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「海街チャチャチャ」が描く、心の治癒

砂浜に寄せる穏やかな波のように、人の心の柔らかい部分に浸透するようなドラマだと思った。

舞台は小さな海沿いの架空の町、コンジン。
ソウルで腕利きの歯科医だったへジンは、ある患者の治療を巡って利益優先の上司と対立し、歯科医としての良心と信念を曲げられず医院を退職してしまう。そしてなかなか次の就職先も見つからずにいる中で、ふとスマホに現れた「亡き母の誕生日」の通知に目が止まり、ひとり車を走らせ子供の頃に家族旅行で訪れた思い出の地、コンジンに向かう。コンジンで母との思い出と自らの胸中と向き合う中、地元の人達との偶然の出会いやアクシデントが重なって、へジンは大都会ソウルを離れ、この小さな海辺の田舎町で歯科医院を開業する事を決意する事となる。

その偶然の出会いの中でへジンが巡り会うのが、コンジンの住人達に毎日お節介を焼き、ありとあらゆる資格を持ってる謎の万屋(またの名をフリーター)、ホン班長ことドゥシクである。「バイトの時給は最低賃金」「初対面の人にも敬語は使わない」をモットーとしながら飄々と生きている青年で、コンジンに移り住んだへジンと様々な場面で関わることになり、ときに二人であーだこーだ言い合いながらもお互いの内面に少しずつ触れていく。

海街チャチャチャは「人との触れ合いが過去の痛みを癒す」がテーマのドラマだが、この大人達のヒーリングドラマを描く上で、主演の二人に演技力の高い30代の俳優シン・ミナとキム・ソノをキャスティングしたことが、ラブコメディのこの作品に一層の深みを与えていたと思う。

シン・ミナはすでにキャリア20年を超えるベテラン女優で、前作の「補佐官」(2019)では自らの強い信念に従ってどんな圧力にも屈しない国会議員を演じていた。今回彼女が演じたへジンも、歯科医の仕事にプライドと信念を持つ強い女性である。けれど思ってる事がつい口に出てしまったり、なんでも正面突破で突き進もうとするような、30代の大人にしては不器用な一面もある。本人は自分は完璧だと思ってるけれど、どこか抜けている。そのギャップをへジンのチャームポイントとして、シン・ミナは魅力的に表現している。

一方、ドゥシクを演じたキム・ソノは、現在35歳でドラマデビューが2017年と映像の世界では割とニューフェイスな俳優。それまでの彼のキャリアはというと、10年近く演劇界で活躍してきた舞台俳優だったそう。
ドゥシクの生き方はいわゆる世間体が生み出すような“規範”に縛られていないので、毎日ラフな格好に身を包み、コンジンの至る所にひょっこり現れては住民達にお節介を焼く。その自由で人懐っこいキャラクターがドラマ序盤の彼の魅力なのだが、実はドゥシクには「コンジンの誰にも知られていない秘密の過去」があり、その過去にこそ今の彼の生き方のルーツがある。キム・ソノは、この「人懐っこくて自由気ままだけれど、心の奥底に何かを秘めている青年」を、コミカルでチャーミングに、そして幼い頃に家族を失くした生い立ちなどが醸し出す繊細な心模様も時折交えながら、多面的に表現している。さすが舞台出身なだけあり、台詞の間の取り方や表情と体を使った感情表現が格段に上手い。へジンとドゥシクの会話のシーンは二人の呼吸がぴったりなこともあり、毎回本当に楽しく、そして時に胸を打たれて泣かされた。

(以下、ネタバレ含みます)

シン・ミナとキム・ソノが演じる“シッケカップル ”(ドゥシクのシク(sik)とヘジンのへ(hye)をとって“シッケカップル“と愛称がついた)の人柄と関係性で一番素敵だなと思ったのは、二人とも「相手に誠意を尽くそうとする」ところである。
とにかくこの二人は、相手の自尊心を傷つけてしまったり心の繊細な部分に不用意に踏み込んでしまったな…と感じたら、自分の過ちを反省して「ごめんなさい」と謝り、相手の心情や置かれた状況を理解しようと努める。勝気そうに見えるへジンが「実は心根が優しく相手を尊重できる人間」であることは、ガムニおばあさんがドゥシクに「あの子(へジン)は強がってるけど、本当は優しい子だよ。今まで苦労してきただろう。」と話したり、ドゥシクがへジンのお父さんに「歯科医(へジン)が自分の間違いを認めるのが早いのは、父親譲りか?」と尋ねるシーンにも表れている。そして実際、へジンが誠意を向ける相手はドゥシクだけでなく、自分の信念に従ってつい感情的に接してしまったガムニおばあさんや中華料理店のナムスク、母娘としての関係性にいまだ戸惑いを感じている継母、大学時代にみじめさを感じていた自分を救ってくれた先輩など、日々生きていく中で関わる身近な人達全員に向けられている。そしてそんな彼女の「温かい人柄」に触れていく中で、ドゥシクもまた、彼女がこれまでの人生で抱えてきた寂しさに寄り添おうとしたり、後に恋人になった彼女の真心に応えようとするなど、最大限の誠意を持ってヘジンに尽くそうとする。

