よしもとばななさんのnoteを購読して

今さらだがよしもとばななさんのnoteを購読した。一記事ごとに3エッセイ(掌編小説)くらいあってボリューム満点でもうお腹いっぱいということに感激し、さらにいいねが一記事に1000個もつくのであれば、これはもう本物の文豪やなぁと唸らざるをえない。
読むほうの文芸の楽しさというのは、私の場合「知らないことを教えてくれる」ということが一番巨大な欲求としてあって、そういう世界を与えてくれる人、そういう知識を与えてくれる人を追いかけたくなる。

小学校の時の愛読書は「窓際のトットちゃん(黒柳徹子)」「サラダ記念日(俵万智)」で、中学では「銃口(三浦綾子)」「TSUGUMI(よしもとばなな)」になり、高校で「青のフェルマータ、天使の卵(村山由佳)」などへと変遷していった。まったく自慢にならないが私は明治~大正~昭和の文豪というのに興味が全くわかず、おそらく国語の授業で夏目漱石や太宰治、芥川龍之介、三島由紀夫などの面白さを私は「つまらない」と即刻断定してしまったんだろう。国語、キライだったもんな。全教科の中で一番成績悪かったし。だって、200点満点中60点だったんだぜ?
ほんとに現代文を読み解くセンスもなかったけど、子供の小学校の学習状況を見ても、音読させて接続詞のはたらきを覚えさせて…という味わいのない無味乾燥な教育は現代も続いているようだ。文芸は文法教室ではなく、身体的な読書体験を提供してその人の人生や心に大きかろうが小さかろうが変化をもたらすものだ。
突飛に聞こえるかもしれないがその最たるものが聖書なんだろうな、とふと自分の本棚を眺めて思う。高校生のとき、電車通学をしながら「聖書は世界のベストセラー」と窓越しにある民家のペンキで殴りがいたような大きな書き込みがあり、クリスチャンと縁がなかった私は気持ち悪いと感じていたけれど、クリスチャンになった今は、この聖書が永遠普遍的に老若男女年齢問わず、神の言葉を信託した者の記述したものとして、たった一行読んだだけで信仰さえ持つひとが絶えないのだから、やっぱり文字の力ってすげえんだ。

名誉や欲、マスターベーションのために書かれた文章は人を動かすことができなくて、やっぱり他者のために書かれた文章というのはそこにはっきりと一線を画すものがある。たまたま「人のためにかいたっぽくなった」的な文章になるものもあるけれど、やっぱりきちんとお金をもらっている作者というのは他者への貢献のために作品を一行一行、思いやりで描いていると思う。

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