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3年ぶりにじいちゃんばあちゃんに会いに行く(重陽旅行5日目 2022/9/9)

【前回】
【1・2日目】取り残した青春を回収する旅
【3日目】帰る暇ないんで富士から直接九州行きますね
【4日目】九州来たしとりあえず3回横断しとくかあ

午前

武雄温泉(8:21)→肥前山口(8:49)

 朝6時。武雄の旅館で目を覚ました。音量の小さなテレビは、エリザベス2世の崩御を知らせるニュースを報道していた。時代の移ろいを感じつつ、朝の時間をどうしようか考える。朝風呂も考えたが、支度が面倒になる。結局水を飲んで、7時半くらいまで二度寝をした。素泊まりなので朝食は出ない。私は普段から朝食を食べないので不便することはなかった。
 サークルのメンバーは私を含めて朝早く宿を出た。前日から、「7時半に出る組」「8時に出る組」「8時半に出る組」など組分けがなされ、それに従って寝る場所が決められていた。8時組が最も多く、私もその一人だった。
 宿から駅までは歩いて10分ほど。交通の便はかなり良い。8:21発の列車に乗るのには丁度いい時間だ。
 ここで本日の予定を確認する。武雄温泉を出て佐賀県を東へ進み、鳥栖から一旦は福岡方面へ向かう。香椎で香椎線に乗り換え、西戸崎と宇美の両方の終点に到達する。途中の長者原で福北ゆたか線に乗り、博多駅を経由して、久留米まで行く。久留米からは久大本線で、日田、大分まで行き、大分駅で祖父母に再会する。私は祖父母のことを「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼んでいたため、ここから「祖父母」を使うことはなくなる。
 駅に着く。駅員に青春18きっぷを見せ、ホームへ上る。時刻表を見ると、列車は大体毎時1本。郊外の路線によくある、やけに特急の割合の多いダイヤだ。たまに普通列車が来ないで特急だけ来る時間帯もある。武雄温泉より西側の大きな都市と言えば、佐世保くらいだ。長崎へ向かう長崎本線は、ここよりも佐賀寄りの肥前山口(江北)で分岐する。

赤いのが特急

 やって来た列車は、前日ここに来た時に乗った列車と同じ817系だった。重たいキャリーケースを網棚に載せ、クロスシートの窓側の席に座る。筑紫平野の広大な水田地帯がどこまでも続く。9月の水田は青々としていて、稲穂が力強く育っているのが分かる。

マジで無限に水田が続く

 途中の駅で列車の交換があった。その列車も817系だった。佐世保線に乗っていて、普通列車は817系しか見ていない。おそらく車両の世代交代が完了して、817系より古い車両は来ないのだろう。
 私の座った席は南側に面していたが、反対側の席の車窓は、ほとんどずっと山の斜面に支配されていた。私は山の斜面よりも、水田の果てしなく広がる景色のほうが好きだ。車窓から見える海も好きだ。広すぎる水田は、海の景色と似ている。忙しない関東の工業地帯の、泥々の海や川や空の対照に存在するのが、海や水田の景色なのだと思う。
 水田の中に肥前山口駅はある。あった。今は江北駅と名前が変わっている。肥前山口は二度と見られない。

もう見られない

 駅名の改称は、少しばかりの寂しさと、改称前に到達したという少しばかりの優越感を感じさせる。乗り換えのために降り立ったので、肥前山口駅で何かをした訳では無いが、改称する前に来られて本当に良かったと思う。

肥前山口(8:49)→鳥栖(9:35)

 肥前山口から東は、佐世保線ではなく長崎本線になる。キャリーケースを担いで跨線橋を渡る。ほとんど衣服しか入っていないが、数日分も衣服が入ればしっかり重くなる。乗換の時間は8分だったので難なく乗り換えることができた。
 肥前山口から乗った車両は、先ほどまで乗っていたクロスシートとは違いロングシートになっていた。佐賀や福岡など、大都市を目指す鉄道車両は、乗客をより多く乗せるために床面積のより広くなるロングシートを採用することが多い。私の乗車した午前9時頃は丁度朝の通勤ラッシュの終わった時間帯で、乗客はそれほど多くなかったが、10人掛けの座席に必ず3人ほど座っていた。
 唐津線の乗換駅となる久保田駅では、乗客が多く乗ってきたが、ロングシートに空きがまだまだ見られるほどで、混んでいる状態ではなかった。

これは久保田駅

 「山本・西唐津方面 のりかえ」と書かれた看板は、字体や看板の状態から見て、かなり年季の入っているものだ。鉄道業界は、車両をコロコロと入れ替える印象があるが、サイン類などの駅設備は中々変わらない。首都圏を走る山手線のホームの天井にも、時たま年季の入った路線図の看板を確認することができる。意外にも、サイン類の代謝は遅い。
 久保田を出て2駅、すぐに佐賀駅に着く。佐賀駅ではそれまで乗っていた客が競うように降りてゆく。車両はすっかりがらんどうになって、1両に2人くらいしか居ない様な状態になってしまった。ここまで空いてしまえば、座席の撮影をすることができる。

 811系は817系と同じく水戸岡鋭治氏がデザインした車両である。811系は外観も内装もかなりシンプルだが、座席だけやけに和柄を用いて派手にしている。面白い試みだとは思うが、どこからどこまでが一人分の座席の幅なのかが分かりにくい。座り心地はいたって普通だが、座席の区切れ目が分かりづらいのが気になる。まあここで色々と愚痴をこぼしても何も変わらない。そもそも半年以上前のことだし。
 佐賀を出ると、再び無限に続く水田の風景に戻る。筑紫平野の散村地帯にも、需要は存在する。神埼や吉野ケ里公園まで来ると建物が多くなり、中原や肥前麓まで来ると斜面が目立つようになる。