しかし、この時点でのドゥシクからへジンに向けられる誠意は「献身的な行動として与えられるもの」(へジンのバケットリストに何でも応える、高価な物が買えない代わりに手作りのプレゼントを贈る、相手の料理が下手でも褒める…etc)で、自分の過去の秘密を含んだ「ありのままの自分」をへジンにさらけ出すことだけは、断固として避けている。反対に、ドゥシクにはありのままの自分を見せられると信じているへジンは、固く閉じられた彼の心の扉の存在に気付き、そこにどうしようもない距離感を感じてしまう。そしてこの溝が、ただただ楽しい時間だけを共有してきたカップルの大きな転換点となる。

へジンは幼い頃に母親を亡くして以降、早くから自立することを求められる環境で育った。そんな家庭環境や勉学と自活の両立に励んだ大学時代の影響があってか、ヘジンは何事もひとりで「即断即決」出来る大人になった。今までにたった数回しか訪れたことのない小さな海辺の町で開業することも、たった1日で誰にも相談せずに決めている。

ドゥシクとの間に生まれた溝は、自己決定権によってあらゆる問題を解決してきた彼女には対処できない類の問題だった。なのではじめこそ二人の間には少し距離が生まれてしまうが、ドゥシクを昔からよく知るコンジンの住人ファジョンからの「彼は幼い頃から大人びた子で、我慢を学んでしまったから弱音が吐けない。弱音を聞いてくれる人も長い間いなかった。」「へジンなら、ドゥシクの心のホットラインになれる。」という助言や、ふたりの仲を遠くで見守る自分の両親との会話を通じて、へジンは「ドゥシクと今まで通りの関係を続けていく中で、いつか彼が心の扉を開いてくれる日を待とう」という決心に至る。へジン自身が「自ら決断する事はせず、相手に委ねる」事を学んでいくのである。
このシーンもへジンの精一杯の誠意が感じられて、個人的にとても好きなシーン。シン・ミナの、自分の思いを抑えながら相手を受け入れようとする芝居がとてもいい。


さて、この物語のテーマ「人との触れ合いが過去の痛みを癒す」を描くための最大の出来事が「ドゥシクの秘密の過去」が明らかになる場面だ。全16話中14話まで「ドゥシクは昔ソウルで働いていた」「この町の誰もドゥシクの空白の5年間を知らない」「実は過去に精神科の通院歴がある」と小出しにされてきたドゥシクの過去が一気に明らかになるのが、最終話手前の15話である。ソウルから故郷のコンジンに帰ってきて以降、自身の過去について頑なに口を閉ざしてきたドゥシクだったが、ある出来事によって突如、コンジンの人達の前で彼の負の記憶の一部が明るみになってしまう(この時点ではへジンもドゥシクの過去をまだ知らない)。
では実際、過去の彼の身に一体何が起ったのか。かつてソウル大学の機械工学部の学生だったドゥシクには、家族の様に慕っている先輩夫婦がいた。そして大学卒業後は専攻が全く違うにも関わらず、先輩を追って同じ資産運用の会社に就職する。仕事に大きなやりがいを感じ稼ぎも良く、まさに順風満帆な日々を送るドゥシクだったが、世界的な金融危機の影響で、親しくしていた顧客のひとりが多額の負債を背負い自殺未遂を起こしてしまう。さらに悲劇は続き、激しく動揺しながら顧客の所に向かおうとするドゥシクを心配した先輩と乗った車が事故に巻き込まれ、先輩だけが命を落としてしまう。この一連の出来事の経緯だけを見ると、顧客は独断で多額の借金を抱えて投資を行っていたし、交通事故も対向車の前方不注意があったりと、ドゥシクに全ての責任があるとは言えない。しかし幼い時に家族を失くして以降、地元の人々や先輩夫婦などの支えがあって生きてきた孤独なドゥシクにとって、自分を慕ってくれていた顧客が自殺未遂をして重い後遺症を抱えてしまった事、そして心の隙間に温かい愛情を注いでくれた先輩の死は、若く繊細な彼にあまりにも重い罪の意識を背負わせた。さらに自分を家族のように可愛がってくれていた先輩の奥さんからは「あなたが死んでよ」という痛烈な言葉を投げかけられ、抗えぬ自責の念がドゥシクの心に焼印のように刻まれる。
そんな身も心も傷だらけの彼は、事故後に搬送された病院で先輩の訃報を聞いた直後、絶望感に押し潰されて自らの人生を絶つ事も実は考えたのだったが、彼にとっての育ての親のようなガムニおばあさんから久しぶりに届いた誤字だらけの何気ない一通のメールが、彼に再び生きようとする道を与える。それが、数年間の空白の後のコンジンへの帰郷の決断だった。
こうして「すべてを手放した人」の姿でコンジンに帰ってきたドゥシクは、深い心の傷と痛みに蓋をしながらお節介で飄々と生きるホン班長を演じることで、一日一日を生きてきた。自由で伸び伸びとしている彼にどこか刹那的な空気を感じていたのは、過去の悲痛な経験の影響だろう。

