母の遺伝子

母は国語の教員免許があるそうだ。嫁いで父と商いを始めた母だが、母もまた接客の合間をぬってよく書く人だった。
母は京都の女子大の国文科に入学、中でも藤原定家などの平安文学や梅原猛、樋口一葉、俵万智など仏教文学や女流文学を愛していた。
今私が無我夢中で何かを書こうとしていること、美しい日本語に触れたいと思うのは、この遺伝子が影響しているのだろう。
母はおよそ25才頃就職により国語の道を閉ざしたが、私もおよそ25才の就職の頃から国語の道が始まった。
私は決して国語が得意ではなかった。それどころか全教科で1番苦手だった。忘れもせぬ高校の実力テストでは、なんと200点満点中60点を取ってしまった。100点満点に換算したら30点…。私には文章読解する思慮深さもなければ、筆者に共鳴する力もなかった。バシッと公式がある数学や物理のほうがよほど好きだった。

読むことは嫌いでも、書くことは好きだった。
変だなと思うし、変だねとも言われるのだが、よくコタツで短歌を詠んでいた母のことを思えば私の中で納得がいく。
小さい頃から母が何か書いている横で、私もまた何か書いていた。当時「公募ガイド」という雑誌を母はよく買ってきた。何かの小遣い稼ぎになればいいと母も懸賞や文芸コンクールに応募し、私も小遣い稼ぎになればとまたパラパラ公募ガイドをめくって、小中学生が応募できるコンクールに応募していたのである。

寝るときに母は、「窓際のトットちゃん(黒柳徹子著)」を1項目ずつ読んでくれた。これは私と母の思い出の中で最も美しい記憶。
私はトットちゃんと破天荒な生き方に感銘を受けつつ安らぎのなかに眠った。中でも「やすあきちゃんが死んだ」という項目が小学生なりに痛く切なく好きだった。トットちゃん(黒柳徹子)が小児麻痺のクラスメートの死を経験する話だ。母の前で泣くのもなんだか恥ずかしいから、布団をかぶって隠れて何もないふりをして母の朗読を聞いていた。そしていつの間にかまた眠っていた。

なぜ自分がここまで書くことに躍起になるのかよくわからなくないときは、母のことを想う。母の遺伝子を受け継いでいるのならしょうがない。母は決して商業的に何かを書きたい人ではなかった。だからこそ母の書く文や短歌には売れることなどとうてい意識しない、素朴で純粋な優しい表現があった。なんでも商業的な判断が下される今よりは、いい時代だったのかもしれない。親の表現がそのまま娘の心を育てる材料になったのだから。

私が小学校を卒業するとき、母はPTAの卒業文集に川柳を寄せた。当時私は花の詩画集で有名な星野富弘さんのペンペン草の詩画にハマっていた。それを受けてのうたである。
星野さんの詩はこうだ。
「神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたら
そんな日が本当に来るような気がした」

続けて母はこう詠んだ。

「富弘のペンペン草の詩(うた)が好き
こんなうれしいことをつぶやく」

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