 この肥前麓駅の駅名標は、一見古そうに見えるが、隣駅に書かれている新鳥栖駅が2011年の開業であるため、掲出を始めてから12年ほどしか経っていない。JR九州のナンバリング表記は2018年から始まり、肥前麓駅もその範囲内に入る。この駅名標にも、律儀にナンバリングが付与されている。
 新鳥栖駅は新幹線との乗り換えができる駅で、交通結節点として重要な役割を果たしている。列車が新鳥栖駅に近づくにつれ、新幹線の高架橋の近づくのが見える。新鳥栖駅を出ると、高架橋の離れていくのが見える。周りの建物の背が低いので、その様がよく見えた。
 鳥栖駅は新鳥栖駅のすぐ隣だ。3分ほどで到着した。この列車は福間行き、目的地の香椎まで行く列車だが、普通列車である。鳥栖から区間快速に乗って香椎まで行くほうが速いため、鳥栖駅で乗り換える。

鳥栖駅で列車を待つ(9:35→9:50)

発車標

 長崎本線を走った列車は鹿児島本線のホームに入線した。この列車の目的地である福間駅は鹿児島本線の駅であるから、当然といえば当然だ。
 天井からぶら下げられている発車標を見ると、どの番線がどこ行き、というのは決まっていないようだ。2番線に表示されている福間と八代は、鳥栖から見てそれぞれ反対の方向にある。私が乗る予定の列車は、1番線を9:50に出る門司港行きの区間快速だ。鳥栖から見て福間駅は乗換予定駅である香椎駅よりも遠くにあるため、快速運転で香椎まで到達することができる。
 発車標からホームの景色に視線を移す。鳥栖市は佐賀県の東端部にあり、鹿児島本線が博多から鳥栖を経由して久留米・大牟田方面に到達することもあり、ほとんど福岡都市圏に組み込まれている印象がある。佐賀県内では佐賀市・唐津市に続いて3番目の人口規模を誇るが、人口密度の面では唐津市の約4倍、佐賀市の約2倍である。鳥栖は交通の要衝であり、また人口密集地であり、そのため駅前には建物が密集している場所でもある。
 駅前は鳥栖市を本拠地とするJリーグクラブ、サガン鳥栖のホームスタジアムが存在する。その名も「駅前不動産スタジアム」。駅のホームからもその立地を確認でき、そのアクセスの良さに圧倒される。我らが大分トリニータのスタジアムは、大分駅からバスで数十分移動する必要があり、お世辞にもアクセスが良いとは言えない。

駅から見えるのヤバすぎる

 鳥栖駅1番線には、私の乗る予定の列車より先に特急列車がやってくる。9:43発、特急かもめ108号博多行き。やってきたのは783系、ハイパーサルーンの愛称で呼ばれる特急列車だ。

ハイパーサルーン

 私の持っている青春18きっぷは普通列車と快速列車のみ乗車可能なきっぷであるため、特急列車に乗ることはできない。良い特急列車は、見るだけでも良いものだ。
 私が武雄温泉から肥前山口まで乗った817系、肥前山口から鳥栖まで乗った811系、そしてこの783系。これらは全て工業デザイナーの水戸岡鋭治氏のデザインした車両である。JR九州の列車の殆どに水戸岡氏のデザインのエッセンスが含まれている。JR九州で水戸岡デザインでない車両を見つけるほうが難しいと思う。水戸岡デザインでない車両は、地方交通線の気動車くらいしかないのではないだろうか。私は水戸岡氏の車両デザインが嫌いなわけではないので(座席は勘弁してほしい)そこまで困ることはない。
 ハイパーサルーンを見送ると、いよいよ目当ての車両がやって来る。813系、鮮やかな赤色が眩しい。こちらも、水戸岡鋭治のデザインした車両形式だ。

鳥栖(9:50)→香椎(10:35)

これは鳥栖から乗ったのじゃないけど参考までに

 車両に乗り込む。車内は灰色を基調とした落ち着いた空間であったが、その中でドアだけが赤く塗られていた。満員電車の時に、ドアの位置を分かりやすくするためだろうか?
 車内を見回すと、やけにドア周りが広いことに気が付く。床には四角い跡がついており、座席を1列分撤去したのだと分かる。全席クロスシートで博多に突っ込むため、混雑が物凄いのかもしれない。朝ラッシュとクロスシートは非常に相性が悪く、すぐ満員でギュウギュウになってしまう。その対処として、多少荒業ではあるが、座席を撤去したということだろう。

四角い跡が見える

 鳥栖で乗り込んだ時点で2席とも空いているクロスシートは無かった。できることなら、相席は避けたかった。仕方なく、元々座席のあった場所に寄りかかった。そこには人の腰ほどの高さの、白い台があった。空いている時間帯なら、カバンをそこに置いて中をまさぐることができる。怪我をしないようにかまぼこ状に作られていて、頑張れば尻の片方をそこに乗せて腰掛けることもできた。

横20cmくらい、縦35cmくらい

 列車は福岡市以南の人口稠密な地帯を駆け抜ける。西鉄と競合しているからだろうか、快速はかなりスピードを出す。快速で2つ隣、原田まで出ると福岡県に突入する。依然として乗客は減らない。鹿児島本線沿線の人口の多さを物語っている。
 大野城や春日あたりまで来ると、さらに乗客は多くなる。クロスシートにも相席が目立つようになる。ついに博多に到着すると、一気に乗客が降車する。クロスシートにも空きが生じる。タイミングを狙って、クロスシートに座ることができた。
 座ったと言っても、博多から香椎までの距離は短い。10分ほど乗車して、香椎駅に到着した。

香椎(10:39)→西戸崎(10:58)

