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商業的文章はいつどこで

もうあまり、自分に時間はないんだなぁと思う。文芸を商売にして生きるにしても、今から文豪を読むにはもう残された時間が少ない。もちろんこれから先じっくりと古い文豪たちの本も読んでいくんだろうけど、読書経験の浅い、文学少女でもなかった私にそれを今からすべてする時間はないんだと思う。

図書館で村山由佳小説を3冊借りてきた。今まで10代から読んできた小説をもう一度見直そうと思うのだ。それならできる。思えば私は、初めて「好きな作家」としてハマったのが高校生のときのこの村山由佳小説で、高校の図書室の「新刊コーナー」にあった「青のフェルマータ」だった。
もう20年くらい前の話だから内容は忘れてしまったけど、たいして楽しくもなく鬱々と受験勉強だけをして3年間過ごしていた高校生の私に、心に風穴をほんの少し開けて、清々しい風のように吹いていったのだ。それから「天使の卵」や「野性の風」などを借りて、続いて読んでいた。

某作家さんのライティング講座に2回(トータル9回)参加して思うことは、参加する人はやっぱり自伝を書く。私もそうだった。もちろんそうした創作を楽しむ講座だからこれはこれでいいんだと思うけど、自伝はなかなか他人に捧げる文章には成立しにくい…って自伝を商業出版した私はそれを痛感している。他者に捧げる文章は自己から遊離して、随筆でも小説でもきちんと「ものがたり」がそのなかで生き物のように生きて動いていく。そういうのはやっぱり素人がその場で付け焼き刃で書いたような文章では、それがいかに無意識下に押し込められたものの拾い上げであっても他人を喜ばせることまで引き上げられるには難しい。
そういう場は、「体験のシェア」になってしまう。なんなら友達作り。生涯の友をつくるにはいい。でも、それで終わっていいのかと私は自分に強く問った。

村山由佳さんもあるインタビューで言っていたが、やっぱり人生にいい影響を与えてきた本というのは現実を書いた本ではなく「優れたフィクション」だ、と。確かに私も悩んだ時は大平光代さんの「だから、あなたも生きぬいて」や乙武洋匡さんの「五体不満足」には救われたし、闘病記や伝記を読むのも好きだ。もちろんこれらは素晴らしい作品だけど、違う世界を旅できない。脳というのは複雑な構造でリアリティというのは非常に重層的だ。スピリチュアルであったりSFであったり、謎解きであったり、宗教、倫理、生、性、死…人はいろんな視点から世界をいかようにも把握できる。それが「心」ってもんで、それを刺激するのが優れたフィクションなんだろう。
映画タイタニックもジャックとローズの純愛物語がなかったら、私はあんなに泣かなかったと思う。
優れたフィクションを書くことはまだまだ勉強中だ。何作か書いてわかったことだが、まだ私には時間がいる。一度書いた原稿を寝かせて次の日読んで足したり引いたりして、また次の日読んで足したり引いたりして、そうして文字数を増やしているとときどき「やべえやつ」という文と世界観が出てくる。どこかの誰かのプロ作家の模倣的な文章なのか、自分の内なるものなのか、よくわからないけれどとにかく「わしはこれが書きたいんじゃー!」というなにか人間の心としては狂気の沙汰という領域の何かが出る。
作家が作家を止められないのはこれが産まれたときの体験の興奮を知っているからじゃないかな。そういう文章ってのは書き手の地底に住む一貫した何か、というもので、そのうち文体も安定して、バラエティーも出て、プロ作家さんになれば得意分野に発展していくんだろうなと思う。そのためには結局、数をなんぼでも書いて覚える、これしかないんだ。

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