる大家さんにも出会うことが出来た。しかし、子どもたちが、「えっ!貸してくれるの?」と大喜びしたお家は、手すりのない階段、危険な物干し場のある、とても古い家だった。そんなお家でも、やっと自分たちのお家が出来ると喜んでいる子どもたちを見て、不憫だった。子どもたちにそんな思いをさせていることに、気づけば、自分の限界が見えてきて、『もはやこれまでか?』と思った。
そんな時、私の父が、「いいかげん、帰って来んか?」と言った。「お前はどげなってん(どうなっても)いい。ただ、子どもたちがむげねぇ(かわいそう)」と言う。ちょうど、九州の実家の隣の村に、過疎対策の住宅が建つという。小学校の子どもが減っているから、3人連れて帰れば、喜ばれるだろう。と言うことだった。

子どもたちに相談すると、「いいと思うよ~」と花子が言う。「きっとおじいちゃんも、おばあちゃんも、助けてくれると思うよ」そう言った。太郎も「うんうん」と言った。
私は、子どもたちが大きくなって、なにか困ったら私を頼って欲しいと思う。親も私が困った時には、頼って欲しいと思っているだろう。私にとって、その『困った時』というのは、『今』じゃないか?初めて生まれ育った九州に帰ろうと思った。

子どもたちとの放浪の日々が終わる。
子どもたちが、お風呂に入っているときに、蚊に刺されている様子を「蚊の餌食になってる」と私が言えば、「蚊のひじき?」と聞き返したこと。
私が「睡眠不足だ」と言えば、「スイミング不足?」と言ったこと。
太郎が「ボクは親分だゾ」と言うと、花子が「えらい小さな親分やな?」と言い、太郎が「そう、小鳥の親分」と言ったこと。
太郎が次郎の足をひっぱるから、叱ったら、太郎は床を這ってくる虫から、次郎を守ろうとしていたこと。
太郎がしたことで謝るように言って、太郎は「ごめんなさい」が言えなくて、そのあとに、ケロッピの「ごめんさい」スタンプを見つけ、太郎が口にたくさん「ごめんなさい」のスタンプを押していたこと。
太郎の歯に虫歯があって、そのことを教えてあげると「太郎の歯、虫さんが食べちゃったの?」と鏡を覗きこんだこと。
歯医者に連れて行くと、「こんなニコニコ診察台に上る子どもは初めて見た」と言われるほど、笑顔で歯医者に通ったこと。

そんな思い出を連れて、帰ろう、九州へ!


<保育園児編>

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「これじゃ、なにも見えないよ」
新しいお家で迎えた最初の夜に、太郎が言った。
街灯もなく、住宅の御近所さんも入居前で、うちの家族の明かりだけが灯っていた。
寝ようと、照明を消してしまうと、本当に真っ暗になった。

子どもたちに、本当の夜の暗さや、静けさや、鳥の声、川のせせらぎや、空の青さを教えてあげられる。憧れていた、自然豊かな子育てを、始められる。
花子6歳、太郎4才、次郎2才の夏だった。

近所の人は親切で、歩けば、畑で作った野菜や、果物をもらった。私は、子どもたちには、安全なものを食べさせようと、出来るだけ無農薬のものを取り寄せていた。台所に食品添加物の一覧表を貼って、成分表を読みながら説明したりした。しかし、いただきものについては、ただありがたくいただいていた。
しかし、ある日、太郎がリンゴを貰い、なんと「無農薬?」と聞いた。私は慌てて「あははは、よかったね~あはは、うちの子どもはみんなリンゴ大好きです。」と太郎の言葉を遮った。
太郎は、まっすぐに人の話を聞く、子どもだった。
白雪姫のお話を聞いた時も、白雪姫がリンゴをかじって倒れるシーンで「皮をむけばよかったね」と言った。残留農薬に白雪姫はやられたと思ったらしかった。

保育園に花子と一緒に入園し、園児12,3人が敬老会のプレゼントを100人分作ることにびっくりしたり、お遊戯会に力が入りすぎて、もっと、遊ばせてくれたらいいのに、と思うこともあった。お遊戯会を経験すれば、見に来て下さった高齢者の方たちが、子どもたちの名前を憶え、声をかけてくれるようになり感動した。花子と太郎と次郎はすぐに名前を憶えてもらい、とても可愛がられた。

花子は、次の春に小学生になり、5才の頃は太郎一人が保育園に通っていた。

私は次郎をベビーカーに乗せ、太郎の手を引いて保育園に行くようになる。田舎の道は、めったに車が通らないだけに、太郎には車に気を付けるように、口を酸っぱくして注意していた。「車にひかれたら、死んじゃうんだよ。」と。
ある日、いつも通る道を、おばちゃんが箒で掃いていた。道の真ん中まで出てそうじしているおばちゃんに、太郎が「車に気をつけてね!」と言った。「なんてやさしいの」とおばちゃんは感激した。

その頃だったか、太郎は夕方になると泣くようになった。それも、オイオイとそれは悲しそうに泣く。
太郎がオイオイ泣きながら「お母さんも死ぬの?」と聞く。
「え?」
「お母さんも、子どもを産んだから死ぬの?」と言う。
ああ、思い当たることがある。保育園に送っていく道すがら、虫の死骸が落ちていた。それを見た太郎が、「車にひかれたの?」と聞いた。私は「車にひかれたんじゃないよ。夏の虫はね、夏の間に子どもを産んで、秋には死んじゃうんだよ」と説明した。その時は、「ふーん」と聞いていた太郎が、ふと、『子どもを産んだ虫が死ぬように、子どもを産んだお母さんも死ぬのか?』と考え初めて、泣きだしたようだった。
私は太郎に言った。「お母さんは虫じゃないから、子どもを産んだからって死なないよ。人間はもっと長生きだよ。太郎が大きくなって、お母さんがおばあちゃんになってからかな?」
そういうと、安心したらしく、泣き止んだ。

ところが、次の日も、夕方、太郎が泣くのだった。
「お母さんは、おばあちゃんになったら死ぬの?」
「あ、あ~そうだね~おばちゃんって言っても、100才くらいかな?太郎が結婚して、太郎の子どもが生まれて、太郎の子どもも大きくなって、100才くらいまで、生きたいな」
その話を聞いた太郎は泣き止んだ。

私は子どもであっても、嘘はつきたくないと思っていた。子どもだからこそ、ちゃんと、本当のことを話してあげたい。そう思っていたから、簡単に適当な嘘で答えることが出来なかった。

