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COTEN RADIO | コテンラジオ | ゴッホ編 -2-
前回の振り返り
前回はゴッホが画家になるまでの苦悩や葛藤について見てきました。今回は、パリでの生活やアルル時代におけるゴッホの活動などを見ていきましょう。
努力家としてのゴッホ
ゴッホといえば、感情に任せて精神を削りながら描く姿を思い浮かべる方も多いかもしれません。しかし、実際のゴッホは感情だけでなく、体系的なアプローチで絵の技術を磨く努力家でもありました。
彼はレンブラントやドラクロワ、ミレーといった巨匠たちを深く尊敬し、彼らの作品の模写から学び始めました。当初の作品はぎこちなさが目立ち、デッサンも不安定でしたが、模写を重ねることで徐々に上達していったのです。ゴッホは特にデッサンという基礎訓練を重視し、これが自身の技術向上の要と考えていました。
油絵にも一度挑戦しますが、自分にはまだ早いと気づき、再びデッサンに立ち戻ります。このような試行錯誤からも、ゴッホが基礎を徹底的に固める姿勢を持っていたことがわかります。彼は「素描は芸術の根幹であり、素描に費やした時間はすべてが有益だ」と語っており、この言葉にも彼の覚悟が表れています。
また、彼は絵を描くだけでなく、独学で最新の色彩理論や顔料の使い方、遠近法や解剖学といった知識を本で学び、理論的にもスキルを磨きました。
色彩の感覚を養うためにピアノレッスンを始めたこともありました。音のニュアンスと色を関連づけることで色彩感覚を養おうとしたのです。レッスン中、ピアノの音をそれぞれ特定の色に結びつけて学んでいましたが、ゴッホのこの学び方を奇妙に感じた先生は恐れを抱き、レッスンを中断してしまったといわれています。
こうした努力を重ねる中で、彼は初期の傑作「ジャガイモを食べる人々」を完成させます。しかし、この作品は友人から酷評され、「もっと巧みに描けるはずなのに、なぜ表面的にしか描けないのか」と指摘されてしまいました。この言葉にゴッホはショックを受け、制作に対する自信を一時的に失います。また、友人が「芸術は無神経に扱われるにはあまりにも崇高なものだ」と述べた言葉も、彼の心を深く傷つけました。
ゴッホとテオ:パリでの共同生活
ゴッホは一時期、ベルギーの美術学校に通ったこともありましたが、指導を全く受け入れなかったとされています。彼には既に自分なりの完成像があり、それに沿わない教えを受け入れることができなかったのでしょう。時代を先取りしすぎていたのかもしれません。栄養失調やアルコール中毒が原因で歯を10本も失い、発語障害が残ったという記録もあります。
彼は各地を転々とし、情熱に突き動かされるように絵を描き続けていましたが、あるとき突如として芸術の都パリへ向かいます。そこで彼が頼ったのは、すでに画商として成功していた弟のテオでした。事前の連絡もなしにパリへ訪れたゴッホは、「今日の昼にルーブルで会わないか」という手紙を送ります。こうして兄弟の共同生活が始まりました。
ゴッホは生活のすべてをテオのアパートに持ち込み、そこをアトリエとして使いました。弟の寛大な支援には感謝していたものの、ゴッホはどこか後ろめたさを感じていたようです。彼は、自分の絵が売れないことを「仕方がない」と受け入れつつも、売れる絵を描くという考え方にはどうしても向き合えなかったのです。
当時、ゴッホの才能と名声を信じていた唯一の人物はテオでした。テオは「兄は驚くほど多くのことを知っていて、世界を見通す特別な視線を持っている。あと数年生きれば、きっと世に認められるだろう」と手紙に綴っています。テオは心から兄を愛し、兄が画家として成功できるよう支えたいと考えていました。そのため、自身の収入から惜しみなく仕送りをし、金銭的に援助を続けていたのです。
テオは画商としても活躍しながら、ゴッホのために人脈を広げ、画廊や画家とのつながりを作り、ネットワーク面でもサポートしていました。駆け出しの画家が評価されることは難しく、テオの支援がゴッホにとってどれほど重要だったかは想像に難くありません。
しかし、2年間の共同生活が続くと、互いに限界を感じるようになります。テオは家族への手紙で「兄は勉強を続け、才能もある。しかし、残念ながら性格に大きな問題があり、いつまでも一緒にやっていくのは難しい」と記しています。二人は深く愛し合い、親友のように思う時期もあったようですが、次第に喧嘩が絶えなくなり、汚い言葉で互いを非難し合うこともあったと言われています。
