輪廻転生ではなく、成仏。
我儘なのが必ずひとりいる人間関係に巻き込まれて、せっかく明るく楽しくわたしらしく“好き”を追い求めていても努力しても、その気持ちは萎えてきてしまう。そんな悪循環から解放される方法があったら誰かに教わりたい。これは、風の時代に先ず、所望するところ。今年はだんだんとよくなる。そう決めている。
我儘を優先させる中で我慢を強いられてしまうのは、わたしが派遣スタッフという弱い立場に在るからかもしれないし、我儘なのよりも大人だからかもしれない。しかし、どこに行っても、必ずというくらい我を通す強さが半端ないヒトっているものだ。しかも、わたしが配慮すればするほど当たってくる。周りの人は状況をわかっていながら腫れ物には触れたくないのか、皆、その事実は暗黙し関わらないようにしている。なんとなく風通しが悪く、全体的に妙な気を使わなくてはならない。組織化したその集団には巻き込まれたくない。そんなパターンから解放されたい。
最近、人生の最終目標は“成仏”、というところまで、精神的に追い詰められたのは、その集団的人間関係からの離脱を意味していて、大袈裟に言えば、カースト制度で虐げられる階層は変わらないのに、善行を積めば輪廻転生から解脱出来るという宗教観に似ている。日本では、仏陀の教えは中国を経て仏教として伝播されてから様々な宗派の教えを生み洗練されてきた。その過程では、誰もが成仏できるという教えに到達するほど円熟もしている。
今、わたしが求めているのは、遠く人類の歴史からなる“苦しみからの解放”なのかもしれない。仏陀は、かつては何不自由無く暮らす雲の上の王子様だった。民の暮らしを知り、苦しみがあることを知り、どうしたら無くすことができるのか、教えを得るために雲の上から民のいる地に舞い降りた。そこで数々の修行となる経験をするも苦しみは消えない。最終的には死の直前に一杯の白湯の施しを受け、生命を取り戻し光明を見出し、瞑想を経て、悟りに至った。そこから、本当の教えと学びが始まってゆく。
現代とは比較にならない時代の話ではあるけれど、人生の節々で仏陀の生涯が断片的にわたしの前に“教え”となって現れる。数々の救いを経て、いまのわたしとなっている。輪廻転生ではなく、解脱でもなく、成仏が人生最後の目標というのは、振り返るとそんな道筋を感じるからだった。
人間関係や集団の一員になることは、その一部の役割を担うことを意味していて、わたしが俯瞰するその集団の中のわたしは、我儘なヒトを守るための当たられ役みたいな望まないポジションにされてゆく。多勢に無勢では、わかっていても利用されていることを受け入れなくてはならない。契約条件にそれは含まれてはいないけれど、暗黙のルールが日本の集団には少なからずあり、対価の一部として容認しなければそこで働きにくくなるような圧を感じる。長年築かれた人間関係やその集団にある風土に、なかなか馴染むことが出来ない。常に、心理的な距離を置き、状況を俯瞰して、勤務時間中にできる限り負担を強いられないようにしながら契約条件にある仕事をして、“気持ちよく帰る”がささやかなわたしのミッション。
修行ではなく、楽になりたい。
帰宅後にTVでは、深刻な世界情勢や社会問題のニュースか、アイドルや芸人が食べまくるバラエティばかり。見ていて共感できるヒトモノコトが少なくなったなと感じる。どこに行けば、何をすれば、心の空虚を埋めることができるんだろう。信じられる世界に在りたい。
毎日の終わりを経て、新しい朝を迎える。
きっと、だんだん、よくなってゆく。