これも水戸岡デザイン

 香椎駅は鹿児島本線と香椎線との乗換のできる駅だ。香椎駅での乗り換え時間は4分。香椎線のホームには跨線橋を渡る必要がある。待っていたのは819系、全国でも珍しい蓄電池車両だ。
 架線を張らない非電化路線は、基本的に気動車が使用されることが多い。しかし、都市部に程近く、電化路線で乗り換えができる路線は、その駅で電気を充電し、非電化区間を走る蓄電池車両を使用する事例が増えてきている。香椎線以外では、栃木県の烏山線などがそれに該当する。元々走っていた車両が老朽化したりすることによっても蓄電池車両への置き換えが進む。香椎線には車齢の古いキハ40・47が投入されていたが、蓄電池車両の登場で置き換わった。香椎線の蓄電池車両である819系は、「DENCHA」という愛称が与えられている。Dual ENergy CHArge trainの略らしい。
 車両に乗り込むと、やはり水戸岡イズムが全開の、細かい柄のあしらわれた座席と床面が見える。外装は白色と青色のシンプルなものだが、内装は結構派手だ。床はQRコードの様な模様が敷き詰められているが、右上・左上・左下の大きな四角が正常でないので、読み取ることはできない。また座席も、木の板に薄い座布団を張り付けたようなものだった。ロングシートの端には後頭部を支えるためのヘッドレストが付いており、その点は評価できる点だった。

QRすぎるだろ
目がチカチカする

 車両に設置されている液晶ディスプレイを見ると、充電していることを示すアニメーションが表示されていた。架線から車両に搭載されている蓄電池に充電されている様子が良く分かる。このディスプレイは、列車が動き出すと次駅を表示するようになる。

わかりやすい

 香椎を出ると、香椎線は和白・奈多・雁ノ巣あたりまではよくある住宅街の景観の中を走る。特に和白なんかは西鉄と乗り換えができる駅で、車両の中からでも栄えているさまを確認できる。
 雁ノ巣駅を出ると、建物が一気に無くなる。先頭の景色が一気に開ける。九州本土と志賀島を結ぶ陸繋砂州、海の中道に入る。私は海の中道を通るのが初めてで、香椎線からの車窓について、両側に海が見えて「ひゅ〜」と散眼をしなければならないのかと思っていたが、実際は砂州ということもあって、片方は砂丘が連なっており、まともに海が見えるのは片方のみだった。

福岡市街

 マリンワールド海の中道の最寄り駅である海ノ中道駅を抜け、終点の西戸崎まで乗車する。前日の西唐津しかり、終点に乗換駅が存在しない盲腸線は終点まで乗っておきたい欲がある。それが遠隔地にあるならなおさらだ。
 西戸崎駅に到着する。陸繋砂州の、すこし太い所にできた集落だ。志賀島からもほど近い。

さいとざき

 西戸崎は、博多からフェリーで志賀島へ行く際の中継地点でもある。海辺まで行くとフェリーの発着場があるようだが、あまり時間がないので今日は見送る。正直、西戸崎には香椎線を乗り潰すためにやってきたので、これといって西戸崎で何か行動する予定はなかった。駅名標や蓄電池車両の撮影にとどめて、香椎から乗ってきた車両にそのまま乗って香椎まで戻ることにした。

架線がない

 香椎線は非電化区間だから当たり前なのだが、明らかに電車の顔をした車両が非電化の線路の上にあるのが奇妙で面白かった。

西戸崎(11:09)→香椎(11:29)
香椎駅(11:29→11:51)

西戸崎駅から見える景色

 同じ区間を、同じ時間帯に、同じ車両で移動するので、目新しさはそれほどない。そういえば、蓄電池車両の乗り心地は普通の電車と何ら変わらない。それが電車であると思い違うくらいには快適だ。それに西戸崎駅には架線が存在していなかった。香椎~西戸崎の往復分の電力を、香椎駅で既に充電していたようだ。
 乗車中は、ずっと南側の車窓の見える位置に座っていた。そっちの方が、海が良く見えるからだ。反対側は砂丘が連なっているだけで、あまり面白くはない。
 海の向こうに福岡市街が見える。雑木林に海岸線が隠され、それが終わると住宅街に出る。次第に道路や建物が大きくなり、香椎駅に到着する。
  香椎駅は福岡市東部の交通結節点であり、駅にはJR九州の運営する商業施設である「えきマチ1丁目」が併設されている。跨線橋にはえきマチ1丁目に繋がる改札機があり、駅前にはロータリーが存在し、バスがひっきりなしに発着している。
 駅の改札を抜け、ロータリーの中程から駅舎全体を見てみる。駅舎は非常に現代的だが、エスカレーターや階段の設置されている部分の屋根の柱や梁は朱色に塗られ、さながら神社の鳥居のようになっている。

近未来の鳥居かも

 香椎駅の近くには香椎宮という大きな神社がある。九州北部には、香椎宮を始めとして、宗像神社、太宰府天満宮、宇佐八幡宮など、巨大な神社が多く存在する。これはヤマト王権時代の「日本の端」が九州北部であったためであり、日本の国体を護るために巨大な神社を建立しまくったらしい。香椎駅のミミクリー鳥居は近所に香椎宮がある関係で設置されているのだろう。実際には香椎神宮駅が香椎宮の最寄りだが、香椎神宮駅は普通の駅舎で普通の雰囲気だ。ちなみにJRには香椎神宮駅が、西鉄には香椎宮前駅が存在するが、それぞれ香椎神宮駅は香椎宮の本宮に、香椎宮前駅は頓宮に近い。

でかくてうれしい

 香椎駅は鹿児島本線と香椎線の交差する駅であるため、その分発車標も大きい。各方面へ向かう列車が、それぞれ2本分表示されている。なかなかに壮観だ。
 小腹が空いてきたので、駅に併設されたファミリーマートでファミチキを購入した。熱い油の溢れるファミチキは当たりだ。そうでないものは外れだ。今回のファミチキは当たりだったが、油で手が汚れてしまった。

香椎(11:51)→宇美(12:22)

