世界の解像度を高くすること/すべてを抱えて死ぬということ
世界の解像度を低くすることでしか自分を守ることができなかった。いつだって、嫌なことから目を背けて、見ないようにして自分を守った。とても狭い狭い世界でひっそり息をしていた。その世界しか知らなければ、息苦しいと思うこともなかった。
༝ ༝
でも、それは苦しくはなくても、満足はしていても、とても勿体無いことだ。と今は思える。どこまでも青く澄んでいる海やどこまでも続く広い空を知らない井戸の中の蛙は可哀想だ。救い出してあげたいと思う。人生は有限なのだから、すべての美しいものを見てから死ぬべきだ。
であるならば、世界の解像度を高くした上で、その中から取捨選択をすることが必要だ。きたないもの、みにくいもの、わるいものを見て見ぬ振りするのではなく、向き合って、向き合った先にある強い自分とか、美しい景色とか、そういったものを大切にしたいと思う。
༝ ༝
今、人生の分岐点にいるような感覚がある。それは人生全てがここで決まると言われているようなプレッシャーだ。世界のことを知りたくないような知りたいような相反する感覚がある。人生に躓いて人生に迷っている。
正解は無いのだろう。ここで迷いをやめて仕舞えば楽になれる。楽になれるけれど、それは果たして私の人生なのだろうか。
何も知らないまま、知らない世界のままなんとなく生きてなんとなく死ぬことだけは嫌だ。何か、答えを知りたい。漂うように浮遊して生きれたらいいのに、とも思う。けど、答えを探さずにはいられないのだ。
༝ ༝
子どもの気持ちも大人の気持ちもちょっとずつわかるモラトリアムの今だからこそ、考えられることがあって、その思考は決して正しくなくても、純粋なものだ。
私はこの感覚を捨てずに生きていきたい。大人になったら子どもの気持ちがわからなくなってしまうんだろうか。普通になったら普通じゃない感覚がわからなくなってしまうんだろうか。
それは寂しい。全部残して、全部伝えて、ぜんぶぜんぶ抱えて死にたい。それは本当なら10年前からやりたかったけど、もう過去に戻ることは無理だからせめて今から。