八幡SAのラムネ憧憬
広島からの帰りの高速バス。
八幡の休憩所に近づくころ、時刻は午後5時前。
雲の少ない穏やかな日だった。
騒々しい夢を見たうたたねから目覚めると、美しい陰影を見せる山々、柔和な色合いの空。
バスを降りれば、暖かい日差しに冷たい空気、自由の空気。
サービスエリアのセブンイレブンで買った大和ラムネを、歩きながら飲もうとビー玉を中へ押しやった。
するとプシュウと音と音を立て、水しぶきと泡が噴き出し、お気に入りのコートの襟とズボンはラムネまみれになった。
慌ててトイレへ駈け込んで水で濡らしたが、これはいけない。
これはいけないが…
ドキドキした。
ドキドキしたが、最高だった。
美しい景色。
ラムネが噴出した瞬間思ったのだ。
なぜかこう思ったのだ。
これが私の生き方だ。
ムチャクチャにやろう、と。
ただの考えなしの阿呆ともいう。
ラムネを飲んだことのあるオトナなら、いや子どもでも、その経験から服が汚れたりしないよう、慎重に、気をつけて開栓するだろう。こぼしたりしたら顔をしかめるだろう。
違うんだ、それじゃだめだ。
寝起きのぼんやりした頭で、買ったばかりのラムネの開け方がわからず、確かビー玉を力いっぱい押すんじゃなかったか?と、とにかく押してみた。
ラムネが噴き出すなんて予想外だった。
いや、過去に何度もラムネを飲んだことがあるし、開けるたびに吹き出す砂糖水をさけて思わず腰を引き、足踏みをしたことがある。
しかしそんなことはすっかり忘れ思いきりやったせいで、ラムネは盛大に吹き上がり、降りかかってきた。
そのときの驚きはわずらわしさではなく、
心に満ちたのは無邪気な嬉しさであり、
またバス内の乾いた空気に無防備なのどをさらして寝ていたので、
一口飲んだとき、それはもう格別にしみこむ甘さと炭酸の清涼感だった。
そして吹き上がったラムネと、それを照らす、雲一つない晴れ空から差す夕方の日差しと輝く山々は、言いようもなく美しい光景で、
私はもう、それはもうメチャクチャ生きてやらねばと思ったのだ。
これを手帳に書き留めている間にも、すでに濡れた手が乾いて、洗い残したところがベタベタしてきた。
手の不快感はわずらわしい限りだが、夕方の高速道路は私にとって非常にノスタルジックだった。
遊び疲れ、朝連れていかれたのと同じようにまた車に乗せられ運ばれていく。
幼いころ両親は週末になるとよく車で遊びにつれて行ってくれた。
あるときは国立の運動公園、あるときは海に、あるときは帰りに温泉までついていた。(私は温泉が大好きだった。両親がフンパツして連れてきてくれたサファリパークにつくなり「ねえ温泉は?」と聞くほどだ。母に何度それをいじられたか)
何も考えなくてよい私は、一日動き回ってけだるい体を後部座席へ横たえながら、あるいはその小さな頭を窓ガラスにもたせかけながら、
目が焦点をはっきり結ぶ前に次から次へと後ろへ流れて行ってしまう中央分離帯やそこに植えられた灌木なんかを眺めていたものだ。
上からぼんやりと、一滴の藍を済んだ水に混ぜ込んだような青海から、
地平に向けてかすんだ遠い黄色を通って赤。
どこから立ち現れたか知らない赤にほんのり染まって、その真下に、急に現実感をもってぬっとそびえる山々。
夕日を背に隠してまっくろだ。