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耳を盗まれる
朝目覚めると、右耳が盗まれていた。
ベランダの掃き出し窓を開けたまま寝てしまったようで、そこから侵入されたのだろう。部屋の中に荒らされた形跡はなく、右耳だけが綺麗に盗まれていた。窓から流入してきたモノラルの初夏の風の音が右脳に抜けていく。何はともあれ盗まれたのだから、先ずは被害届を出すことにした。
「それで」
「はい」
「なぜ盗まれた、とお思いですか」
「いや、普通に、盗まれたからですが」
「盗まれたとも限らないですよね」
「ひとりでに耳がなくなるわけないでしょう」
「そうですね、そのとおり。私もそう思います。でもだからといって、誰かがわざわざあなたの耳を盗んだりする理由はなんなんですかね」
「それを調べるのがあなたがたの仕事でないですか」
「いや、でもこれは」
「じゃあ私がなくしたというわけですか」
「いや、それも」
「じゃあ遺失届ですか。遺失届を提出すればいいですか」
「いや、それよりも」
「なんですか」
「われわれ警察でなくて、一度病院で診てもらった方がいいんじゃないですか」
「あなたは私の頭がおかしいとおっしゃいたいのですか」
「いや、違いますよ。だから、その、右耳をね」
「病院って、何科に診てもらうんですか」
「耳だから、それは、耳鼻科でしょう」
私は被害者だというのに、被害者の話に聞く耳を持たないのはどういう了見なのだろうか。前から歩いてきたノースリーブを着た女性に連れられたポメラニアンが、被害者の私に向かって歯を剥き出して吠えまくっている。ポメラニアンの声に私は真摯に耳を傾けたが、左耳しか傾けられなかったからか、何も主義主張が伝わってこない。吠えたいのは私の方だ。このままでは物事が解決に向かっていかないので、近所の耳鼻科にて診察を受けることにした。
「本日はいかがなさいましたか」
「このとおりです」
「これは、一体どうしたんですか」
「盗まれてしまったのです」
「盗まれた」
「診ていただいてもよろしいですか」
「診るとおっしゃいましても」
「なんですか」
「耳、なくなってますからね」
「はい、盗まれたのです」
「ずいぶんと、綺麗に」
「はい」
「つるんと」
「それで」
「はい」
「どうなっているのですか」
「いや」
「診ていただきますか」
「これは、どうなっているのですか」
「それは、今私がした質問です」
「いや、なくなっているものは、診ようがないですよ」
「ここまで伺っているのですから、ちゃんと診てくださいますか」
「いや」
「どのように盗み取られたのでしょうか」
「ちょっと私にはわからないですね」
「なぜでしょうか」
「なにが起こっているのか、私には全くわからないです」
なんなんだこのお医者さんは。被害者であり患者でもある私の言うことに、全然耳を貸そうとしていないではないか。隣室からけたたましいドリルのような音がする。耳鼻科なのに。なにを削っているのか。耳垢や鼻くそをドリルで削るとは思えない。
「それでは、私はどうすればいいのですか」
「わかりません。私もこの状況に驚いています」
「あなた、お医者さんでしょう」
「はい、でもこれは」
「お巡りさんにもご対応いただけなかったんです」
「はい、でも」
「私は被害者なのですよ」
「でも、これは」
「私の訴えがわかりますか」
「いやいや」
「ちゃんと私の訴えを聞き入れてください。私は被害者ですよ」
「いや、これは」
「お巡りさんもお医者さんもポメラニアンも、なんでわかってくださらないのですか」
「でも」
「でもでもばかりでなぜあなたは私の訴えに耳を貸してくださらないのですか」
「こんなのさすがにわかりませんよ」
「ちゃんと耳を貸してくださいよ」
「私には無理です」
「じゃあ、いいです。あなたの右耳を貸してください。それでいいです」
「なんですか」
「あなたの右耳貸してくださいって」
「なにを言っているんですか」
「もういいです、お借りします」
「ちょっと、なんですか」
「失礼します」
「なんですかやめてください」
「いいからじっとしてください」
「やめてくださいやめてくださいやめて」
私は新たな右耳を手に入れたが、耳穴ごと盗まれてしまっているので、二度と顔の右側から音が聞こえるようにはならなかった。それでも、ベランダからの風は心地良く右脳を抜けていく。