そしてこの一連のドゥシクの過去の告白は、へジンとドゥシク、二人だけの場面で描かれる。今までは「献身的に与える事」でへジンを幸せにしてきたドゥシクが、「あなたを受け入れる準備はできている」という姿勢を見せ続けたへジンに、ずっと蓋をしてきた心の傷も罪悪感も全て打ち明ける勇気を持つ。特にドゥシクの家で行われる告白のシーンは、お互いが「相手の心に誠意を尽くそうとする」二人の関係のハイライトのようで、見ていて胸が震えた。そして「泣いていいのよ。つらいのをずっと我慢して、心に重しを抱えて生きてきたのよね。私には“悲しい”と言っていい。”苦しい“と言っていいのよ。」と言ってドゥシクを抱きしめるへジンの姿には、彼女の愛に溢れた人柄がより一層表れている。

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こうして、全16話を通じて「人との触れ合いが過去の痛みを癒す」事を描いてきた海街チャチャチャだが、実はへジンの職業が「歯科医」である事にも、この作品のテーマが秘められていると思う。歯科医という職業は「へジンが手に職を持ち、経済的にも社会的にも自立している女性」である事を示す設定なのも事実だと思うが、「歯痛」は「心の痛み」のメタファー(両方とも外から見えない痛み)で、人が抱えるあらゆる痛みは「誰かに“口を開くこと”で治癒出来るかもしれない」というメッセージを、歯科医でドゥシクの最愛の人であるへジンに託して描こうとしているのだと思う。実際にドラマの中でも「歯痛はつらいですよね。自分以外はその痛さが分からないんです。」「みんな歯(親不知)を抜く事を怖がるけれど、痛みをずっと我慢するより、勇気を出して抜く方がいいです。」など、歯痛の治療と心の治癒の類似性を表すような台詞もいくつか登場する。

そして前述の通り、シン・ミナとキム・ソノの素晴らしい演技によってへジンとドゥシクの物語は一層深みを増し、胸を打つものになったと思うが、この物語の世界観を築き上げてくれたカメラ、照明、音響、編集などのスタッフさんたちの功績に、最後に一番感謝しなければならないと思う。それぞれのエピソードを何度か見て改めて気が付いたのだが、このドラマは人物と風景の撮り方や光の取り入れ方、音楽を入れるタイミングなど、視聴者がドラマの世界に浸るための工夫が緻密に施されている。シン・ミナとキム・ソノ、さらには脇を固める役者陣も含め、俳優達の芝居は大変素晴らしいものだったが、彼らの魅力が輝いたのは、製作陣の仕事があってこそのものだったと思う。このドラマは、このチームワークのおかげでここまで心に残る作品になったのだと感じる。


海街チャチャチャは、話の筋だけを見ると正直言ってそこに革新性や新鮮味はない。実際の地方暮らしはその土地のしきたりや世間体など縛られるものが多いだろうし、大変なことが沢山あると思う。そして物語は二人の結婚という、過去数十年の恋愛ドラマでお馴染みの展開で幕を閉じる。ここ数年、人々の恋愛観や人生観が変わっていく中で前時代的といえば前時代的だ。しかし、大都会で疲弊し傷ついた心と体をゆったりと流れる時間軸の中で生まれる人との交流や風景が癒してくれる事もあるし、へジンとドゥシクの結婚もこの二人の「相手に対する誠意の選択」としてはごく自然な事で納得がいく。物語の終着点に心が温かくなったのは、1話80分×16話という長丁場で描かれた登場人物の心理描写が、こちらの胸の奥にずっと浸透し続けてきたからだと思う。

海街チャチャチャを通じて、「頭であれこれ考えるより、胸を打たれて感動してしまう」という個人的にはなかなか得難い経験をした。ガムニおばあさんが「人と関わって生きていくと、お前が私をおぶってくれたように、誰かがお前をおぶってくれる。」とドゥシクに伝えたように、勇気と誠意を持って人と関わって行けば大人になるたびに増えていく心の傷もいつかは癒えるのかもしれない。
きっとまた何度もこの作品を見るだろうし、約2ヶ月に渡って心温まる充実した時間を与えてくれた事に、心から感謝したい。

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