天雨

 目を閉じていてさえ眼裏を灼く、無遠慮な光が嫌いだった。

 その日は彼女の、一世一代の晴れ舞台だった。
 日の神を祀るこの村で、一番の神楽巫女。これまでの神事でも度々見事な舞いを納めてきた彼女が臨むのは、一二〇年に一度の特別な神事だ。
 村の古老が、前回のそれを見たという親からの口伝をもとに場を整え、衣装を誂える。……たった数人の古老も、その神事を直に見たことはないのだ。

「正しく舞えるかしら」
「きっと大丈夫。いつも通り、できる」
 不安げに私にこぼす声は、村の人を燦然と照らす彼女らしからぬ、しとしとと柔らかな雨のよう。
 みなを家族のように扱う彼女の中で尚、私は間違いなく特別だった。私だけは、彼女が照らさなくてもいい人間だった。
 気弱に湿っていても許される。形を持たない光ではなく、人肌に触れて温められる雨滴になって構わない。それは彼女が求め、私が許した、村の誰にも、神にさえ秘密の約束だ。
 神楽巫女の付き人として、舞台の端に控える役目を与えられた私に、彼女は喜んだ。彼女が光でなくなることを許されるのは、私と二人きりのときに限られる。人前で曇ることはできないが、私がいればそれだけで心が安らぐのだと、ひっそり笑ってくれた。
「この神楽を納めたら、私はお役御免なのですって」
 神事の前日、傾いた日の残光から逃れるように物陰へ潜み、彼女は耳打ちした。
「私、とてもうれしいの。巫女でなくなれば、誰に隠すこともなくあなたといられる。人に、戻れる」
 あなたとひとつになって、子をなすことも。
 そう言って、目を伏せる。この暗い物陰で、彼女の頬を染めたのは、無為に地を撫でる夕日などではない。それがひどく心地よくて、私は彼女の頬を撫で、細い体を抱きしめた。

 正午を前に、彼女はきらびやかな衣装を纏い、婚礼衣装にも似た白と金に飾られる。
 雲一つない快晴は、日の神が神事を心待ちにして、地上をよくよく照覧なさっているのだと、古老たちが浮足立っていた。
「見よ、巫女様のあのきらびやかなお姿」
「まこと、日の神の化身としか思えぬ」
「天女様のよう」
 囀る村人をよそにしずしずと舞台へ歩を進め、彼女と離れて付き人の定位置へ腰を落ち着ける。
 離れ際の一瞬、ちらりと彼女の歩揺(かんざし)が鳴った。顔を伏せたまま視線を向ければ、彼女もまた同じように、ひそやかに私を見ている。視線が交われば、瞬きを一つ。
 それだけで、私たちは互いの心を確かめ合えた。

 中天の白日を振り仰ぎ、神楽舞は執り行われる。
 巫女の舞を見るのは祭神のみ。付き人も村人も、巫女が舞台に上がると同時、みな膝をついて顔を伏せるのが習わしだ。歩揺が鳴り、舞台を踏んだ羽のごとき軽い足音と、領巾(ひれ)と扇の翻るかすかな風の声にただ耳を澄ます。
 日が出ている時間をひたすらに舞の練習に捧げてきた、常の彼女が立てる音と何ら変わりのない音が、つつがない舞の進行を教えてくれる。そうしてただ項を日差しにさらして彼女を待つ時間は、じりじりと過ぎた。
 最後の衣擦れが止まり、一切の無音が村を覆う。

 終わったのだ。

 舞台を降りれば彼女は、この先長く続く人としての暮らしを、私と共にしてくれる。
 歓喜に震える体を抑え込み、舞台中央から私が控える階段へ踏み出す彼女の足音を待っていた私の耳に、異音が滑り込んだ。
 ざぁ、万雷の拍手めいた雨音とともに、日に晒していた項へ冷たい水が跳ねる。
 青に塗りつぶしたような晴れ空から、雨が降り出したのだ。
 驚きに顔を上げてみれば眩いばかりの快晴はそのまま、降り注ぐ雨が日に輝いてちかちかと舞台に金剛石を散りばめる。
「お迎えじゃ」
 古老のしわがれた声が地に転がり、それに続けて村人たちの呻き声が連鎖した。
「目が」
「痛い、眩しい」
「目が潰れる」
 天雨の金剛石は錐となって見る者の目を刺し、光によって光を奪う。
 私は思わずその場に立ち上がり、彼女の名を呼んだ。よろめくように私のほうへ傾いた体を受け止めようと、階に足をかけ、手を伸ばす。
 ちかちかと光に刺されて白く欠けていく視界の中で、彼女は日に透けるように掻き消えていった。

 私が伸ばした手は彼女に触れることはなく、最後、雨に紛れたかそけき声が私を呼んだのを聞くばかりだった。
 あの光によって盲目となった者は少なくなかったが、みなすぐに目を開けられるようになり、消えた神楽巫女を「神嫁として召されたのだ」「めでたいことだ」と口々に語る。巫女を神嫁として捧げる儀式であったことは、古老のうちでも一人しか知らなかったことだが、村人は古老が語ればすぐに納得したらしい。
 神の前に立ち上がったばかりか、神嫁の名を呼びその身に触れようとした――私が光を取り戻さないのは道理であるとされ、神に盾突いた不埒者として村を追放されることになった。
 村が盲人ひとりを身一つで放り出したその日から、私の行く先々に髪を湿らすほどの優しい雨が降る。そうして、どうしようもないほど飢えて倒れそうになると、決まって天雨に見舞われるのだ。
 天雨の中でだけ、私の目は光を得る。ものを見ることができる。
 私の優しい雨は、私から彼女を奪った忌々しい日とともにでなければ見ることが叶わない。
 いっそ私を凍えさせ、冷たい雨で命を奪ってくれればいいのに、いくらそう願っても彼女は優しいまま、私を湿らせるばかりなのだ。


※Twitterでフォロワーさんにお題をいただいた書いたものです

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