また、次の日も夕方、太郎はオイオイ泣いていた。
「お母さんは100才になったら死ぬの?」
私は、腹を決めて言った。
「お母さんは死なないよ。太郎が泣くから、お母さんは絶対死なないって約束する」
それを聞いて太郎は喜んだ。お母さんは死なないと聞いて安心してくれた。よかった。
その日から、泣かなくなった。

この約束には、条件が付いている。『太郎が泣く限り』という条件だ。
だから、太郎が泣かない大人になった時に、この約束は解消する。

太郎が年長さんになった年に、次郎も保育園に入園した。太郎が居るうちに慣れさせてあげようと思ったからだ。次郎と太郎の登場は他の保育園児たちにも衝撃的だった。

男の子と言えば、すぐケンカになり、大きな子が小さな子を『アンパンチ』していたり、大きな子が正義のヒーローで、小さな子を怪獣に見立てて、追いかけていたりするものだ。そんな世界に、太郎と次郎は、異色のコンビとして登場する。
太郎は、「次郎ちゃんお着替えするよ~はーい、バンザイして~」と次郎の着替えを手伝っていたり、「次郎ちゃん、アーンして~」とおやつを食べさせてくれたりした。

また、保育園児といえば、思ったことをすぐに口にするので、出されたものを「まじ~(まずい)」などと言っていると、太郎は「そんなこと言ったら、作ってくれた人にわるいよ」と言ったりした。子どもは素直なもので、「あ、そんじゃ言わない」とすぐに改めた。

もうひとつ、太郎が5才の頃やっていたことがある。バレエだ。花子が始めたバレエに付いていくうち、待っているのがつまらないから、一緒にバレエを習っていたのだ。太郎は素質があったらしく、先生にとても可愛がられた。とても身体が柔らかかったのだ。
しかし、お金がかからないようにしてくれていたバレエ教室だったが、発表会には多少お金がかかった。衣装を一枚新調してくださいと言われ、一枚だけレオタードを買った。みんなお揃いのステージ衣装だ。女の子たちが、自分のは何色かな?ピンクだった!ブルーだった!と言っている時、花子は、真っ先にタグをひっくり返し、値段を見て振り向いて私に言った。「お母ちゃん、高いよ。どうしよう?」その真剣な顔を今でも思い出す。

その発表会を最後に、経済的な理由でバレエを続けることは出来なかったが、もし、太郎がバレエを続けていたらと想像すると、ちょっと惜しいことをしたのかもしれないと思う。が、もとより太郎はステージ衣装の「タイツがイヤ!」と言っていたので、やめるのは時間の問題だったのかもしれない。

なんでもやってみるもので、バレエ教室の経験が、のちに生かされることになる。


<小学校低学年編>

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「ネジリバナ じゅんばん じゅんばん 咲いている」

太郎が小学校1年生の時の俳句だ。全校生徒12人の小さな学校は、俳句に熱心で、入学と同時に俳句を作らされた。太郎のこの俳句を、当時の校長先生は絶賛した。ネジリバナ(ネジバナとも言う)は、らせん状に小さな花の咲く野草だ。校長先生は「言われて、よく見てみれば、ネジバナは順番に咲いている。そんなことに普段は気づかない。この歌は凄い!」と。
太郎は、いつもボーッとした子どもで、『太郎時間が流れている』と言われていた。なにを考えているかわからない太郎が、俳句を読むと、その世界は、とても豊かだった。

「仲直り こころの磁石 くっつくよ」
こんな作品もあった。

『つかみはOK!』の花子と対照的に、太郎は“つかみ”や、“飲み込み”のとても遅い子どもだった。なんでも器用にこなす花子と違い、なんでも、不器用に見えた。ところが、一度つかむと二度と離さない。融通も利かない。原則通りきちんとやる。たとえば、「食事の後は、食器を流しに置いておいてね」と頼むとする。なかなか覚えないけれど、覚えると、必ず食後は食器を流しに持っていった。それが、朝の忙しい時であろうと、「時間がないから、そのままでいいよ」と言われても、きちんと流しに運んでいった。

小さな小学校の同級生は、太郎を入れて4人。人と比べようのない人数でよかった。背が高いのか低いのか?足が速いのか遅いのか?勉強が出来るのか出来ないのか?絵が上手いのか下手なのか?人と比べることなく、小学校の低学年を過ごせたことは、幸せだったと思う。太郎は、ますますのびのび太郎時間を生きていた。

その頃の太郎は、学校で「天然」と呼ばれているらしかった。私がそのことを知ったのは、近所で遊んでいた上級生が、太郎に向かって「やっぱ、太郎は天然やな!」と言ったからだ。「やっぱ」と言われた時に、太郎が何をしていたのかを、私は知らないが、わが子が「天然」呼ばわりされたことに、私はムッとした。私が聞いていることは、二人とも気づいていなかった。

すると太郎が、「天然っちなん?(天然って何?)」と聞いた。私は心の中で『いいぞ、太郎、そうだそうだ、言い返せ!』と応援した。「天然」と言った上級生はそんなことも知らないのか?とあきれたような口ぶりで、「バカだよ、バ~カ」と、バカにしたように、言い捨てた。

私はまたも、心の中で『太郎、バカにされたんだよ!怒っていいんだよ~言い返しなさい!バカにするな!と怒りなさい!!』と叱咤激励していた。

その時、太郎は、ものすごく意外なことを言った。

「へー、桃のバカ水ってことなんだ~ふーーん」

私は、文字通り、ガックリしてしまった。これがコントなら、思いっきり転ぶところだ。何を言っているのだ太郎!

よく考えてみると、太郎はその当時、発売された商品「桃の天然水」のことを、不思議に思っていたのだろう。「桃」はわかる。「水」もわかる。でも「天然」ってなんだろう?と思っていたところに、「天然」だと言われ、意味を聞いたら、「バカ」という意味だとわかって、「桃の天然水」=「桃のバカ水」だとわかり、とても嬉しそうにしたのだった。

これぞ、天然ではないか?