 香椎線は香椎駅で運行系統がほとんど完全に分離されている。西戸崎方面では香椎↔西戸崎のピストン輸送、宇美方面では香椎↔宇美のピストン輸送を行っている。蓄電池車両の導入される前は香椎駅を通り抜けて、全線を直通する運用が頻繁にあったようだが、現在ではそのような運用はごく一部に限られている。昼間はほとんどピストン輸送だ。
 香椎駅で充電している車両に乗車する。非電化路線を走るとはいえ、充電をしなければならない関係で屋根にはパンタグラフが付属している。このパンタグラフは、走行中は格納されている。気動車が通り抜けることを想定して建設されたトンネルでは、パンタグラフを上げたままで通ると色々と不都合が生じる。

充電中

 香椎駅を出て南、香椎神宮・舞松原・土井あたりまでは住宅街の中を走る。この辺りは福岡市東区で、人口が非常に稠密な地域だ。土井駅では九州新幹線がオーバークロスする様子が確認できる。土井を出ると、少し建物の密度が低くなり、田んぼと住宅の混じったような地帯を駆け抜ける。
 香椎線香椎以南の走る粕屋町・須恵町・宇美町はすべて糟屋郡に属しており、糟屋郡は福岡市が近い関係で、人口が非常に多くなっている。しかし福岡市の都市化が今よりも進む前は、糟屋郡の人口も少なく、上記3町に隣接する志免町に通っていた国鉄勝田線は利用者人口が少ないことから廃止されたが、廃止間際には福岡市の都市化に伴って沿線人口が増加していた。勝田線の廃止された後は同町を西鉄バスが走っている。志免町の人口は46000人を超え、単独市制施行を行えるラインである5万人を突破しようとしている。
 車内は常に乗客がある程度いて、若者から高齢者まで年齢層は幅広い。香椎線が沿線住民にとって非常に重要な交通インフラであることが分かる。須恵町・宇美町まで来ると再び建物が多くなり、客の乗降も多くなる。終点の宇美駅は規模こそ小さいものの、降車する客は多かった。

宇美駅、棒線駅

 宇美駅はホーム1面、線路1線の棒線駅であるが、ホームに面している線路の奥に、もう1つ線路とホームのあった空間が確認できる。おそらく香椎線の全盛期には、線路とホームがもう1セットあり、列車で賑わっていたのだろう。

あるやん

 というか宇美駅のすぐそばにある踏切に、埋められた線路の跡が確認できる。今よりも香椎線がにぎわっていた時代に思いを馳せることができる。
 宇美駅の駅前にはロータリーがあり、その周りを緑色のアスファルトが囲っている。緑アスファルトの上にはスクールIEがあり、夕方には学生がここに入っていくのだと想像することができる。道路は乗用車やトラックで賑わっているが、一つだけ車の通れないように柵が設置された細い道がある。これこそが先述の国鉄勝田線の廃線跡で、現在は遊歩道として活用されている(写真撮るの忘れてしまいました)。

宇美駅の外観

午後

宇美(12:35)→(12:50)長者原(13:06)→博多(13:17)

 宇美に到着した蓄電池列車に乗り込む。すっかり香椎線は蓄電池車両の路線となって、昔懐かしいキハ40・47はもう来ないようだ。
 昼間でも香椎線の車内はにぎやかだ。座席が全て埋まり、立客も所々に確認できる。これは行きで見たものとほとんど同じ光景だ。しかし、今回は行きと違う箇所がある。香椎線の途中駅、長者原駅で篠栗線(福北ゆたか線)に乗り換え、そのまま博多に向かうことにしていた。
 長者原駅で降車する。香椎線のホームは2階に設置されており、見晴らしが少しだけ良い。ホームの途中にある階段を降り、福北ゆたか線のホームに移動する。長者原駅は、2つの路線のホームが直交する形で配置されている。その構造はまるでJR東日本の新松戸駅の様だ。

上の渡り廊下みたいな場所が香椎線のホーム

 しばらく待っていると、博多行きの列車がやってきた。「福北ゆたか線」と書かれた817系の4両編成の車両だ。

黄色

 817系は九州の至るところで走っており、走る路線ごとに車体の差し色が決まっている。福北ゆたか線のラインカラーは黄色なので、黄色の差し色が入る。
 車内はかなり混んでおり、座席は全て埋まっていた。仕方がないのでドアの脇に立ち、ドアの窓から福岡の景色を見た。途中の柚須駅は福岡空港が近い関係から飛行機のジェット音がよく聞こえ、同じく空港の近い地元を少しだけ思い出した。
 柚須を抜けると、建物がどんどん高密度に、どんどん高層になっていく。福北ゆたか線が高架の吉塚駅で鹿児島本線と合流するために、吉塚駅の手前辺りから段々と高架になっていく。その時の浮遊感が、どこか小気味よかったのを覚えている。乗客は依然として多い。最後まで座席が空くことはなかった。結局、終点の博多まで立っていた。

博多(13:23)→久留米(13:58)

 香椎線の全区間に乗車したので、いよいよ我が故郷である大分に帰省(かえ)ることにする。博多から大分に向かうルートはいくつかある。13時台に博多から出発した場合、小倉まで行って日豊本線で大分に突入するルートか、久留米まで行って久大本線で大分に突入するルートが選べた。他にも熊本・鹿児島・宮崎を経由する九州一周ルートも考えられるが、時間がなさすぎるので今回はやめておく。現実的に考えれば、小倉経由ルートが一番合理的で早く移動できるが、今回は少しだけロマンを求めて、久留米経由ルートにした。九州の内陸は起伏に富んだ地形をしており、そこを横切る路線の車窓は場所によって様々な顔を見せる。その様子を見たくて、久大本線に乗ることにした。