ゴッホの転機:印象派と浮世絵の影響
パリでの生活は、ゴッホの作風に大きな変化をもたらしました。明るく鮮やかな色彩や、後の作品に見られる独特のタッチがこの時期に芽生え始めます。
当時のパリは、伝統と新しい芸術運動が交錯する場所でした。ゴッホにとって大きな影響となったのが、印象派と日本の浮世絵です。これらは、彼の芸術の転機となりました。
当時のフランス美術界は、フランス美術アカデミーが権威を握っており、画家として認められるためにはアカデミーでの展示が必要でした。絵画は「教養と知識を駆使して読解するもの」という認識が強く、主題は歴史や宗教が中心でした。こうした伝統に対し、印象派は「絵は自由であるべきだ」と挑戦した前衛的な運動でした。アカデミーに認められなかった画家たちは自ら展示を行い、色彩やタッチの自由な表現を追求したのです。
印象派は新しく登場したチューブ入りの絵の具を使い、屋外で光あふれる風景をその場で描くことが可能になりました。明るい色を多用し、色を混ぜるのではなく、原色をそのままキャンバスにのせる技法を用いることで、見る人の網膜上で色が混ざって見える効果を生み出しました。この独自の表現方法はゴッホにも影響を与え、彼の色彩やタッチの感覚をさらに豊かにしていきました。
また、もう一つゴッホに影響を与えたのが、当時ヨーロッパで流行していた日本の浮世絵でした。日本が開国し、パリ万国博覧会を通じて浮世絵が西洋に紹介されると、太い輪郭線や独特の構図、影のない表現は、西洋絵画にはない自由な視点を示しました。これに感銘を受けたゴッホは、浮世絵を集めて模写し、自分の作品にも取り入れるようになりました。背景に竹林や蓮の花を描き、浮世絵の要素を積極的に取り入れた作品も残しています。
こうして、印象派と浮世絵という異なる文化の影響がゴッホの絵画に融合し、独特の明るい色彩と大胆な構図を持つ作風へと変化していったのです。
アルル時代
パリでの生活に限界を感じたゴッホは、温暖な気候と自然に触れることを求めて南フランスのアルルへ移住しました。出発の日、テオが駅まで見送りに来てくれましたが、ゴッホはアトリエにテオのための色鮮やかな絵を何十枚も残し、新たな創作の旅路に思いを馳せながら旅立ったのです。
アルルに到着したゴッホは、春の光と花々の色彩に心を奪われ、より自由で大胆な表現を求めるようになります。自然の色にとらわれず、自らの情熱や感情を直接キャンバスに表現しようと試み、鮮烈な色彩と独自のタッチを確立していきました。
その代表作である「種をまく人」には、アルルでの新しいスタイルが鮮やかに表れています。麦畑の青、太陽の強い輝き、自然の躍動感が、まるでゴッホの感情そのものを映し出すかのように表現されています。彼は自然の色をそのまま再現するのではなく、感情のエネルギーを色彩として表現し始めていたのです。
アルルでの生活を楽しむ中で、地元の人々との交流もありました。ゴッホはお気に入りのカフェで地元の人々をモデルに絵を描くこともあり、デンマークの画家ペーターセンとも親しくなり、芸術を通じた交流を深めていきました。彼は自分の創作に強い自負と確信を抱き、独自の表現を追求する意欲を絶やしませんでした。
アルルでの時期は、ゴッホにとって創作の喜びと心の安定を得られた貴重な時間でした。自然に囲まれ、海岸や麦畑、トウモロコシ畑などから絶え間ないインスピレーションを受けながら、情熱的に作品を描き続けました。また、ホテルでの食事や手紙のやりとり、読書やパイプを楽しむなど、日常の小さな喜びにも満ちた生活を送っていたのです。生活費はテオの支援に頼っていましたが、それでも日々の充実を感じていました。
やがて、ゴッホは「黄色い家」と呼ばれる建物を新たな住まい兼アトリエとして借ります。この家では、「画家仲間と共同生活をしながら絵を描く」という長年の夢を実現しようとし、さらに将来は家族を持ち、温かな家庭を築きたいという希望も抱いていました。こうした夢は、ゴッホにとって単なる幻想ではなく、彼の人生を支える強い信念として心に根付いていたのです。
今回はここまでです。
ありがとうございました!
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