そんな太郎は、誰ともケンカにならなかった。

太郎の疑問は果てしなく、この頃は『○○は生きているの?シリーズ』が続いていた。たとえば、「山は生きているの?」「川は生きているの?」「木は生きているの?」「星は生きているの?」と質問される。私は、その度に全力で答えていた。
ある日「楽器は?」と聞くので、「楽器は生きてないよ。楽器は、人間が作った物だからね。成長もしないし、死なないし」と私が答えると。「違うよ。楽器は生きてるよ。音楽の先生が言ってた」と言う。ああ、それもあるか~命の問題に私は直面していた(笑)

しかし、私の答えが正しいと思って聞いていたわけでなく、太郎は答えてくれそうな人が居れば、『生きているの?シリーズ』の質問をしていた。
ある日、隣のおじいさんが、栗の木の手入れに裏山に来ていた。裏山はおじいさんの山で、うちの子たちは、おじいさんの手入れの行き届いた山で遊んでいいと許可をもらっていた。そのおじいさんに太郎が聞く。「栗の木は生きているの?」「そうじゃよ、栗の木も生きておるよ」そう言いながら、枯れた木を片付ける。「枯れた木は死んだの?」「そうじゃ、死んだが、この木にも子どもがおるから、死んだあとも命は続いてゆくのじゃ。太郎さんがお母さんから生まれて、命が続いていくようにな」太郎は「ふーん」と聞いている。

ある日は、そのおじいさんが、マムシ(毒へび)を捕まえて見せに来てくれた。「これがマムシじゃ。頭が三角なのをよく見ておきなさい。これが居たら近づいたらダメじゃよ。マムシも人間が恐ろしいから、逃げてゆく。」そして、「昔は、栄養がなかったから、マムシも食べたもんじゃ」と言いながら、皮をはぎ始めた。まだ息のあるマムシの身体がくねる。それを見て太郎が「マムシ、まだ生きてる?」と聞く。「おお、まだ、息があるから生きておるな」そして、動かなくなった時、太郎が聞く。「死んだ?」「そうじゃな、死んだな。この命をいただくのじゃ。この身を干して、油で揚げて食べたら栄養になる。肝は、元気のない人に飲ませたらいい」そういって、皮を剝いだマムシをくださった。私たちは、マムシのから揚げを数日後に作って食べた。

太郎がイモリを捕って帰って「お母さん、餌やっといて」と頼まれることもあった。「え、イモリってなに食べんの?」調べてみると、カエルなど捕食する肉食だ。『代用として刺身などでよい。』などと書いてある。刺身など買って食べたこともないのに、イモリの所為でというか、お蔭で、刺身を買って子どもたちと、イモリと一緒に食べたことも、懐かしい。

小学校に入学して、間もなく、私の父、太郎のおじいちゃんが亡くなった。1年間の闘病の末の死だった。ちょうど、次郎が保育園に太郎と通園するようになった時に病気がわかり、私は病院に通うことが出来た。まるで神の計らいのように、私は、父の最後の時間を一緒に過ごすことが出来た。

子どもたちを病院に連れて行くことは、出来るだけ避けていたので、子どもたちの思いを届けるためにテープレコーダーに子どもたちの声を録音して、おじいちゃんに持っていったりした。
余談だが、そのテープの中に、なぜか、私が子どもたちを呼ぶ声が間違って入っていた。かねてから花子に「お母さんは、花子と太郎は呼び捨てだけど、次郎だけ“ちゃん”がついているよ」と言われていた。私は全く自覚がなく「そんなこと、あるはずない!みんな同じように呼んでるはず!」ときっぱり言っていた。ところがだ、そのテープに入っている私の声は出かける時に「花子!太郎!早くしなさい!!」と厳しい声で言い、そのあと驚いたことに声色まで変わって「次郎ちゃーん、お出かけするよ~」と言っていたのだ。げげっ!気持ち悪過ぎる!青天の霹靂とはこのことか?この証拠がなければ、私は、言われても信じないままだった。これも神の計らいか?自分のことは、これほどまで、自分ではわからないと気づく出来事だった。

子どもたちの大好きなおじいちゃんの最期が近づいていた。おじいちゃんに蛍を見てもらおうと、蛍を虫かごに捕まえて、病室に届けたりもした。おじいちゃんは、「蛍を久しぶりに見た」と喜んでくれた。おじいちゃんは学校の先生で、新卒で初めて務めた学校が、子どもたちが通った小学校だった。昭和30年の頃だ。その頃は車もなく、街灯もない道を自転車で通ったらしかった。仕事が遅くなると、真っ暗になる道を、蛍の季節は、道沿いの川が蛍でいっぱいで、蛍の光で照らされて帰ったものだ、と話してくれたことがある。そんな蛍には及ばないが、蛍が病室で飛んで、きれいだったと言った。その子どもたちが届けた蛍が、おじいちゃんが見た最後の蛍になった。

病状が急変して、息が苦しくなったとき、もう最後かもしれないと、子どもたちを迎えに行った。病院に向かう車の中で「おじいちゃん、もう、だめかもしれない。もう、会えなくなるかもしれない。おじいちゃんに最後に言う言葉を考えていてね」そう言って、おじいちゃんの前に連れていった。おじいちゃんはしっかり座っていたけれど、息が苦しく、もう、言葉を話すことが出来なかった。『おじいちゃんはもう、話せないから、お前たちが、何か言いなさい』というように、身振りする。
花子は涙でなにも言えない。言えるはずがない。お別れの言葉を言えば、本当にそうなりそうだし、何が言えるというのだ。
太郎が口を開いた「おじいちゃん、早く良くなってね」。
おじいちゃんは、『うんうん』とうなずいた。

おじいちゃんは、次の日の明け方、息を引き取った。座っていたのは、最後の力を振り絞って、みんなに最後のお別れをするためだった。

太郎が、どれほど悲しんでいるだろうと思っていると、学校で、同級生が、「僕のおばあちゃんのお葬式は、お棺におばあちゃんの大好きな花を、たくさん入れた。」と話してくれたらしかった。きっと、太郎のさびしい気持ちを思って話してくれたのだろう。

その話しをしてくれた後、太郎が言った。

「おじいちゃんのお棺には、僕が入らないとね。
おじいちゃんは、僕のこと、大好きだったから」


<小学校中学年編>

IMG蛍と太郎

「子どもらと 昔話しを 読んでいる 会いたい人に 会えない夜に」

私は、私の父・子らのおじいちゃんが亡くなって、悲しいとか、さびしいという気持ちを、子どもたちに話すようにしていた。そして思い出話しをした。「おじいちゃんって、こうだったよね」とか、「おじいちゃんなら、こうしたよね」とか。すると不思議なことに、さびしくなくなった。ああ、そうか!会いたい人に会えない時には、その人の話をすればいいんだ。新しい発見だった。

太郎が4年生の時、太郎たちの小学校が、隣の小学校に吸収合併される話が持ち上がった。この小さな素敵な学校がなくなる。春には見事な桜が咲き、給食は花見になった。運動会には、村中の人が来て、応援してくれた。冬の雪の日には、大きな雪の鎌倉を作った。お年寄りにわら縄作りを教わったり、干し柿が食べごろになった時に、さるに食べられたり。そんな子どもたちが大好きな小学校が無くなる話しを聞いた時に、太郎に聞いた。「太郎はどう思う?」すると「この学校が好きだから、無くならないでほしい」と答えた。