同じ種別、同じ路線、同じ区間、同じ型式

 博多駅を13:23に出る快速久留米行きに乗車する。先ほど鳥栖から香椎まで乗った車両と同じ形式の車両が、同じ種別でやって来た。目新しさはそれほどなく、今回も博多からしばらくは立たざるを得なかった。しかし、春日・大野城・二日市と、福岡のベッドタウンを抜けていくにつれ、乗客はどんどん降りていき、ついに座ることができた。二日市は博多と久留米のほぼ中間に位置する駅だが、二日市に来るまでは快速はかなり飛ばしていた。体感として100km/hくらいで走っていたが、速度計を見るとやはり100km/h超で走っていたようだ。

充電した方が良い

 二日市を出てから、やけに西陽が強くなってきた。鉄道の不規則な揺れが、微睡みに誘う。原田に着くまでに眠ってしまったようだ。鳥栖に着いた記憶がない。気が付いたら久留米駅に着いていた。私以外の乗客はほとんど降りていた。

久留米駅と昼食(13:58→15:14)

オシャレかも

 久留米市は福岡県南部の中心的な都市で、福岡県内では福岡市・北九州市に次いで第3位、約30万人の人口規模を有している。筑紫平野の中では佐賀市よりも人口が多く、新幹線の駅も存在する。実質的な筑紫平野の中心都市となっている。
 久留米駅はレンガ状のタイルを各所に配したデザインで、全体的にお洒落な雰囲気が漂っていた。番線表示も、透明のプレートに番線と方面が書かれたものとなっていてかなりお洒落で良い。

でかい

 久留米駅の構造は、線路の上に連絡通路が架けられ、その途中に改札や売店が設置されているという、一昨日行った清水駅や、8月に行ったいわき駅のような構造だった。天井は高く半円状になっており、非常に開放感がある。そして連絡通路の時点でも分かる暑さ。ウェザーニューズで確認してみると、32℃ほどもあるらしい。いまこの文章を執筆している2023年7月は既に爆熱で、連日35℃に達するような暑さのために32℃と聞くとむしろ安心するまであるが、この久留米の32℃は空気が滞留してむせ返るような暑さだったと記憶している。

半円状の屋根

 久留米駅の外観はこんな感じだ。半円状の屋根が非常に高く、大きく目立っているのが分かる。流石筑紫平野最大の都市なだけあって、駅前はよく整備されている。少し閑散とした印象もあるが、それは久留米市の中心的な駅がJR久留米駅ではなく西鉄久留米駅だからだろう。JRよりも私鉄が強い構図は、三重の四日市を彷彿とさせる。
 閑散としていると言っても、駅前のロータリーにはバスが常に待機しており、売店や飲食店もちらほらあった。
 どんなに暑くても腹は減る。香椎でファミチキを食べてはいたが、ファミチキ1つで腹は膨れない。博多あたりから、久留米で昼食を探そうと決めていた。久留米は豚骨ラーメンの発祥の地らしく、市内には有名な豚骨ラーメンのお店がたくさんある。久留米駅前にもあるらしく、そこに行くことにした。

昭和29年創業

 来福軒は久留米駅東口に店を構えている。駅から非常に近く、見つけやすい場所にある。店内はいたって普通のラーメン屋という雰囲気だった。キャリーケースを入口付近に置き、食券を購入し店員に見せる。地元のテレビの音を聞きながら、ラーメンの届くのを待つ。

チャーシュー麺

 私はラーメンを食べる際き決まってチャーシュー麺を注文する。数多ある豚肉料理の中でチャーシューが一番好きかもしれない。普通のラーメンよりも少し値は張るが、チャーシューのない寂しさに比べれば追加の100円や150円くらいどうってことはない。願わくば、毎日チャーシューを白米の上に載せて食べたいくらいだ。
 黄金色に輝くスープは、久留米ラーメンにしてはあっさりとしており、塩辛すぎない。それでいて脂はしっかりとしており、麺によく絡み、食欲を掻き立てる。チャーシューもよく煮込まれていて柔らかい。カウンター席には紅生姜が常備されており、いつでもラーメンに追加することができる。
 しばらくラーメンを食べていると、注文していたもう一つの品が来た。

チャハ

 注文していたチャーハンが来た。程よくパラパラしていて、塩気も丁度よい。ラーメン屋のチャーハンは肉にチャーシューを使うので、家で作るチャーハンよりも美味しくなる気がする。付け合せのたくあんもアクセントになって良い。
 豚骨ラーメンの店に来たら、決まってチャーシュー麺とチャーハンを食べている気がする。チャーシューは大体3枚以上丼に載るので、2〜3枚はラーメンと一緒に食べ、残りはチャーハンに載せて食べるのが好きだ。もちろん来福軒でもそうした。
 冷房の効いた来福軒を出ると、とんでもなく暑い外気が待ち受けていた。猛暑というよりは爆熱という言葉が似合うほど、天から、地から熱が放射されてくる。どうにか口だけでも涼しくしようと、コンビニで涼しげなミントのイラストの描いてあるガムを買った。息を吸い込むだけでも涼しく感じたので、幾分かの気休めにはなった。

とんこつラーメン発祥の地

 駅前のロータリーにはとんこつラーメン発祥の地のモニュメントが飾られていた。ラーメンを提供する移動式屋台の像が、ジリジリと照りつける太陽光を受けて輝いていた。手を触れれば火傷しそうだった。

久留米市章

 地面に視線を落とすと、久留米市章の刻まれた蓋があった。全国には自治体が1747存在し、そのそれぞれに自治体章が設定されているが、中でも久留米市章は秀逸で、私の最も好きな自治体章の一つである。
 9(ク)つの「ル」が「米」を取り囲んで、久留米を表現している。6つの「ロ」が「ネ」を囲んでいる根室市章や、「フ」が9つ組み合わさって「福」を表現した福岡市章など、カタカナを複数組み合わせた自治体章は多いが、久留米市章ほど芸術点の高いものは見たことがない。

久留米(15:14)→日田(16:16)

