喜望峰 〜叙事詩『月の鯨』第一の手紙(7)~
鯨群の潮吹きを
ことさら秘蹟めいたものにしたのは
不思議なほど清澄な天候だった
倦怠と孤独を誘う静かの海
まるで何かの呪符のような
絶対的な紺碧と
虚無
それは確かに前触れだった
海は少しずつ、静かに
太古の相貌を顕にしていったのだ
それは荒天や嵐とは違う
凪の延長にある怒り
とてつもなく静かな崩壊だった
船は海底に沈み込むように
深淵の暗がりまで下がっていった
時間は怖ろしくゆっくりと流れ
やがて反転した
徐々に海は膨れていく
極限まで吐ききった後の吸気のように
それは巨大なエネルギーとなって
船を天頂近くまで押し上げた
太陽や月にぶつかるかと感じられた
その瞬間
全ての音が世界から消える
船は再び下降をはじめる
長い時間をかけて海溝の暗闇に沈んでいく
それは現実の出来事ではなかったのだろう
おそらく地磁気の急激な変化により
オレたちの頭に変調が起きたのだ
そう
この船は超えようとしていたのである
もうひとつの海への入口
喜望峰
いにしえからの呼び名
月の鯨の棲む海への入口
この先から帰ることのできた船は数少ない
船の上昇と下降はおそらく何週間も続いた
船は幻想と現実の間を航海した
オレは何度も夢を見た
それは未来の現実だったのかもしれない
虚空に空いた巨大な暗黒
オレはその中に吸い込まれいく
それは月の鯨の腹に通じていた
オレの船員仲間を吸い込み
船長の片脚を食いちぎり
その息子を飲み込み
かの海坊主が三日間を過ごしたという
月の鯨の体内に通じる暗黒
孤高の存在である月の鯨は
この宇宙を統べる者でもあるのか
そして喜望峰
罪ある者が鳥や魚に変貌させられ
隠れ場もない永劫の海をさまよい
地平線のない大気を羽ばたき続けるという
喜望峰の呪いは
オレたちの船にも襲いかかろうとしていたのだ