『よっしゃ!お母さんに任せとけ!』とばかり、説明会で、『小規模校の良さ』を訴えた。なにしろ、花子と太郎がこの学校を見て気に入ったから、ここに住んでいるのだ。しかし、廃校という結論ありきの説明会で、町長はじめ教育長に食ってかかるのは、私くらいのものだった。しかし、私のように食ってかからなくとも、保護者の多くは『ちょっと待って欲しい』それが叶わないのなら『せめて一年待ってほしい』という意見だった。一回目の説明会が終わったあと、決して公の場で意見を言わないおばちゃんたちに、「あんた、頑張んない(頑張りなさい)、言わな(言わないと)なんもしてくれんよ」と、こそっと応援されたりもした。

しかし、二度目の説明会の時、太郎は「お母さん、もういいよ」と言った。「え?いいの?」「うん、もういいよ」と言った。一回目の説明会で、隣の学校に行くのも、悪いことばかりじゃないと思ったのかもしれない。太郎たち4人は野球が大好きで、2対2に分かれて、毎日野球をしていたのだが、隣の学校に行けば、メンバーがそろうかもしれない。

実際、あっさり合併してみれば、子どもたちにとって、友だちが増えるという楽しいことが待っていた。火が消えたようになったのは、この地域だった。

なにはともあれ、うちの子たちは、かろうじて、この過疎の村の最期の子どものようにかわいがられた。筍堀りに連れて行ってもらったり、サンショウウオを見に山に入っていったり。

ちょうどこの頃の大手新聞紙には『酒鬼薔薇 殺人』の文字が第一面に黒抜きで届いた。毎日がお葬式のようだった。うちはテレビがなかったから静かなものだったけれど、この新聞の文字すらうるさく感じて、新聞を取ることも止めた。
『うちの子に限ってと思っていると大変なことになる。』『わが子だって、どうなるかわからない』と心配する空気があった。そんな不安が私の胸にもよぎる日もあった。
ある日、台風が来るというので、庭の片付けをしていたら、手伝ってくれていた太郎が、ヤモリを手の中に抱いて、うろうろしている。「どうしたの?」と聞くと「飛ばされちゃう。このヤモリどこに居たらいい?」と聞く。「ヤモリは大丈夫だよ。飛ばされたりしないよ。家の隙間とか、床下とか、何処へでも入って、台風なんてへっちゃらだよ」というと、安心したようだった。
私はなんの心配をしていたのだと思った。ヤモリを大事そうに抱いているこの子が、なにをどう間違ったら、人を殺める人間になると言うのだ。
だれが何を言おうと、太郎のその時の姿が、私を落ち着けてくれた。

環境や状況が人を追い込んで、思いもしない事件が起こるかもしれない。けれど、むやみやたらに、人間のすることを不気味がってもしかたない。

大切なのは、心地よさとか、しあわせとか、嬉しいとか、楽しいという気持ちをたくさん味あわせてあげることではないだろうか?人は環境に順応する。置かれている環境が、常に不快な環境であれば、不快を快感に変えることで、生きてゆくのではないか?痛みの中に生きてきた人間は、人の痛みすら、笑う人間になるのではないか?
人は壊れなければ、人を殺せない。と聞いたことがある。私もそう思う。

大人が出来ることは、子どもたちが、壊されないように守ることだけではないか?感情を殺され、意思を殺され、人間性を殺されているような状況こそ、見つけて改善しなければならないことではないだろうか?

ともあれ、私ひとりで子どもを守れるわけもなく、それどころが、理不尽に太郎を怒ってばかりの、親だったけれど、豊かな自然が太郎を育み、守ってくれた。

ある日のこと、暗くなって帰って来た太郎を、「もう帰って来なくていい。出て行け!」とまで言って怒ってしまったことがあった。大人はなにやら、溜め込んでいるものなのだ。勢い子どもにあたってしまう。
ちょっと遅くなったくらいで、なにもそこまで言うことはなかったと、薄々わかっているものの、引っ込みもつかず、暗くなった外に出て行った太郎が心配になってきた時だ。
太郎が「お母さん、蛍がきれいだよ。ほら!」と言いながら帰ってきた。太郎の手にとまっている蛍を見せてくれる。「あ、本当だね、きれいだね~」太郎の顔を見た安堵と、蛍の光の美しさに、心洗われた。
ああ、そうだった、毎年、蛍の季節には、日没後の1時間、蛍を見る散歩に出かけたものだったのに、今年は、蛍のことさえ、忘れていた。

数日たって、お友達のお母さんにお礼を言われた。
「私が仕事で遅くなった時、太郎ちゃん、うちの子と一緒に待っててくれたの。うちの子が『帰らないで』って引き留めたみたいなのよ。」と。

ああ、そうだったのか!お友達に引き留められたことを、言わなかったのだ。

そうだった。太郎は、とても友達にやさしかった。
いつも田んぼのあぜ道を、小さい子どもを引き連れて、アヒルの行進のように、先頭を歩いていたものだ。近所の子どもたちは、私の顔を見れば「太郎ちゃんは?」と尋ねた。
次郎がいじめられなかったのは、太郎のお蔭かもしれない。みんな太郎と遊びたがったし、太郎にはいつもセットのように次郎がくっ付いていた。太郎は、小さい子どもと遊ぶのが上手だった。小さい子のお母さんが「太郎ちゃん、いつも遊んでくれてありがとう」と言った。すると太郎は「遊んであげてるんじゃないよ。遊んでるんだよ」と言った。

テレビもなければ、当然ゲームもなかったのに、なぜか、太郎はゲームも得意だった。ゲームを持っている小さい友達が、「太郎ちゃん教えて」と持ってくると、「これはね、こうやるんだよ」などと、教えていた。流行りのカードゲームも、流行のアニメにも詳しかった。

太郎の頭には、アンテナが直接立っているようだった。


<小学校高学年編>

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「え?いいの?」
新しい体操服を見て、太郎は驚いた。
そして、「ありがとう」と言って受け取った。

吸収合併された隣の小学校に行くために、新しい体操服を買ってあげたときのことだ。体操服など、買ってもらって当たり前の、ありがたくもないものを、太郎は、「ありがとう」と言って受け取った。5年生のこの時まで、太郎は、体操服も、古着を着ていた。