水戸岡特急の最高傑作

 久留米駅のホームに戻ってみると、けたたましい音を鳴らしながら列車が入線してきた。音からして気動車だ、電車ならこんなやかましくない、と思いつつ眩しい方向を見ると、緑色に輝く列車が見えた。キハ72系、観光特急「ゆふいんの森」のために造られた気動車だ。デザインはドーンデザイン研究所、水戸岡鋭治を中心としたデザイン事務所だ。
 水戸岡特急の最高傑作、九州の至宝、走る芸術作品…… キハ72に向けての褒め言葉は口から出て尽きることはない。間違いなく観光特急の中でトップクラスに素晴らしく、外観・内装共に良い。見かけると由布院の豊かな自然が思い出される。ゆふいんの森は、久留米から大分・別府を結ぶ、久大本線の特急列車だ。座席の位置が高く、勇壮な車窓を堪能できる。できることなら、これに乗って最高の久大本線を堪能したいが、今回私が使っているのは青春18きっぷ。特急列車に乗るには、別途に久留米から大分までの乗車券と、ゆふいんの森に乗るための特急券が必要だ。
 今回私が乗るのは、普通の気動車だ。キハ200系、赤い車体が緑に映える、水戸岡デザインの車両だ。

かっこいい顔してる

 1両編成の車内には、学校帰りの小学生や年配の乗客など、まさに「生活路線」としての久大本線の様相があった。
 久大本線のうち、福岡県内は筑後川沿いの非常に平坦な平野部を走るため、スピードをどんどん出してどんどん乗客を入れ替えていく。
 田主丸あたりまで来るとにぎやかだった車内も落ち着きを見せてきた。静かに気動車に揺られ、傾き始めた晩夏の太陽に照らされながら、いつの間にか眠ってしまっていた。
 気がつけば、筑紫平野の広大な車窓ではなく、すぐそばを川が流れる車窓になっていた。筑後川が大分県に入って三隈川と名前を変えて流れている。重巡洋艦の名前にもなった三隈川は日田盆地を形成する。日田盆地には約6.5万人の日田市街地が形成される。日田は大分県西部の中心都市であるが、鉄道の利便性などから、広域的な視点で見れば福岡方面への人口移動が多い。光岡駅まで出ると、すっかり日田市街だ。ほんの数分で日田駅に到着する。

三隈川

日田駅前散策(16:16→16:48)

 日田駅で列車を降りる。16時を回って少し涼しくなったのかもしれないが、夏は暑く冬は寒くなるという盆地の気温デバフのせいであまり涼しくなったようには感じられなかった。線路の中に作られたホームに降り立った。線路が何本も設置されていて、日田彦山線の発着していた往時が偲ばれる。日田彦山線は日田駅の2駅隣、夜明駅で久大線から分岐している路線だったが、近年頻繁に発生する集中豪雨のせいで路盤や線路が流失したために夜明から途中の添田までの線路を撤去し、その跡地をJRの運営するバスに転換するというBRT方式を採択した路線である。鉄道の走る路線としての日田彦山線は短縮され、夜明~添田は汽車で通り抜けることができなくなった。夜明駅は分岐駅であるため実質的な終点は日田駅だ。日田駅は昔、久大本線と日田彦山線の乗り入れるターミナルだったが、その面影はもうない。
 駅を見回すと、改札口に繋がる跨線橋が存在しない。どうしたものかと更に探してみると、ホームの端に下に下る階段があるのが、更に奥にはエレベーターがあるのが確認できる。私は重たいキャリーケースと常に移動している為、エレベーターがあると非常に助かる。キャリーケースを抱えて階段を上り下りするのは、意外に骨が折れる。有難くエレベーターを利用して、改札のあるホームに出た。
 改札ホームは改札があるだけあって、よく整備されている様だった。ホームには『進撃の巨人』に登場するリヴァイ兵長の巨大なタペストリーが掲げられており、異様な存在感を醸していた。

2メートルくらいある

 日田市は週刊少年ジャンプで連載されていた『進撃の巨人』の作者である諌山創先生の出身地である。そのため日田駅周辺や日田市内には『進撃の巨人』のキャラクターが描かれたタペストリーやパネルが点在している。

 日田駅の駅舎は黒色で統一されており、清潔感があった。所々に木の素の色を使用した部分があり、駅前には「H TA」のモニュメントがあり、「I」の部分が抜けていた。おそらくIの部分に立つことができ、記念撮影を撮れるのだろう。私は一人旅の最中で同行者がいなかった上、誰かに話しかけるのもこっ恥ずかしかったので、写真は撮らないでおいた。誰かが話しかけられてくれれば撮っていた。
 またロータリーのすぐそばには『進撃の巨人』のリヴァイ兵長の小さな銅像が立っていた。例えば大分駅には大友宗麟やフランシスコ・ザビエルの銅像があるが、そのノリでリヴァイ兵長がいるのだ。有名な漫画家の故郷に特有な、シュールな光景だった。

兵士長らしい 漫画読んでないのでわからん

 とにかく日田は『進撃の巨人』が町中に浸透している印象だった。日田市を中心として営業している日田バスのバスターミナルが駅前にあったが、昭和末期~平成初期の雰囲気を残した屋内にも『進撃の巨人』のパネルが飾ってあった。

わたしたちの銅像ができたらしい

 バスターミナルの天井からには病院の広告が多く提げられており、バスを主に利用する高齢者層へ向けた広告であることが分かる。掲げられている張り紙を見ると「福岡のイベント情報」や、路線図にも日田バスターミナルと福岡空港を結ぶ高速バスの案内があったため、日田市は大分県にありながら福岡県とのつながりが特に強い地域であることを実感する。
 また駅前にはドラッグストアモリがあった。私の大分の故郷にはドラッグストアコスモスしかなく、モリを見るのは初めてだった。駐車場には地元の車がちらほらと停まっており、午後4時台でもにぎわっていることが分かる。

