Don't Stop Me Now, そしてアダム爆弾について

クイーンの英語は聴きやすい。
クイーンズイングリッシュだからなハハハ。

まさか紅白でQueenが聴けると思いませんでしたね。
これオリンピックのときも言ったような気がしますが。

個人的な萌えポイントは、アダムランバートが近づくたびにそっと距離を取るブライアンメイと、構わず笑顔で距離を詰められてちょっと焦るブライアンメイと、最終的に逃げられなくなって苦笑するブライアンメイです。おじいちゃんと孫。

今井スミ女史の訳詞も、正直なところこれ以上のものはできないでしょう。
NHKで「俺の股間は爆発寸前だ」はさすがに無理。ムリムリムリムリカタツムリ。

ですがan atom bombを「アダム爆弾」と改変しなければいけないのは悲しい。
それもこれも、言葉尻だけを捉えて「クイーンは原爆を賛美しているのか?!」と叫ぶアホのせいです。
いまもう英国ですらatom bombって歌えないんですよ。もうね、アホかと。義務教育履修してこいと。
そんなんだからオッペンハイマーが未だに日本公開されないんです。こちとら伝記とか事前情報だけ集めすぎてもう臨界寸前です。責任取ってくれ。妻もファインマン先生が好きなので、先生とのカップリングを非常に気にしています。

というわけで、フレディがただのエクスタシーモンスターであって、原爆を賛美していないという根拠を以下に解説していきます。

(ここまで書いて地震が来たので、筆が止まっていました)


結論から言えば、これは英詞です。
ですから「(Two) atom bombs」でもない「an atom bomb」は、必ずしも日本に落ちたリトルボーイ・ファットマンを意図していません。

いいえ、必ずしも、とつけると誤解が生まれますね。
はっきり「意図していない」と断言できるレベルで、意図していません。


"Don't Stop Me Now"は1979年の楽曲ですが、時代としては冷戦の終盤。
まだ世界中の、誰の頭の上にも核兵器が降ってくる可能性のあった時代です。

現代の多くの日本人にとって、最初に学ぶ「原爆」は「はだしのゲン」でしょう。
日本人にとって「原爆」とは、広島・長崎に落とされたあの2発であり、それ以外の原爆についてはあまり知らない人も多いと思います。

ですが当時の欧米人にとっての"atom bomb"は、あの2発とは異なります。
鉄のカーテンの向こうから自分たちを狙い、自分たちも狙っている不気味な兵器。知っているだけで見たことはないSEKAI NO OWARI。
ドクター・ストレンジラブが「不謹慎ギャグ」であり「荒唐無稽な話」ではなかった、と言えばその空気感は伝わるでしょうか。

「あの第二次世界大戦が終わるくらいのドデカい爆弾」
「自分がいま生きている世界がぶっ飛ぶくらいのドデカい爆弾」

50年代から後の欧米における"atom bomb"という言葉の意味するものは、自分たちの身近にある破滅、人間の愚かさの象徴。
または、バカバカしいくらい巨大なもの、混沌を生み出すもの、前触れなく爆発するもの、マッチョイズムの象徴です。
これは核兵器の実態とは関係なく、人々の認識≒言葉の意味としてそうだった、ということです。

ですから、この歌詞の文脈においては後半2つのニュアンスが当てはまります。
そしてまた、広島・長崎がこの歌詞の文脈に当てはまらないことも、自明かと思います。
フレディがxxxxxをxxxxxしながらxxxxxとxxxxxしてるとき、広島・長崎のことを考えながらxxxxxはしていないでしょう。

つまり、私たち日本人は「原子爆弾」と言ったとき、言葉に付随するものとして真っ先に「広島・長崎」が出てきます。
ですが、世の中にはそうでない国のほうが多い。むしろ"atom bomb"という言葉に、広島・長崎をまったく含まない国のほうがずっと多い、ということです。

そのことの是非についてを、私は議論する気はありません。
ですが、その国のその当時の人々の認識としてそうなのだから、そこから出てきた歌詞について、被爆国の気持ち云々を指摘するのはやはりナンセンスだと思います。


いや少しは考えてくれ、というあなた。

あなたは「地雷系女子」という言葉を使うとき、カンボジアにいる足のない女の子のことを少しでも考えるでしょうか?

考えませんね。そういうことです。

ですからこれは、よく言えば他国の認識について無知であったために生み出された誤解であると言えますし、悪く言えば歌詞のニュアンスを無視して曲解している、無意識の言葉狩りとも言えます。


ですが、人によっては

「そうは言ってもフレディが"atom bomb"と書いたとき、絶対に広島・長崎のニュアンスが無かったと言い切れるか?」

と食い下がるかもしれませんから、それについても解説させていただきます。

もし広島・長崎に落ちた2つの(モノとしての)原爆に言及する場合、英詞としては別の言葉があります。

もっとも直接的に言及するなら"Hiroshima & Nagasaki"
第2次世界大戦の文脈であれば"(Two) atom(ic) bombs"
短く済むので、もし歌詞ならこちらが向いていますね。

行為としての原爆投下を示す場合は"Atomic bombings"
核実験を除く場合は"Hiroshima and Nagasaki bombings"
ですが長いので、もし自分が作詞者なら"Hiroshima"にすると思います。

つまり"(Two) atom bombs"や"Hiroshima"という言葉が別にあるのに、単に"an atom bomb"を使っているのは、作詞者が広島・長崎のニュアンスを排除している、意図的に区別している根拠といえます。

そこまで考えて作詞していたか?と言われると苦しいところがありますが、少なくともフレーズ的には"like (Two) atom bombs"にもできたのに、そうしていない。
ということは、作詞者にその積極的な意図がなかったと捉えて良いと思います。意図を含めたいなら"atom bombs"にすれば良いだけなのですから。



そこまで言っても、

「相手の認識なんか関係ない。被爆国の人間である自分は"atom bomb"と楽しそうに歌われるだけで心が傷つく」

とおっしゃる人はいるかもしれません。

これは人それぞれお互いの認識が異なる以上、必ず発生する苦しみです。
すべての人が同じ言語を使うようになっても、そのような苦しみは間違いなく発生するでしょう。
なぜなら、同じひとつの単語でも、そこに込められた人の思いは様々であり、それはひとりひとりで違うからです。

ですが、

「相手の認識なんか関係ない。こちらの認識が優先だ」
「相手の時代背景や本心など考えない。理解しようともしない」
「前後の文脈は無視し、字面だけを捉えて『攻撃された』と叫ぶ」

それは果たして、人として正しい姿勢でしょうか。

そういった態度がお互いの憎しみを呼び、それを為政者に利用されて、あの戦争に結びついたのではないですか。

ですから、せっかくの新年ですから、今年はそこからもう1歩踏み込んで、相手のことを考える年にしませんか。

言葉尻だけではなく、文脈と相手のバックグラウンドを捉えて、本当の意味を読み取って…

…まあ結局のところこれ、六尺兄貴のキメセク乱交の歌なんですけどね。





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