その理由はこうだった。私が、学校のバザーで残った古着を引き受けたことをきっかけに、古着のリユース・リサイクルをしていたからだ。フリマで古着を100円で売って、その売上を送料にして、アフリカやネパールに衣類を送るということをしていた。しかも古着を貰って欲しいという人が後を絶たず、古着の山に埋もれるほどになっていた。
その後、燃料代をかけて送ることの無駄や、結果的に現地の産業の発達を阻害してしまうこと、衣類を貰うよりお金を貰うほうが役立つ(食糧や医療にも使える)こと、相手が誰であれ不用品を送ることにも疑問を感じ、衣類を送る支援はやめたのだけれど、そんなわけで、行場のない古着がわんさとあったのだ。

太郎は4年生まで、古着の中のどこの小学校のものとも分からない体操服を、嫌がりもせず着てくれていた。同級生4人中1人が違う体操服でもあまり目立たなかった。
それが、これからは、同級生が20人くらいになる。20人中1人が違うと、目立つだろうと思って買ってあげたのだった。

「100円あれば、アフリカの子ども10人に給食が出せる。」そんなことばかり聞かされていた所為か、太郎は、私に何も買って欲しいと言ったことがない。それなのに、私は、次郎には何かと買い与えていた。小さい頃次郎は、何を貰っても、買っても、『太郎と花子に持って帰る』と言って、3人で分けていた。それが習慣になり、次郎に「太郎と花子に分けるのよ」と言って買っていたのだ。私がいくら、3人に買ってあげているつもりでも、次郎ばかりに買っていたことに違いはない。

スクールバスで、隣の小学校に通うようになり、太郎が次郎を連れて行ってくれた。小学3年生になっても、次郎の足取りはおぼつかなく、注意が必要だった。家の窓から、その様子が見えたから、私はうるさく太郎に指示を出した。「次郎が後ろから歩くと、転んでもわからないから、見えるところを歩きなさい。バスを待つ間は手を繋いで、次郎が飛び出さないようにしなさい」『じゃ、自分でやれよ』と言いたくなるような指示を、太郎はよく聞いてくれた。
太郎は、家族で買い物に行くと、次郎と待っていてくれ、お風呂に行けば、一緒に入ってくれた。
太郎にとって、次郎の世話はどれほど大変だったろう?太郎の担任の先生に言われたことがある。「ほかのお友達が、休み時間に、自分のことだけ考えて遊んでいる時も、太郎君は、次郎君のことを気にしてるんですよ。太郎君を見ていると、かわいそうで、、、」そう言われても、私は『これ以上、どうしろと言うのだ?』という言葉を飲み込むだけだった。
太郎の友達のお母さんにも「太郎君に、もっと甘えさせてあげていいと思う」と言われたこともある。その時も私は『これ以上、どうしろと言うのだ?』と思うだけだった。出来るものなら、甘えさせてあげたい。

そんな心配と裏腹に、太郎はめきめき強くなっていた。小学校1年生の時に、「強くなりたい!」と言って始めた柔道は、お友達のお母さんから、「太郎ちゃんの試合は、涙なしには見れない」と言われるほどだった。どんな強い相手でも負けないのだ。投げられても投げられても起き上がり、押さえつけられても押さえつけられても、すり抜けてくるのだ。

ゆっくりじっくり考える性格は健在で、飛行機の電気は風力発電でまかなっていること、カニやエビの血が青いのは、酸素を運ぶ媒体に銅を使うからだ(青は酸化銅の色、赤は酸化鉄の色)と知ったのも、太郎のお蔭だった。
いつか魔法が使えるようになるんじゃないか?と思うほど、『ハリーポッター』を熟読し、机に向かって勉強している姿を見たこともないのに、国語のテストは成績がよかった。私は、「漢字だけは、練習しないと書けないよ」と注意したことがあるのだが、「意味を考えると、わかるよ」と言う。太郎が『漢字の成り立ち辞典』を愛読していたからだ。

私は、次郎にヘルパーさんが来てくれるようになったのを機に、ヘルパーの資格を取り、働き始めていた。パート待遇のフルタイムの仕事だった。介護の仕事は好きな仕事なのだけれど、法律で埋められない溝がある。介護労働の処遇のわるさに『やってられない』という空気もあった。パートなのだから、言われたことだけやっていればいいのに、つい、高齢者の悩みを耳にすると、余計なことをして職員から煙たがられた。

仕事を始めてしばらくして、学校も閉校した不便な田舎から、少し地理的に便利な私の実家に引っ越しをした。太郎たちの新しい学校のすぐそばだった。はたから見れば、自然な流れに見えた実家への引越しも、それはそれで、悩みも生まれる。実家の母も、生活の急変に、ついていけなかったのだろう。疲れて仕事から帰った私を捕まえて、子どもたちの心配ごとを言い募る。それは、価値観の違いもあり、私にしてみれば、ほっとけばいいと思うこともたくさんあった。細々としたことを気にしていられない。

仕事の悩みを家に持って帰らないと決めていても、悩みは消えるわけでなく、心に重くのしかかっている。そこに来て、子どもたちの、私にしてみれば、取るに足りない細々としたことを聞かされ、でも、世話になっているという思いで、文句も言えない。

この時、仕事から帰ったお父さん(お母さんでもだが)が、『ちょっと休ませてくれ。』と思う気持ちが初めてわかった。おばあちゃんが居てくれる安心感はあったが、子どもたちの活動は、もはやおばあちゃんのゆっくりとしたペースを乱すものだった。大人同士の価値観の違いや、世代間のペースの違いの板挟みになっていた。

すべてを飲み込んで、私は苦しかった。打たれ強い太郎に、文字通り、手をあげることもあった。それはその時始まったことでなく、ひとりで3人を見ている時からのことなのだが、太郎に対する暴力が止まらなかった。どうして、手をあげていたのか?全く理由が思い出せない。それは、太郎には怒られる理由がなかったからだ。
感がよく、私の出すマイナスオーラを察知して近づかない花子と違い、太郎はボーッと私の前に立っていた。そして、私の逆鱗に触れた。おっとりした性格に見られる私だが、精神的にも肉体的にも、いつもフル稼働、いや、オーバーワークをしている状態が続くと、理性では制御できない時があった。実際に叩かれる太郎もだが、その現場を見てきた花子もどれほど辛い思いをしていただろう。