黄色の色合いが良い

 店内はいたって普通のドラッグストアという感じだったが、特別目を引いたのは日田市が販売しているゴミ袋だ。私の地元は指定のゴミ袋が無く、どんな袋で捨てても良い地域だ。指定されたゴミ袋にゴミが捨てられ、大きく膨らんだゴミ袋がうず高く道路の脇に積みあがっている様に、一種の憧れを覚える。

日田(16:48)→豊後森(17:37)

 久大本線の運行系統は日田駅でほとんど分断されている。日田駅から大分駅まではぶっ通しで約3時間走り抜ける運用がある。私はそれに乗ったが、それを全て書いてしまうと長すぎてしまうので、豊後森で分割することにする。
 日田駅での乗り換え時間は30分だ。そろそろ乗る予定の列車に乗らねばならない。これを逃してしまうと、予定を合わせて車まで出してくれるというじいちゃんとばあちゃんに申し訳ない。当初はバスで家の近くまで行こうとしていたが、車を出してくれるのなら、その言葉に甘えるしかない。その心遣いが、純粋にうれしかった。
 日田駅に停まっていたのは真っ黄色に塗られたキハ125系だった。前日に唐津から伊万里まで乗ったのとおなじ型式だ。車内は空いてはいなかったが、誰も座っていないボックス席があったので、その窓側の席に座り、発車を待っていた。発車の直前には同じボックス席にバックパックを背負った壮年の男性が座ってきた。互いに干渉はしない。一人の旅行者が二人座っているだけだ。
 列車が動き出す。三隈川の流域はまだまだ続き、車窓を彩る。ときたまトンネルが視界を遮る。携帯電話の電波が入らなくなる。この頃の私の形態キャリアは楽天モバイルだったので、建物が確認できないような山奥ではまず入らない。楽天モバイルはたまに地下鉄の中でも電波が入らなくなってしまう脆弱な回線だ。「どうにかならないのか」と楽天ショップで聞いたことがあるが、「元々弱い回線だからどうしようもない」と言われてしまったことがある。
 しばらく筑後川の河原を走ると天ヶ瀬駅に着く。相席していたバックパックの男性は天ヶ瀬で降りて行った。おそらく登山客なのだろう。天ヶ瀬は元々独立した町だったが、平成の大合併で日田市になった。

天ヶ瀬駅に停車するキハ125系大分行

 天ヶ瀬は温泉で有名な町だ。三隈川は天ヶ瀬に来るまでに分岐して大山川と玖珠川になる。久大本線は玖珠川に沿って走り、天ヶ瀬駅も天ヶ瀬温泉郷も玖珠川沿いにある。駅は最近になって改築されたらしく、ホームやベンチが新しかった。単線の久大本線の中でも交換設備があるくらい大きな駅で、この時も交換を行うために長めに停車した。天ヶ瀬には特急も停まるらしく、丁寧に乗車位置のステッカーが貼られていた。

玖珠川

 天ヶ瀬の隣、杉河内駅を出ると一気に開けてくる。玖珠川沿いに広がる玖珠盆地だ。車窓が一気に広がり、山が遠くなる。稲刈りを待つ稲穂が青々とした色から段々と黄金色になるのが分かる。しばらく走ると北山田駅に到着する。青地の、おそらくホーローでできた駅名標と、年季の入った駅舎が非常に印象的な駅だ。

北山田駅

 北山田駅を出、玖珠盆地の中をひた走る。遠くの山の中で、ひときわ目立つ山を見つけた。ある程度の斜面の後に、山頂部分が真っ平なのだ。高知の鳥形山のように鉱山採掘で山頂が削れたのか、と思い地図を開くも、そのような形跡はない。まるでサン・テグジュペリの『星の王子さま』に出てくる「ゾウを丸呑みにしたウワバミ」のような形だ。とにかく異質な山容だ。目立つ。標高685.4メートル、伐株山だ。

伐株山

 伐株山の名は、その山の形が切り株の様であったことから名づけられたのだと思っていたが、どうやら由来はもっと深いらしい。伐株山は元々巨大なクスノキの根本だったらしく、巨大であるがために周辺に日光が届かず住民は困っていたという。木こりの大男が巨大なクスノキを切り倒した跡が伐株山となったらしい。これが木の根元なら、全体はどれほど大きなものであったのだろうか。想像が膨らむ。実際には硬さの違う地質のうち、柔らかい地質だけが風化で消滅したメサ台地らしいが、ここまで綺麗なメサ地形は中々見られない。
 伐株山を脇目にどんどん走ると、豊後森駅に到着する。玖珠町の中心部に位置する駅で、周辺には建物も多い。そして何より、豊後森駅には豊後森機関庫が存在する。

豊後森機関庫

 豊後森機関庫は現代日本では中々お目にかかれない扇形の機関庫である。扇形の建物の中央には転車台が存在し(現在は転車台が撤去され蒸気機関車が飾られている)、放射状に配置された線路に機関車が入るようになっている。現在は(というか結構前だが)久大本線の無煙化が完了しているため、豊後森機関庫が利用されることはない。建物上部の窓ガラスが所々割れているが、これは終戦間際の米軍の機銃掃射によるものであり、戦後しばらく使われていたが修繕がなされていない。往時の戦争の激しさを物語るレガシーとして非常に重要なものである。
 豊後森の隣駅の恵良駅からは、肥後小国まで伸びていた国鉄宮原(みやのはる)線が分岐していた。廃止されて久しいが、宮原線のほとんどは恵良駅を通り抜け豊後森駅まで到達していたという。豊後森機関庫は久大本線だけでなく、宮原線の機関車も捌いていたのだろうか。経験したことのない、昔々の出来事に思いを馳せる。

豊後森(17:37)→大分(19:30)

