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私の母の話をしたい

先日、保険の更新のため、車のディーラーを訪れた時のこと。
私の担当の営業さんは、車を売りつけるだけではなく、
保険の資格も取ってくれているので、
事務関係のことまで相談に乗ってくれる、頼もしい方なのだ。
今って、これが当たり前なんだろうか。
私が若い頃、車のディーラーは本当に車の事しか面倒見てくれなくて、
保険関係は外注だった。

手続きが一通り済み、
話題がなぜかうちの母の事に。
私の愛車である「ロードスター 990S」が納車になった際、
営業の彼も母に会って挨拶をしてもらったのだが、
なぜか、うちの母のファンになったそうだ。
呆れたような顔で
「点検に行って車を買ってくる人なんでいないでしょう?」
と言っただけなのだが。
どうやら、うちの母の何かが、彼のツボだったらしい。
何かというと、
「素敵なお母さんですよねえ・・・」
と、何となくうっとりと言ってくれる。

しかし、うちの母にはこういうところがある。
本人には自覚が無いのだけれど、なぜか、人に好かれてしまうところ。
それに美人の面影が残っている品のいい老婦人なのだ。

私は常日頃から、母に言っている。
「うちのお母さんは奇跡の80代だね」、と。
今年はもうすでに誕生日を迎えているため、満で81歳になる母。
毎朝5時半に起きて、私のお弁当のおかずを作り、
(お弁当を詰めるのは私自身でする。)
朝ご飯を作り、私を送り出す。
その後はこまごまとした朝の家事をして、
お昼前には買い物、
午後は少し休憩したり散歩に行ったりして、
夕方からまた食事の支度。
私が早く帰れた場合は一緒に夕食を取るが、
そうでなければ私を待たずにいつも同じ時間に食事、
そのあと片付けをしてお風呂に入って就寝。
時々、趣味の活動に出かけることもあるが、
免疫系の持病もあるし、
もともと身体もあんまり丈夫ではないため、
ほぼ、毎日、このスケジュールでの日々を過ごしている。
滅多にこのルーティンは崩れない。
というのも、リズムが崩れると体調を崩す、という理由だが、
私もほぼ同じ体質を受け継いでいるため、よくわかる。
ただ、私は意思が弱いため、
母のように毎日判で押したような生活は出来ない。
淡々と同じ日々を過ごす母、尊敬してしまう。

最近の母は穏やかに日々を過ごしているが、
父が生きていることはそうではなかった。

母は父のいわゆる「後妻」さんで、
今では珍しくもなんともないけれど、
田舎ではじゅうぶん噂のタネになる再婚組だった。
しかも、父と母は11歳も年齢が離れており、
父は坊主頭に、目が弱かったために色がついているメガネをかけ、
おしゃれな人だったので、
仕事に出かける時はびちっとスーツを着ていたし、
母も若くて美人でミニスカートなんて履いていたため、
現在住んでいる住宅に引っ越してきた際、
その当時飼っていた大きな秋田犬の雑種犬を連れて歩いていると、
「ヤクザとお妾が引っ越してきた」
と、近所で噂になっていたそうだ。

母は、父が自分の故郷へ連れてきた。
出会いは、母が地元で事務員として働く会社へ、
トラックだか建設機械だかの飛び込み営業に来たのが父だったそうだ。
当時、母が働いていた会社は、観光業から建設業までを請け負う、
母の地元では割と大きな会社だったようで、
それで父が営業に来たようなのだ。
父は若い頃、生まれ故郷から遠く離れた場所で働いており、
そこで家庭を持ったのだが、離婚。
実家には事情があったらしくて帰れず、
ふるさとの県までは戻って来たものの、直接の地元へは戻れず、
それでも県内で働いていた。
母の会社は父がいったん腰を落ち着けた県内の場所にあったのだ。
そして、父が営業に来て
なんと、地元でも美人姉妹のうちの一人として有名だった母にひとめぼれ。
毎日、母の仕事が終わるのを、
会社の外で待っていたというのだから呆れる。
断っても断っても待ち伏せしていたんだとか。
今なら立派なストーカーだし、私なら絶対に好きにならないと思うけれど、
母はなぜか、祖父の反対を押し切ってまで父と結婚し、
父の故郷まで一緒にやってきた。
どうして?と聞いたことがあるが、母の答えもふるっている。

「お父さんねえ、バックスキンのステキな靴を履いていたんだよねえ。
 お母さんもその時に新しい靴を買ったばかりだったの。」

それだけ、印象が強かったということだろうが、
歳も離れたコブ付きのバツイチの男と結婚して、
両親や姉妹と暮らしていたにぎやかな生活をひとりだけ離れ、
ひとり、父を頼りに知らない土地に来る勇気、尊敬しかない。

