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”自然”という言葉の意味を改めて考える

We are a part of Nature, not apart from Nature(私たちは自然から離れたものではなく、自然の一部である。)」

オックスフォード英語辞典では、かつて自然という意味に”植物、動物、地球そのものの特徴や産物を指し、人間や人間の創造物とは対照的”という記述がなされていたそうです。人間を自然と別物とする考え方は、数千年にわたる西洋の思想に根ざしている。私は、そういう考え方に触れる度、旧約聖書に出てくる”アダムとイブ”を思い出します。かつては楽園に生きていた二人は、食べてはいけないと忠告されていた”禁断の果実”を、蛇に唆されて食してしまったために楽園を追放されてしまう。そしてそれは、”原罪”として、二人の子孫となる”ヒト”に永遠なる苦しみを与えることになる。

紀元前の西洋の物語は、東洋にも影響を及ぼしてゆく。
古くはインダス文明のモヘンジョ・ダロ。文字を持たない文明は解明されていないことが多く、現代に生きる者にとっては推測に過ぎない。とはいえ、大いなる悠久の遺跡では、多くの少数民族が特定の指導者の統率がなくとも争うことなく暮らしていたと解釈されていることは、西洋との大きな違いを感じる。平穏な時間を争い事や身分を決めて統率することに向かわせたのは、アーリア人やアレクサンドロス大王の大群による領土拡大に巻き込まれていったから。攻め入られたことにより”恐怖”を抱き、自分たちの領土を守るために、団結する上では秩序の形成が必要だと判断し、後に悪名高い”カースト制度”というルールが定められ、今に至っている(最近は新たなIT系職業が増えたことで、制度を離脱する層も出てきている)、という歴史を、先日、学びなおししたところだった。人類の歴史は繋がっているのですね。

全ての過去の呪縛から放たれるためかどうかはさておき、自然という言葉の定義を見直そうという運動があることを、最近になって知りました。あなたにとって”自然とは?”・・・改めて、考えてみることはとても有意義な時間になりそうです。宗教を超えて、人類は過去の“過ち”から解放される可能性があるのですから。

とはいえ、原罪があるからこそ、ヒトは謙虚になれるのかもしれません。
私は敬虔なカトリック信者ではないし、仏教の宗派も曖昧な家庭で育っているので、どちらの教えについても多くを語れる立場ではありませんが、過去の歴史は知れば知るほど、ヒトは、ルールがなければ果てしなく争い、利潤を追い求めるものなのかもしれない、という結論に至ってきたわけで、歴史は、繰り返されてきたのです。

話は変わりますが、コロナの自粛期間を経て、個人的にはできるかぎりシンプルに、暮らしを見直しています。地球温暖化の最大要因と言われる”エネルギーの使い過ぎ”を抑えるために、それまでの慣習的な経済についても考えを改めないといけない、とすら思っています。コロナのタイミングで”風の時代”も始まりましたから、これは、自然界からの”シフト・チェンジ”のサインのようにも感じるのです。

自然界の一部にヒトが回帰するために、自らが回帰するために、”自然”とは何だろう?・・・自分自身で、ひとつの解を探す旅に出るのが風の時代。
もちろん、急に変わろうとすると、反動のストレスは計り知れないので、できることから、無理せずに、一人ひとりが楽園に還るための物語を描く時代に入ったと考えてみると、なんとなくいろいろと腑に落ちてゆきます。カラフルな花が咲く様に、それぞれが楽しみながら、地球の自然の一部に回帰してゆく。そんなストーリー、描けるといいなぁ。
私の脳内はファンタジーかもしれませんが、心に明かりが灯ることで満たされるって、至福です。世界の争いが止みます様に。願うとともに、これからの寒い冬に、おうちでホッコリするクリエイティブな時間を楽しみます。

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