ぶんごなかむら

 恵良の隣、引治あたりから段々と玖珠盆地を抜けて山奥に入る。恵良も引治も、その隣の豊後中村も九重町に属する街でだ。九重町はくじゅう連山に町名が冠されるほどに山深い町で、町内の九重”夢”大吊橋は、歩道専用の吊橋としては日本一の高さを誇る。山深い分人口は少なく1万人に満たない。集落は久大本線の通る野上川沿いに多く存在する。

キハ220形

 豊後中村の隣駅の野矢で列車の交換を行う。キハ220形、シーサイドライナー。ライトの上に書かれた「SSL」はシーサイドライナーのイニシャルで、元々は長崎県の大村湾沿いを走るJR大村線の車両であったが、2021年のダイヤ改正から久大本線・豊肥本線一部区間・三角線・指宿枕崎線を走るようになった。
 野矢駅を出ると長いトンネル区間に差し掛かった。水分峠。広島県に同じ漢字で書く水分峡があるが、広島の水分峡は「みくまりきょう」であるのに対し、大分の水分峠は「みずわけとうげ」と読む。雨水がその峠を境に別々の川に流れ出すから水分峠と名付けられたのだろう。水分峠は、そこを境に筑後川水系と大分川水系が分岐する場所だ。
 水分峠を抜け、いくつかの小さいトンネルを通ってやっと視界が開ける。大分川の中流域に広がる由布院盆地だ。ここは由布院。別府に並ぶ日本一の温泉郷だ。
 由布院には由布院温泉だけでなく、もう一つ巨大なシンボルが存在する。

超目立つ

 由布岳は由布院盆地の北東部に位置する標高1583.3メートルの山だ。由布院温泉郷ならどこからでも見ることができる。山頂が二股に分かれているのが特徴で、久大本線は由布岳に向かうように伸び、由布院駅あたりでUターンし、由布岳から離れるように走る。したがって列車の正面に由布岳が見えるような構図になり、座席からはあまり良く見えない。写真はギリギリ見えた由布岳だ。
 由布院駅で由布院行き列車の待ち合わせをする。由布院駅は大きな駅で、列車の交換機能がある。大分から出る久大本線は、半分くらいが由布院を終点にしているイメージがある。
 久大本線は由布岳を進み、さらに大分に近づく。大分に近づくにつれ、どんどん暗くなる。太陽は沈み始め、あたりは夜になろうとしている。由布院駅以東の駅は交換設備を持っている駅が多く、交通量の多さを物語っている。
 しばらく乗車すると、小野屋駅に到着した。ここでも列車の交換が発生するようだ。しばらく待つ。ほとんど車窓は暗くなって、自分の顔くらいしか映らない。十数分待つが、交換予定の列車が来ない。どうしたものか、と乗換アプリを開き小野屋駅での停車時間を確認する。26分。列車1本と交換するのに26分。おそらく小野屋から先の区間に丁度いい交換可能駅がないのだろう。仕方がないので待つことにした。

小野屋駅

 小野屋駅を出る頃にはすっかり暗くなっていた。しかし小野屋駅を出ればもう早い。大分平野に入っていく。南大分に着く頃には住宅の灯りがちらほら見え始め、大分駅に着く直前には高架になり、煌びやかなホテルの電飾で車窓はにわかに明るくなる。19時30分、大分駅に到着した。

3年ぶりの再会

故郷

 ばあちゃんとのLINEによれば、じいちゃんと一緒に大分駅で待ってくれているそうだ。19時30分に大分駅に着くことを伝えていたため、待っているはずだが、南口に出てもじいちゃんの姿は見当たらない。ばあちゃんは家で食事の準備をしてくれているらしい。じいちゃんとばあちゃんの家、ここからは実家と呼ぶが、実家は大分駅の南側にあるため、南口にいるはずだ。探してもいなかったので仕方なくコンコースに戻ると、ベンチに座っているじいちゃんを見つけた。3年ぶりに再会したじいちゃんは、前に会ったときよりもシワが深く、心なしか小さくなっているように見えた。ばあちゃんが毎月私宛に手紙をくれるからじいちゃんの様子は大体把握していた。毎日日本酒を飲んで、夜の早い時間帯に寝てしまうらしい。日本酒を飲めているなら、体調に心配はなさそうだ。 元気なうちに会えて、本当に良かった。
 じいちゃんの車に乗り込む。社内はラジオがついていた。30分ほど他愛のない会話を交わしながら、実家に戻る。余談だが、この旅行の2週間後に家族で実家に帰省した。その時には私は20歳になっていたので、父親と叔父とじいちゃんと酒を呑んだ。かねてからの夢だった、「じいちゃんと酒を呑む」を達成することができた。
 実家では、ばあちゃんが鶏天を揚げてくてれていた。何年関東にいても忘れられない、故郷の味だ。他にも大葉やサツマイモの天ぷらが用意されていた。机には、私や従姉妹の小学生の頃の写真が透明なテーブルクロスの下に挟まれていた。じいちゃんとばあちゃんは、一日たりとも私を忘れることはない。
 二階に上がって窓の外を見る。大分に居た頃と変わらない部分と、商業地の造成で変わっている部分とが明瞭に分かった。不可逆な時間の流れに、少し寂しくなったりした。
 風呂に入る。一日中列車に乗って移動していただけとはいえ、久留米の爆熱や日田の籠るような暑さを経験していたし、汗を人並み以上にかく体質なので、一刻も早く風呂に入って汗を流したかった。 柄の刻まれた床、水圧の弱いシャワー、風呂上がりの扇風機…… すべてが懐かしかった。
 風呂に上がり、明日の分の荷造りをした時点で、22時を回っていた。じいちゃんとばあちゃんに迷惑はかけまいと、早い時間に寝た。畳の部屋の天井には、会ったことのないひいじいちゃんとひいばあちゃんの写真が掲げられていた。旅の安寧を見守ってくれているようだった。

【次回】6日目→準備中

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