暴力が止まった最後の時だけ、はっきり覚えている。その日は、太郎と次郎の寝ている2段ベッドを見に行くと、なぜか、次郎のベッドにすのこで、柵が出来ていた。太郎がほんの冗談で、次郎が出られないようにしただけのことだったのに、私は烈火のごとく怒った。「次郎はこの柵を自分で外せないのだ。火事にでもなったら、次郎は逃げられないではないか。なにを考えているのだ。」と。
私は、子どもたちの命を1人で守るのに必死すぎて、太郎の些細なこんな冗談すら許せなかった。「冗談のつもりだろうけど、冗談じゃない!火事も地震も、いつ来るかわからないのだ」一度ついた火は、野火のように燃え盛り、私は、太郎に手をあげていた。

なおも叩こうとする私に、太郎が言った。
「お母さん、もうやめて。もう叩かないで。」

私は、その声に我に返った。

「太郎、お母さんが悪かった。もう叩かない。約束する」

一瞬にして、火が消えた。
その後も、何度も手をあげそうになる瞬間は訪れた。
でも、その度に、太郎のこの言葉が脳裏をよぎり、あげた手を下すことが出来た。

私は、自分を制御できなくなった人の心理がわかる。
『だれか、止めて!』と、心で叫んでいるのだ。
幼児虐待のニュースを聞かない日のないこの頃だが、親を非難しても、子どもは救われないことを知ってほしい。

私は、ひとりで3人の子どもを立派に育てた母親ではなくて、虐待する母親のひとりだった。
だから、私をりっぱな母親だと褒めることを止めてほしい。私が褒められる度に、太郎の傷つけられた子ども時代が闇に葬られるからだ。
そして、誰のことも、りっぱな母親だと褒めることをやめようと提案したい。りっぱな母親が居るということは、りっぱでない母親が居るということだから。

子どもたちとの、きらきらした宝物のような思い出の影に、思い出したくもない悲惨な思い出がある。


太郎、ごめんね。

本当に、ごめんね。


<中学校編>

2007年お正月ツーショット

「わかってるよな、次郎」そう言って、太郎が次郎を見ると、次郎は目をそらした。
夕食の時に、テーブルの下で、次郎が足をブラブラさせて、太郎の足に当たっていた。太郎が「やめろ」と言う。次郎は止めない。太郎がまた「やめろ」と言う。次郎は止めなかった。それを見ていた私は、「次郎は、わかんないのよ。太郎が少し下がったら」と言った。

そしたら、太郎が次郎に言ったのだ。「わかってるよな。」と。目をそらしたところを見れば、次郎はわかっていたのだろう。そして、私が次郎の肩を持つこともわかっていたのだろう。なのに、なおも、私が「次郎は、わからないのよ」と言ったとき、もはやこれまで、と太郎は口を閉ざした。

それ以来、太郎は、ぱたりと次郎の世話を止めた。一緒に買い物に行って、次郎を見てくれることもなくなり、一緒に温泉に入って、男風呂に次郎を入れてくれることもなくなった。太郎が行動を伴にしなくなって、私は太郎が、どんなに力になってくれていたかを痛感した。

よく私は、私を冷静に見ている太郎の視線を感じたものだ。
たとえば、私が次郎を相手に、「あーこのハサミ使ってほしくなかったのに~」と言っていると、太郎が「その使って欲しくないハサミを次郎の手の届くところに置いたのは誰?」と言った。また、私が安請け合いで、仕事を頼まれ、愚痴を言いながらやっていると、「その仕事を受けたのは誰?」と言った。
ある時は、どこかの電話対応がマニュアル通りで、応用のなさに「腹が立つ」と怒っていると、「僕もそんな対応しかできないと思うよ」と言ったりした。

離れて暮らす父親のことも、「一緒に居た時、お母さんが赤ちゃんを抱え、ベビーカーを持って、荷物をたくさん持っていても、気づきもしないんだよ」と言うと、「“荷物を持って欲しい”って頼んだ?」と聞く。「え、頼まない」と答えると、「それじゃわからないよ。僕だって気づかないと思う」と言う。

私が、調子よく、「こんなこと出来たらいいよね~」と、適当な話をしていると、「そんなことでいいの?」と言った。「え、ダメ?」と聞くと、「ダメだと思うよ。出来なかった時どうするの?」と言う。「その時はごめんなさいって言うしかないけど」と私が言うと「謝ったらいいという考えがダメなんじゃない?」と言われたこともある。

私が介護の仕事を止めパソコンと簿記の職業訓練校に通い始めた時、簿記がまるでわからず、「簿記がぜんぜんわからなくて、授業がつらい」という話をしていると、太郎が「僕も数学がわからん」と言う。「え」と初めて、勉強がわからない太郎の気持を知った。

太郎は中学校に行くのが少しずつ辛くなっているようだった。それは勉強のこともあっただろうが、私が太郎に与えていた自転車の問題もあった。太郎が通学に使っていたマウンテンバイクは校則違反だったらしい。その明文化されていない校則を私は信じず、私のお古の自転車に乗っていることが校則違反のはずがない、と思っていた。親孝行と褒められこそすれ、お古の自転車をとがめられるなどと、思ってもみなかった。でも、太郎は、その皆と違う自転車がイヤでイヤでしょうがなかったらしい。

次第に、「休みたい」と漏らすようになったけれど、おばあちゃんは、孫が病気以外で休むことなど、思いもよらず、心配するだろう。おばあちゃんと暮らしている限り、ちょっと我慢してほしいと伝えた。

そんなこともあり、いずれ行くだろう高校もおばあちゃんの家の近くにないこともあり、市内の公営住宅を申し込んで、中3で引っ越すことが出来た。部活のあるうちは、新しい中学校に通った。野球部の練習は楽しいらしかった。なぜか、野球部でじゃれて相撲をとっていたら、相撲部の先生に誘われて相撲部を手伝うことになり、県体まで、行くことになった。
相撲部の先生に「太郎君の相撲を見てやってください。粘り強い相撲が素晴らしですよ。」と言われ、一度見に行ったことがある。相撲部はほとんどの生徒が大きい。その中で、痩せた太郎はひときわ目立った。童話の『ねずみの相撲』を思い出し、痩せた太郎を応援せずにはいられなかった。

そうして、いよいよ相撲部の県体も終わり、太郎には、学校に行く理由がなくなった。そもそも、学校を休むのは、引っ越してから、と約束していた私は、学校を休むことを咎めるつもりはなかった。しかし、日中部屋に閉じこもり、夕方以降に出かけることは、気を揉んだ。中学生の身では、日中は人の目があり、出かけられず、夕方以降出かけても、今度は、夜の11時を過ぎると、補導される。コンビニの店長さんに、「連れてかえってください」と頼まれたこともある。「私たちには、未成年が11時以降店に来たら通報する義務があるんです」と。