父と新婚だった母、とにかくお金がなかった。
父には養育費を払わなければならない子供がいたし、
破綻した結婚生活では借金はなかったものの、貯金も無かったらしい。
そして、父はお金もないのに飲食業を始める。
当時、ブームだった「純喫茶」の経営だ。
父は営業職だったが、飲食業は未経験。
母だって、客商売なんてしたことがない。
父がコーヒーの淹れ方や軽食の作り方をどこからか習って来て、
それを母も覚え、喫茶店を始めた。
そのうち、父はサラリーマンに返り咲き、お店は母が切り盛りしていた。
お店は順調で、私が2歳か3歳になるまでやっていたと思う。
繁盛していた要因は、
絶対に母の性格のおかげだと思う。
近隣の高校生の男の子が毎日のように通う人気店だったらしい。
お店をやめたのは、純喫茶のブームが去り始めていたこと、
お店に出入りする常連客のタチが悪くなってきたこと、
私はその頃、知り合いに預けられていたが(もちろんお金を払っていた)、
帰宅が夜遅くなることも多かったし、
子守り料を値上して欲しいと言われたことなどが理由のようだ。
さらに言うなら、父は付き合いで飲みに行ってしまい、夜遅くまで帰って来ない。母子家庭のような状況で私は育った。
家も建てたし、その家のローンも前倒しでだいぶ返済も済んだし、
売上が絶頂期に比べて悪くなってきたことで、
いろいろな収支がマイナスになる前にやめたのだ。
しがみつかずにパッとやめてしまうのも母のかっこいいところだ。

お店をやめた後も、母は私を自宅で面倒見ながら仕事が出来るようにと、
和文タイプの資格を取って、
家で契約のタイプライターとして仕事をしていた。
この仕事は私が中学生になるかならないかくらいまで続けていたように思う。
今はパソコンで作成するような機械の仕様書も、
私が小さい頃は手書きの文章を和文のタイプライターで打ち直して、
図面の脇に貼り付けて作成していたのだ。
仕事が立て込んでいた頃は、
私が寝た後も母が夜遅くまでタイプを打っている音が聞こえていた。
そのうち、ワープロが導入され、パソコンで図面や文章を作成できる世になると、和文タイプは斜陽となり、母もその仕事は辞めた。
和文タイプの仕事を辞めても、
余り身体が丈夫ではないのに、母は働き続ける。
父が転職を繰り返していたため、給料が上がらなかったのだ。
父の子供たちも、学生の頃、
あれを買って、これが必要だ、とよく便りを寄越したらしい。
その度にお金を工面し、何とか対応してきた。
40代の頃、免疫系の病気を発症し、
治療をしつつ、様子を見ながらもずっと働いてきた。
母が仕事をしなくなったのは還暦近くになってからだろうか。
もういいんじゃない、少しのんびりしたら、と母に言ったものだ。

父が肺疾患で余命宣告をされた頃、私はすでに嫁いでいて、
何となく実家にも帰りづらく、母に面倒を任せきりだったが、
「お母さんが結婚した相手だもの、お母さんが最後まで責任取らなくちゃ」
とよく言っていた。
はっきり言って、夫婦としては破綻していたが、
母は結婚した以上、具合の悪い人を見放すにはいかない、という責任感だけで一緒に過ごしていたと思う。
自分のことを棚に上げて言うが、
離婚する人間にはやっぱり何かしら原因がある、のだ。
相手に原因がある、という反論もあるだろうけれど、
その相手はまさしく「原因がある」のだから。
父は悪い人間ではなかったが、
結婚生活には向かない、強烈な人間だった。
それでも、家族がいたまま仏様になれたのは、
偉大なる母のおかげだと断言する。

父から解放されてのびのびした母は、
しばらく一人で暮らしていたが、
私が出戻ったため、母子家庭での生活となった。
少しの間とはいえ、一人暮らしをしていた母、
少しワガママになって、少し忘れっぽくなっていた。
お料理も昔に比べて面倒になったとかで、
あまり凝った料理もしないけれど、毎日一生懸命献立を考えてくれる。
私が大好きなミュージシャンのことも結構、理解していて、
誘えば一緒にライブ映像を見たり、一緒にyoutubeを見たりして、
いい曲ね、いい歌ね、と感想を言ってくれたりする。
最近のお気に入りはサカナクションとSUPERBEAVERだ。
サカナクションは歌詞が、
SUPERBEAVERは渋谷くんのビブラートを利かせた声が好きだそうだ。
若手の俳優さんのことも結構わかっていたりして、
個人名を忘れてしまっても、
ほら、この前〇〇(役名)になっていたでしょ、
と言ったりする。

家の中もいつもスッキリと片付いていて、
気になるといつもお掃除をしてくれているが、
心配なのは、熱中し過ぎて具合が悪くなってしまうことだ。
そんな時、心を鬼にして叱る。
私がいない時に倒れたり、何かあったら
孤独死になってしまうのだから、
何かする時は時間を決めてやって欲しい。
なんならキッチンタイマーをかけてやってよね!
そう言われると不服そうだが、
いつまでも元気で一緒に暮らしていたいのだ。

私の母は、本当に普通の人で、有名でもなんでもないし、
いわゆる市井の人だ。
世の中にはもっとすごい人生を過ごされた方もいるだろう。
でも、私にとってはたった一人の母で、
時々母から聞く昔話は、私には到底できないような出来事ばかりだ。
せめて、母の人生をどんな形でもいいから残したいと思った。
いくら、母が奇跡の81歳だとしても、
一緒に元気に過ごせるのは数えるほどしか残っていないのかもしれない。
だとしたら、なおさら。
私のこの、拙い文章であっても。









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