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ファン活と推し活

11/3、20代の頃から大ファンのアーティストのLiveに参加してきました。ファン(英: fan)は、特定の人物や事象に対する支持者や愛好者のこと。「熱狂的な」を意味するファナティック(英: fanatic)の略です。
”熱狂”という言葉が当てはまるかどうかはわからないけれど(私はわりと客観性があるタイプ)、20代の頃はとにかく、飽きることなく毎日、同じアルバムを聴き続けていたことを思い出します。当時は、今のようにAppleMusicやSpotifyのようなストリーミング配信なんてなくて、メインはCD。鞄に持って運ぶ音楽としては嵩張るデバイスでしたが、肩がどれだけ重みの負担を感じようとも、ファンはそんなことを苦にしません。通勤の朝晩、その音楽を聴くことが、もしかしたら1日の1番の楽しみだったかもしれない。そして、子守歌のようにアルバムを聴きながら眠りにつく。今思うと、その純粋さが愛おしいくらい、1枚のアルバムを聴き続けていました。当時は、1年に1枚、新しいアルバムが発表されていたので、1年毎に描かれていくストーリーの変容を音楽を通して少しずつ、身体に浸透させていくような感覚がありました。多感な時期に聴く音楽は、生涯を通じての感受性に多大なる影響を与えていくもの。そうあらためて気付いたのは、その頃から四半世紀を過ぎた今。自分の中に根付いた”愛着”という感覚の原点は、このアーティストにあったんだなって思います。

実は、このアーティストの音楽から離れた時期もありました。彼女はものすごい大恋愛をした末に、無事、ゴールインを果たすのですが、その想いが前面に溢れている時期のアルバムはキラキラし過ぎていて、私には響かなかった。とてもチャレンジングにキャラを変容させようとしていた印象もあったし、私自身はそんな大恋愛をしたことがなく、お相手の影響が多大な時期は、なんとなく距離感を感じてしまったのでしょう。年齢的にも、そのギャップを感じやすかったのだと思います。そして、その頃に、私は、ボサノヴァとかジャズとか、自分の感覚が赴くままに音楽のジャンルを開拓していく楽しさを覚えていきました。音楽に対する独り立ちとでもいいましょうか。そのアーティストに依存することなく、でも、愛着として根付いたグルーブを基にしつつ、自分の感覚を頼りに音楽を聴き続ける日々。その旅路は、自分自身を多少なりとも成長させてくれていったと思います。そして、全く系統の違う別のアーティストとの出会いにインパクトを受けることになる。・・・シチュエーションが異なるとはいえ、彼女が大恋愛を経て変容した時期のそれは、私の身にも起きていたんだな。改めて振り返り、そんなことに今朝、気づきました。

ちなみに、発表されるアルバムは殆ど、買い続けてきました。影響は長くは続かないのです。アーティスト本来のキャラクターが戻ってきてからのアルバムは、その人自身の魅力を物語るに相応しい出来栄え。というのは、私の主観でしかないですけどね。ギャップが埋まってからは、引き続き、ファンとしてアルバムを聴き続け、今日に至っています。

昨今、”推し活”という言葉がトレンド、というか、文化として定着していますが、私は、”ファン”と”推し活”って、微妙に違いを感じます。20代の頃の私は、アーティストの”推し活”をしていたのか?いや、当時は、事務所が彼女を”推し”ていて、その結果、PR活動により認知され、そこにインスパイアされた人々が”ファン”になってゆく。そういう、今でいうと業界の”戦略”に感覚の一致を得た話で、そのアーティストを”私は推す”と宣言はしていなかったと思うのです。シンプルに、ただ、1視聴者として作品を聴くのみ。聴く人の感覚は人それぞれ。個としての自分自身を脇に置き、彼女を”推す”という感覚はなかった。そのアーティストが描く物語に共感、共鳴して、紡がれてゆく楽曲に、個人のアイデンティティが影響を受けてゆく。ある意味、共同体のような感覚。それは、今の時代の”コミュニティ”に近いかもしれません。今年のライブでは、ステージ上の彼女のパフォーマンスを見守りながら、会場全体の観客全てが一つにまとまったような感覚を肌身に感じることができました。素晴らしかった!!!

今の”推し活”も、自分を脇に置くという意味はないかもしれない。でも、”推す”ことにより、自分に対するエネルギーって分散されてしまうような気がします。”推す”感覚でコミュニティのような一体感を得ることに変わりはないとは思いますが・・・。今は、事務所の推しより、推すことで自己の存在を認知する、ということなのかな。そういう意味では、より、アーティストに近い存在として一体感を得られているのかもしれませんね。

何はともあれ、自分の”大好き”を自分以外に見つけることができるって、やっぱり幸せなことだと思います。自己愛も大事だけれど、内なる小宇宙に籠るだけでは、大いなる宇宙を知ることはできないのだから。音楽って、言語の違いや生まれの違いなどを超えて、”感覚的に”繋がり合える自由があるのが素晴らしい。世界がこれから協調していくためには、やっぱり”音”を通じて楽しむことは、大事な要素だと思いました。



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