最初の頃こそ、「ご飯は?」とか「お風呂は?」と声をかけていた私だったが、太郎がうるさそうな顔をするので、「お母さん、うるさい?」と聞いてみた。「うん」という。「どんな時にうるさいと思ってる?」と聞くと「返事をしない時」と答える。「え」、ということは、ほとんど返事をしないから、いつも、うるさいと思っているということだ。

そして、「ほっといてほしい」と言った。
小さい頃から、私に甘えず、何も欲しいと言わず、送り迎えを頼まれたこともない。その太郎が生まれて初めて私に頼みごとをしたのだ。「ほっといて」と。
私は全力で“ほっとこう”と思った。ただ、この時、友人のアドバイスを聞いて実行したことがひとつだけある。“あいさつだけはする”、ということだった。返事がなくても、「おはよう」とか、「おやすみ」と言う。もし、あいさつもしなくなったら、自分の存在を家族がどうでもいいと思っていると感じ始めるからだ。

暗い顔をした息子が、部屋に籠っているのは、辛いものだ。しかし、本人が一番辛いのだ。見守るしかない。だが勢い、私がしたことが原因なのではないか?と自分を責める気持ちになる。「お母さんが、悪かったのでは?」と太郎に聞かずにはいられない。すると、「そんなことは関係ないから、とにかくほっといて」と言った。

太郎が自分で動きだすまで、待とうと決めた。この経験で、家族は、黙って見ているのが、一番難しいということを知った。深夜、警察に保護され帰ってくることもあったし、コトリとも音のしない部屋で、『太郎は死んでるんじゃないか?』と不安になることもあった。

しかし、太郎には友達がいた。太郎に部屋が出来たことで、部屋に遊びに来るようになった友達。太郎同様、学校に適応するのが下手なそうな、イケてないお友達が、私は大好きだった。太郎の部屋には誰のことも責めない空気があった。

そろそろ、高校進学の話が中学の担任からあったりしたが、私からは太郎に何も言わなかった。ほとんどの生徒が受ける私立高校の受験の日、私はとっさに楽器屋に寄り、アコースティックギターを買って帰った。受験料と同じ値段のギターだった。太郎の部屋の前に置いておいたら、「ありがとう」と言って部屋に持って入った。ギターの教本も一緒にあげたら、それを見て「一弦ってどっち?」と聞きに来た。「一弦はこっち」と説明する。ああ、よかった、話が出来て、それだけで、嬉しかった。
いよいよ、公立の高校受験の願書を出さなければならない頃に、太郎は定時制の高校に行くと自分で決めた。

出口の見えなかった引きこもりの毎日が、突然終わった。


<定時制高校編>

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「今は、求人票に性別や年齢は書けないことになっているので、いろいろ仕事はあるようで、実際、中卒で採ってくれるところは、ここだけです」
ハローワークの職員さんが、工務店の求人票を見せてくれる。

定時制高校での説明会で、『勤労青年』は教科書代が無料になるから、ハローワークで、“求職票”を作ってくださいと言われて来たのだ。私はただ求職票を作ればいいと思っていた。『求職中』ということでも、『勤労青年』と認められるからだ。まあ、手続き上のことだから、説明だけ聞いて帰ろう。そう思っていた。だから、私は、太郎がいきなり、就職出来るとは思っていなかった。なにしろ、7か月間、部屋に引きこもっていたのだ。社会復帰は、時間をかけて、慣れていく時間が必要だと思っていた。

ところが、太郎の右手の人差し指が、わずかに求人票の方に動いた。えっ?!太郎は働く気なのだ。
太郎はこの頃、何も話さなかった。目つきや素振りで、気持ちを察するようにしていた。なにしろ、私は、話せない次郎の気持ちを察して生活していたから、太郎の断片的な言葉を私が理解しないと、太郎は、イラついた。『次郎は話さなくてもわかるのに、どうして、俺のことはわからないんだよ』と言っているようだった。だから、太郎のわずかな指の動きを見逃さなかった。

私は職員さんに「ここで、お願いします。」と言った。
職員さんは驚き「え、本当にいいんですか?」と聞き返した。

太郎は「うん」とうなずいた。私は「お願いします。」と頭を下げた。

それから、太郎は、ひとりで面接に行って、ひとりで就職してきた。

太郎が自転車で通う職場までの道は、桜並木の美しい季節になっていた。就職してさっそく職場でお花見があり、太郎が家族の分まで、お花見弁当を貰って帰った時、とても嬉しかった。中卒の待遇など知れているが、暖かい職場だろうと想像して安心した。定時制高校の先輩も働いており、学校行事には休みもくれた。

仕事をして、夜、学校に行くことは、とても大変なことだと思う。
定時制高校は、夕食の給食から始まる。そして、先生が「お疲れ様です」と迎えてくれるのだ。1人の人間としての扱いに、また、私は感動した。
花子は、全日制の高校だったから、その違いに驚いた。全日制高校の先生は、保護者の目の前でも、生徒の尊厳を傷つけるような叱りかたをして、気づかなかった。花子はよく「内申書を引き合いに出して、脅すってパワハラだよね」と言ったりした。そんな光景に胸を痛めていたので、定時制高校の先生方の対応は、心底嬉しかった。太郎の尊厳を大事にしてもらえることに、安心した。

もう私に出来ることは、職場で食べるお弁当を作ることだけだった。決して、上手いとは言えない私のお弁当を、太郎はひとつ残さずきれいに食べてくれた。学校の先生にこの話をした時、太郎が「いや、一回だけ残した。ほうれん草」と言った。寒い季節に、冷凍したほうれん草の塊を入れて解けずに、食べられなかったのだ。そんなことは、残したうちに入らない。太郎のこんな愚直さが、私は大好きだ。

まだ、新しい生活に慣れていない頃、仕事と学校の両方は行けそうにない時に、太郎に「仕事は休みたいけど、学校は行く」と言われたことがあった。私はちょっと考えて太郎に言った。「仕事はお金を貰って行っているところだけど、学校は授業料を払って行っているところだから、どちらかを休むとしたら、学校じゃないかな?それに、職場には学校の先輩が居るのだから、仕事に来てなかった太郎が学校に来てたら、ズル休みって思わないかな?」納得したらしく、それ以来、仕事だけを休みたいと言ったことはない。

納得したことを簡単に変えられない太郎が、試験中に仕事は無理をして行って、学校を休んだことがあった。先生に「試験中は、仕事を休んでも、学校は這ってでも来てください。来てくれさえすれば、成績をつけられますから」と頼まれたことさえあった。そんな時の優しい先生の対応も、癒されるようだった。

