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COTEN RADIO ゴッホ編 -1-

みなさんこんにちは!
しらいです!

みんな大好き COTEN RADIO!

今回は、「COTEN RADIO のゴッホ編1」をまとめたいと思います。個人的に抑えておきたいと思った部分のみを書いているので、詳しく知りたい方は、本編を聴いてみてください。

COTEN RADIOショート編、今回は、孤独な魂を抱えながらも燃えるような情熱でキャンバスに向かった画家、フィンセント・ファン・ゴッホについてです。ひまわりや自画像、耳を切り落としたエピソード、売れない画家として生前評価されず自ら命を絶った―そんな断片的なイメージで彼を知る人は多いかもしれません。しかし、近年の研究によって彼の実像は少しずつ光を浴び始めています。

ゴッホ研究は今も活発に行われており、オランダのゴッホ美術館には彼の作品が数多く所蔵されています。この美術館は単なる展示場ではなく、ゴッホ研究の最前線でもあり、作品の真贋判定や文献の分析、新たな発見などが絶えず行われています。こうした研究の蓄積が、私たちが抱くゴッホ像に新たな光を当て、彼の人生と作品を再発見させてくれているのです。


ゴッホの人生

ゴッホは、普通の枠に収まらない人生を送りました。世界に対してどこか反抗的で、自らの道を進もうとする強い意志がありましたが、その道は平坦ではなく、彼の心は常に葛藤や苦悩に揺れていたといいます。やがて、その苦悩の果てに自ら命を絶ったと言われています。

生真面目すぎるあまり、時代や社会とうまく折り合いをつけられず、作品も人間性もなかなか理解されなかった彼。しかし、単なる「狂気と情熱の画家」というイメージとは異なる、繊細で複雑な内面が、最新の研究から明らかになりつつあります。


ゴッホの生い立ち

1853年3月30日、オランダ南部の小さな村で生まれたフィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ。彼には、同じ名前を持つ兄がいましたが、その兄は1年足らずでこの世を去りました。偶然にも、翌年の同じ日に生まれたのが私たちが知るゴッホです。生まれながらに「フィンセント」という名前を託された彼の運命には、どこか数奇なものを感じます。

ゴッホが生まれた頃、オランダでは産業革命が進み、社会が大きく変わろうとしていました。彼の家庭は宗教と芸術にゆかりのある一族で、祖父は尊敬を集める聖職者として名高い存在でした。父であるテオドルスも牧師を務めていましたが、裕福な暮らしではなく、それでも子供たちの教育には惜しみなく投資をしました。

弟のテオはゴッホの才能を支え続けた重要な存在でした。二人を切り離しては、ゴッホの本当の姿を理解することは難しいかもしれません。

ゴッホは16歳で叔父が働いていた画商に就職します。絵画の世界に少しずつ触れるきっかけとなりましたが、当時の彼はまだ画家を目指していたわけではありませんでした。同じく社交的で優秀な弟のテオも同じ商会で働き、親戚の繋がりにより同じ道を歩むこととなりました。

幼い頃から、ゴッホは非常に扱いにくい性格だったと言われています。激しい気性で、何事にも極端に思い詰める傾向があり、衝動的で他人と衝突することも多かったのです。小学校や中学校は中途退学してしまい、家庭教師をつけて勉強することになりました。どこか突き進むようなその性格が、彼の人生を不器用で孤独なものにしていたのかもしれません。


青年期のゴッホ

大人になったゴッホは、周囲から「海に出るのは危ない」などと保守的な助言をされるたびに、ひどく苛立つと弟テオに語っていました。その一方で、彼は魅力的な人柄でもありました。友人たちは、彼の飾らない振る舞いや、心の底から楽しそうに笑う姿を印象深く覚えており、彼の親切さと高い共感力は人望を集めていました。

ゴッホは熱心なプロテスタントで、信仰においても深い葛藤を抱えていました。聖職者を志しましたが、父や教会から反対され、その夢は叶いませんでした。芸術に新たな希望を見出しましたが、最終的には苦悩の中で生涯を閉じることになります。


ゴッホの苦悩

ゴッホは高い理想を持ち、気性も激しく、さらに宗教的な情熱を抱えていましたが、その情熱を現実世界で活かす場を見つけられませんでした。人間に対する愛やキリスト教に対する深い思いがあったものの、牧師である父からも教会からも理解を得られず、拒まれてしまったのです。彼の人生を貫くこの深い苦悩は、作品や生き方にも色濃く反映されることになります。


両親との関係

ゴッホの独特な考えや行動は、両親にとって悩みの種でした。父は弟テオに宛てた手紙で、ゴッホが問題ばかり引き起こしていることを嘆いています。母もまた、彼の風変わりな生き方に不安を抱えていました。両親は一時、ゴッホを精神病院に入れることを考えましたが、ゴッホは強く拒否しました。

両親にとって、テオは理想的な子供であり、彼が家族の心の安定剤となっていた面もありました。32歳のときに父が心臓発作で亡くなりましたが、ゴッホはその死に対して淡々とした態度を見せています。


画家を志すまで

ゴッホは最初、聖職者を志して大学の神学部を目指しましたが、試験に不合格となります。勉強が難しすぎたことに加え、キリスト教の教義自体に深い興味が持てなかったことが影響していました。それでも宗教の道を諦めきれず、伝道師の学校に入学しますが、過度なストレスと不眠から挫折します。

親戚を頼り、ベルギーの炭鉱地帯で伝道師見習いとして働き、炭鉱労働者と生活を共にしながら福音を説き、貧しい人々の世話をしました。しかし、イエス・キリストと同じような貧しい生活を実践しようとしたゴッホの行動は教会指導者たちには理解されず、正式採用を断られてしまいました。

失恋を機に宗教への傾倒をさらに深め、聖書の研究に没頭するようになります。その後、弟テオの提案を受け、画家への道を歩み始めました。この提案が、後に世界に名を残す画家を誕生させることになるのです。


今回はここまでです。

ありがとうございました!

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