ほっと安堵したものの、この頃の太郎は、私と顔もあわさない、口も利かない。という状態だった。目はあわさないのに、チラッっと私を見る目が『なんだ!その目は!!』と言いたくなる目をしていた。
それで思い出したことがある。『なんじゃ!その目は!』と私は高校生の時に父によく言われたものだった。自分では、どんな目つきがさっぱりわからない。父が私を見るたびに、『なんじゃ!その目は!』と怒るのが不思議だった。私はどんな目をしているのだろうと思っていた。

謎が解けた、太郎が私を見る目だ。

そう思うと、『なんだ!その目は!』と怒る気も失せた。私に似ていることが、嬉しくさえあった。いくら反抗されても、私が親にしたことを思えば、『なんのこれしき!』と踏ん張れた。

昭和ひと桁生まれの父をして「親になんぞ、なるもんじゃねえ」と言わせた私だ。受けて立とう!親に反抗してなんぼの思春期!いくらでも反抗しなさい。こんな大人(母親のような)にはならないと誓いなさい。私を踏みつけて、歩いていきなさい。

と啖呵は切れるが、さびしくもあった。私が近づくと、サッと避ける。半径1メートル以内に入ると感知するセンサーがあるようだった。そして、私の視線を避けるために、手で顔を覆う。バイクの免許を取ってバイク通勤をしていたのだが、道路を走ってくる太郎が、片手運転をしてまで、顔を覆っていた時は、情けなかった。

そこまで、嫌いか?!

そう何度思ったことだろう。

それなのに、太郎の給料日には、私の机に一万円札がそのまま置いてあった。
「太郎、これ、お母さん貰っていいの?」

太郎はなにも言わず頷いた。


<ひとり立ち編>

太郎トリミング 声優卒業

「太郎は、好きなところに行って、好きなことを出来るから、幸せやなぁ。太郎は、お母さんが次郎ばかりに手を取られて、さびしい思いもしたろうけど、次郎は、ものも言えん、好きなことろにもいけんで、むげねかろ(かわいそうだろ)?」とおばあちゃんが言った。

すると、太郎は、「お母さんは次郎の言うこと全部わかるよ。」と言ったらしい。

いよいよ東京へ行くという前日、太郎は、一目会いたいと言うおばあちゃんを訪ねていた。

太郎は定時制高校の4年間、正社員として働き、お金を貯め、東京の専門学校に行くことになった。私は口もお金も一切出していない。専門学校の学費は貯めた貯金でまかない、生活費は新聞奨学生をして稼ぐと言う。

わが子ながら、偉い!!の一言だ。

そして、新聞配達の仕事をするにあたっての“志望動機”が「苦労がしたい」だったらしい。このことを知った太郎の父が、驚いて教えてくれた。「苦労がしたいって、考えられへん」と、何度も言った。

私は驚いた、私が高校を卒業して上京した動機が「苦労がしたい」だったから。

太郎が上京して、しばらくして「梅肉エキス送って」とメールが来た。梅肉エキスは、私が毎年大量にもらう青梅の汁を絞り、煮詰めた超酸っぱい、超アルカリ食品だ。子どもたちの具合が悪いときには、これをお湯で薄めて、はちみつを入れて飲ませた。風邪をひいても、お腹の具合が悪くても、梅肉エキスを飲んで休むと、大抵の体調不良は治った。

「具合悪いの?」と聞くと、「下痢」と返事が来る。

梅肉エキスを飲んだらよくなると思っているんだ。うちの子だな~と、無性にうれしかった。にしても、我慢強い太郎が言うくらいだから、辛い状態が続いているのだろう。

私は、東京電力の原発事故以降の食品汚染には気をつけたほうが良いと思っていたので、まず、水道の水は飲まないほうがよいこと、牛乳も気をつけること、コンビニや、安いチェーン店の食事は控えること、安いからには、理由があるということ。など伝えた。

私は、農薬や、食品添加物に気をつけてきたように、さらに加わった放射性物質にも、気をつけたいと思っている。放射性物質は猛毒だ。“ちょっとくらいなら大丈夫”とは思えないのだ。私のうるさいメールに、太郎から「ありがとう」と返事が来た。

そして、太郎が新聞配達をしている近くのごみ焼却炉で、放射性物質が含まれているかもしれない瓦礫が焼却されると聞くと、「マスクをしてね」とメールした。口から入るものは、曲りなりにも、肝臓や腎臓という毒を排出する(しようとする)器官があるが、肺から入るものは、直接血液に入るのだ。せめて、マスクで、ほこりに付着した放射性物質は防ぎたい。

二十歳の誕生日には『非常持ち出し袋』をプレゼントした。阪神淡路大震災を経験した人たちの声から作られた『非常持ち出し袋』だ。二十歳の男の子には、最高にうれしくないプレゼントだろう。

しかし、これが、私の「なにがあっても、生きろ!」というメッセージだ。

太郎は、志望動機通り、苦労して新聞配達と、専門学校をやりきった。

そして、今は、大道具の仕事(若い時の父と同じ職場で)をしながら、声優と演劇の勉強をしている。

22歳の誕生日に、なにもプレゼントはなかったけれど、だれよりも早く「おめでとう」が言いたくて、0時を過ぎてメールをした。すぐに返事がきて「ありがとう。こんど、舞台とか出る時、呼ぶね」と書いてあった。天にも昇るような気持ちになった。今までのメールで、一番長い文章だ。『太郎が舞台に呼んでくれる。太郎が舞台に呼んでくれる。』私は、この言葉で、しばらくは元気でいられた。

そして、太郎が23才になった2015年12月、その日が来た。

この年、舞台を観に行けないおばあちゃんが、太郎の次の舞台を観に行くのを楽しみに、足の手術をすることを決めた。もう何年も決心できずにいた手術だ。

太郎、太郎の存在が、おばあちゃんに勇気を与えてるんだよ。
長生きして、太郎の活躍を見たいと頑張っているよ。

まあ、おばあちゃんは、長生きしそうだから、焦らなくてもいいけどね。

お母さんも、太郎を見習って、夢に向かって努力することにした。

次に書く物語も決まっている。


「現在進行形 うちの太郎物語」(仮)

また書いたら読んでくれるかな?




<おまけ 思い出写真>

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しらいわ よしこ
書くことで、喜ぶ人がいるのなら、書く人になりたかった。子どものころの夢でした。文章にサポートいただけると、励みになります。どうぞ、よろしくお願いします。